第6話(過去)

 一八九七年三月、ペテルブルクで僕の交響曲第一番が初演された。まったくの失敗に終わった。演奏が終わったあとの会場には、拍手と歓声の代わりに不穏な空気が立ち込めた。

 嫌な予感はリハーサルのときからしていた。練習量はまったく足りず、指揮をしたグラズノフはそれを誤魔化すために勝手に楽譜を変えた。指揮しづらいスケルツォの一部をカットし、オーケストレーションも全体的に変更してしまった。僕は何度も「楽譜どおりに演奏してくれ」と彼に頼んだが、その願いは叶わなかった。僕の初めての交響曲は完全に破綻した。


「この曲はペテルブルクで初演をしてはどうだろうか?」

 そう言ったのはタネーエフ先生だった。僕は交響曲第一番のスコアを書き上げたものの、オーケストレーションが気に入らず、助言を仰ぎに先生の家に来ていた。

 音楽院を卒業してから、いくつかの曲を作曲した。そのうちの数曲をジロティが海外のコンサートで演奏してくれ、少しずつ音楽家として名が知られつつあった。

「メロディの暗さはいまさら致し方ないが」とタネーエフ先生は断りをいれながらも、「モスクワで埋もれさせるのは、いかがなものだろうか」と言った。一八九三年にチャイコフスキーが逝去してからというもの、モスクワの音楽界はすっかり生気を失っていた。

 ペテルブルクでは、その当時、音楽出版社で富裕な篤志家のミトロファン・ベリャーエフが幅を利かせていた。彼は、ペテルブルク音楽界の重鎮リムスキー=コルサコフと、作曲家のリャードフ、グラズノフに委嘱して自らの出版社で買い上げる作品を選別し、また将来有望な若い音楽家に惜しみない援助を買って出た。そのときの第一線で活躍していたほとんどすべての作曲家が〈ベリャーエフ・グループ〉と関わっていたと言っても過言ではない。スクリャービンがベリャーエフと契約を結んだと聞いたのは、その二年ほど前のことになる。だが、僕はまだ接触の機会を持っていなかった。

「ベリャーエフ氏に話をしてみよう」

 タネーエフ先生はそう僕に約束し、ペテルブルクでの初演が実現した。


 演奏が終わったばかりの会場は、困惑のざわめきと誹謗中傷に満ちあふれていた。僕はいたたまれずに、そこを抜け出した。

「主題は貧困、リズムは歪んで、和声は凝り過ぎて病的だ。こんな曲を称賛するのは、地獄の住人以外にはいない」

 客席の途中で耳に入った揶揄するような鋭い囁きに目を上げると、冷静な表情のリムスキー=コルサコフと目が合った。隣の男が彼に、僕の音楽の難点をあげつらっていた。「まったく理解しがたい」とリムスキーは深いバリトン・ボイスで応える。僕は耐えられず、視線を外し、ホールの外へと向かった。

 会場の外の夜気はまだ春には遠く、ひんやりと身体に染み透った。僕は上着の内ポケットから煙草ケースを取り出すと、一本咥えて燐寸で火を点けた。苦い煙を臓腑の隅々にまで深く吸い込み、細く震える息で吐き出す。

 ふふふ、と嗤う気配を背後に感じた。僕は昏い瞳で振り返った。スクリャービンだった。

「僕を笑いにきたのか?」

 僕の声は、自分でもゾッとするほど冷たく響いた。スクリャービンは、血相を変えて小走りで近づいてきた。彼と会うのは久しぶりだったが、その表情は音楽院のときとあまり変わっていなかった。

「まさか、とんでもない! 君のシンフォニーはすごく良かった、本当に。それを言いに来たんだよ」

 僕は馬鹿にされているとしか思えなかった。

 僕の表情がさらに強張ったのを見て、スクリャービンは慌てふためいた。

「本当だよ、僕が嘘をついているように見える? 初めの短い主題が折り重なるように繰り返し現れる構成も斬新だったし、ジプシー音楽を織り交ぜていたところも面白かった。それに、あれは教会の〈鐘〉だろう? 金属のてらてらした光沢ある響きが鳴り響いて……ああ、本当に僕は今とても感動しているんだ」

 彼は興奮を隠さずに一気にまくしたてた。僕は彼の言葉のすべてを信じたわけではなかったが、ほんの少しだけ緊張をほどき、彼に向き合った。


 スクリャービンは近くに良い店を知っていると言って、僕を誘った。こぢんまりとした薄暗い店の奥の席を陣取って、彼はビールを、僕はワインを頼んだ。

「ミトローシャの演奏会は」と、彼はベリャーエフを愛称で呼んだ。

「いつも練習時間が少ないんだ。それで消化不良になってしまう。演奏がいまいちだったのは、残念だけど仕方がないよ。今回は本プロに、チャイコフスキーの復活初演があったし。それに……」

 そこでいったん言葉を切って、彼は口元に笑みを浮かべた。

「それに、セルゲイ・ワシリエヴィチ、彼らは君の才能が羨ましいんだ。自分たちの手も借りずに、君がヨーロッパでも名前を知られるようになっているのを妬んでいるんだよ」

 彼は給仕にビールのお代わりを頼んだ。僕のグラスはまだ少しも減っていない。

「ああ、僕も交響曲を書いてみたい。でもミトローシャが何て言うか、きっと反対するに決まっている。書き上げるまでには時間がかかるだろうし、その間はほかのことに手がつかなくなるだろうから……でもピアノ協奏曲はほとんど完成しているんだ。サフォーノフ先生がどうしてもコンツェルトを書けって煩くて。ヴェーラも手伝ってくれているし……」

 口をついて出たヴェーラの名前に、スクリャービンはこれまで快活に回っていた口を重く閉ざした。彼の最初の妻となるヴェーラはユダヤ人ピアニストで、モスクワ音楽院の卒業生だった。彼は、音楽院の卒業を目前にしたヴェーラに結婚を申し込んだが、彼の家族やベリャーエフからは反対されていた。ピアノの腕は悪くはないが、僕は彼が彼女のどこに惹かれたのかわからない。

 そういえば、なぜスクリャービンがペテルブルクにいるのか訊いたとき、彼は「ミトローシャに呼ばれた……」とだけ言って口ごもった。彼にペテルブルクでの演奏会の予定はなかった。

 彼はいつの間にか中身がウォトカに代わったグラスを呷った。僕はアルコールの代わりに紙巻き煙草の吸殻を灰皿に積み上げた。

「そういえば、君の曲がグリンカ賞を受賞したそうだな」

 僕は重たい空気を変えようと、ことさら明るくスクリャービンに尋ねた。グリンカ賞は、その年に評価が高かった音楽作品に与えられる国内で最も権威のある賞だった。ベリャーエフがスポンサーとなり、毎年、総額三千ルーブルが作品の評価に応じて割り振られ、作曲家たちに授与された。

「すごいじゃないか。それに昨年のヨーロッパツアーはどうだったんだ?」

 スクリャービンは一八九六年にヨーロッパデビューを果たしていた。海外嫌いのベリャーエフがわざわざ付き添ったらしい。

 話題が変わったせいか、彼は表情を明るくして、僕がまだ行ったことのないパリやローマの様子を語って聞かせた。特にパリは彼にとって興味深い街だったようで、モンマルトルの高級娼婦のことや、本物の〈デカダン主義者〉に出会った話を面白おかしく教えてくれた。けれど、その口調も次第に鈍くなり、彼は酔っ払い特有の淀んだ眼をして、どこかここではない遠くを見つめた。

 夜はすっかり更けていた。

 僕らは会計を済ませて外に出た。夜気は火照った身体を冷やしたが、先ほどのように凍えるような冷たさではなかった。……どんなに技巧を凝らした音楽でも、それが聴衆に受け入れられなければ意味がない。僕はぼんやりと、これから音楽の道をどのように進んでいくべきかを考えていた。

「……《貴女の胸の中に留まりたい、夢の中に閉じ込めたい》……」

 僕はスクリャービンが夜空を見上げてメロディを口ずさむのを聴いた。彼の横顔はいくぶん青褪めて見え、アルコールに焼けた掠れた歌声は、澄んだ透明な空気の中で冴え渡り、甘く、苦い余韻を残して宙に拡散していった。

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