【番外編】タネーエフの深謀(1896年)
本編には出てきませんでしたが、ラフマニノフ、スクリャービンのモスクワ音楽院時代の作曲科教師にアントーニイ(アントン)・アレンスキーという人物がいます。彼とタネーエフ先生は、モスクワ音楽院での同僚であり、大の親友でもありました。
本編「過去3」あたりの、タネーエフ先生とアレンスキー先生の話です。
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アントーニイ・アレンスキーからモスクワに来るという手紙が私の元に届いたのは、つい先日のことだった。彼がモスクワ音楽院の職を辞してペテルブルクに引っ越して一年が経つ。会うのは久しぶりだった。手紙で知らせて来た彼の到着日は今日だったが、まだ何の音沙汰もない。陽が長くなりつつある季節ではあるが外はすでに暗い。もうすぐ日付が変わる時刻だ。気紛れな彼の言動にいまだに振り回されているのを強く感じる。壁にかかった時計の針が規則正しく動くのを見るともなく気にしていた自分に嫌気がさして目を閉じる。ラフマニノフが持ち込んできたシンフォニーの暗いフレーズが頭を過った。彼が置いていったラフスケッチに目を遣る。どうしたものかと考えていたら、玄関扉をノックする微かな音が聞こえてきた。
ペラゲーヤはもう寝ているはずだ。ともに暮らす乳母の顔を思い起こす。耳も遠くなっていることだし、彼女を起こす必要はないだろう。私は居間のソファから身を起こして、ランプを手にして玄関に向かった。
「玄関扉のあれは何だ?」
開口一番、アントーニイは私に尋ねた。
「部屋も真っ暗だし、本当に留守なのかと思ったじゃないか」
外には「留守中」と書いた看板を掛けていた。面倒な客人を避けるためだが、今のところあまり効果はない。私がかざすランプの灯りに照らされて、アントーニイのすらりとした肢体から不安定な影が揺らめく。
「……いま何時だと思っている?」
「もうそんな時間か? 汽車が遅れたんだ」
「てっきりどこかに寄り道でもしていて、今日はもう来ないのかと思っていたよ」
口に出してしまってから、彼を責めるような口調になってしまったことを後悔した。
「そんなふうに言うなよ、久しぶりに会ったんだから」
アントーニイは少しすねた口調になったがさして気にするふうでもなく、私の身体を抱擁し再会の挨拶をした。彼の身体から微かならず漂ってくるアルコールの匂いに私は眉をひそめたが、アントーニイの気分を害したようではないことに安堵した。彼の機嫌を損ねるとあとが厄介だ。
「女物の香水の匂いがする……」
身体を離すとき、アントーニイの呟きが耳を掠めた。
「今日はトルストイ夫人のところにピアノを教えに行っていたからそのせいだろう」
私は心の中の動揺を悟られまいと平静な表情を保って早口にそう言ったが、とっさのことにうまい嘘もつけなかった。アントーニイはそんな私の言葉に一瞬何とも言えない複雑な表情を見せたが、冷めた眼で「まあ、僕に他人のことは言えないけどね」と自嘲的に唇を歪めた。
居間にアントーニイを通して、酒とペラゲーヤが作り置きしていた簡単な料理をつまみとして出した。アントーニイはどこか疲れた表情でグラスを口に運んだ。普段から青白い顔色は、暗い室内ランプに照らされていっそう青褪めて見えた。
「ペテルブルクでの暮らしはどうだ? 宮廷合唱団の仕事には少しは慣れたのか?」
私がそう尋ねても、彼はペラゲーヤが作ったキャベツのピクルスと黒パンをほおばってだんまりを決め込む。酒をたしなまない私はソファから立ち上がり、居間のサイドテーブルに置かれたサモワール(湯沸かしポット)の上で蒸らしていたティーポットからカップに紅茶を注いだ。お湯を加えて、薄めの紅茶をつくる。
「……なかなか思うようにはいかないものだ……」
私が紅茶のカップを持って再びソファに腰を落ち着けようとしたとき、アントーニイから吐息のような言葉が漏れた。
「音楽院の教授も、やれ授業の用意だ試験の準備だ生徒のケアだ院長のご機嫌取りだと忙しすぎて作曲に専念できないと思っていたが……楽長職というのも報告書を書けだの書類にサインしろだのつまらない仕事ばかりが舞い込んできてちっとも音楽の時間が取れやしない。音楽ということに限って言えばモスクワにいたころよりむしろ遠ざかっているよ。……ああ、もちろん、すべて僕が決断して選んだ道だということはわかっているとも」
私は紅茶のカップに口をつけながら、適当に相槌を打って、話の聞き役に徹した。随分とストレスが溜まっているようだ。
「楽長の仕事があんなに忙しいなんて思わなかったよ。ちょっと合唱団の練習や指揮をすればいいものだと思っていた。……いま思うと君が音楽院の院長をやっていたときは本当によかったのに」
「作曲は進んでいないのか?」
彼は首を横に振り、「作曲するって言ったって、頭の中は宗教音楽しか出てこないよ」と子どものように駄々をこねる。「まあ、アントーシェニカ、そう言わずに何か弾いてみたまえよ」と居間の中央に置かれたグランドピアノに彼を座らせる。
アントーニイはしぶしぶ鍵盤の上に手を置いて、「これが僕の心象風景だ」となんとも物悲しいメロディを演奏する。傍らに立つ私は、彼の旋律を引き継いでピアノを弾き、長調に転調して軽やかな旋律に変えてみせた。
彼はしばらく僕の演奏を聴いていたが、ねえ君、もっと何か弾いてよ、と僕に椅子を譲る。
何か弾いてと言われても困ったと思いながら、私はピアノの前に座る。アントーニイが来る直前まで頭の中を駆け巡っていたフレーズが指先から広がる。アントーニイは初めは黙って私の演奏を聴いていたが、「ちょっと待って、それって誰の曲? 君のじゃないよね」と椅子から立ち上がって、私の傍らまでやってきた。私は彼の言葉を無視して続きを弾き続ける。彼はそんな私の態度に少し困惑した様子を見せたが、しばらくすると口髭を形の良い指先でいじりながら興味深げに私の演奏に耳を傾けた。
主要な主題を弾き終えると、彼は「……この短いのが動機になっているのか……このフレーズは古い聖歌の旋律にも似ているし……」と呟きながら、身を乗り出して私が弾いたばかりのフレーズをつま弾いてみせる。
「どう思う?」
私はまだ思案気にピアノに向かっているアントーニイに尋ねる。
「うーん……、そうだな、面白い試みだとは思うよ、けど」
「ラフマニノフの交響曲だ」
「えっ、ラフマニノフ? ……ふーん、そうか……、なるほど……」
アントーニイは納得がいったのかいかないのか何度も頭を振り、「そうかそうか、在学中も交響曲を作りたいと言っていたしね……」とひとりごちた。
「私はこの曲の初演をベリャーエフ氏の演奏会でやったらどうかと思っている」
まだ何事かをぶつぶつと呟いているアントーニイに私は話しかけた。彼はまだ半分自分の思索の中にいるようで、数秒の時間を有したのちに「なんだって?」と私の方に向き直った。
「ペテルブルクで初演をしてはどうかと考えているんだ。ジロティが彼の曲を西欧で広めているけれど、やはり国内での評価も高めないといけない。そのためにはモスクワにとどまらず、ペテルブルクに行くべきだ」
「……」
「幻想曲《岩》のペテルブルク公演も評判は悪くなかったようだし……、まあ、ツェーザレ・キュイ氏からは辛辣な評論が出されていたが」
「彼の毒舌は今に始まったことじゃない」
「サフォーノフはスクリャービンの売り込みをうまくやってのけたようだし、ラフマニノフももっとあちらと交流を持ったほうがいい。それにはいい機会だ」
「本気で言ってる?」
私の本心を見透かそうとするかのように、アントーニイの黒い澄んだ目が私を見つめる。
「本気だよ、冗談にみえるかい?」
「……」
「君もちょうど向こうにいるんだし、口添えをしてもらえないか?」
「……誰に?」
「リムスキー=コルサコフに、とは言わないよ。ベリャーエフ氏にひとこと言ってくれればいい。ラフマニノフは君の生徒でもあったのだから」
「……」
「何か言いたそうだね」
「……」
私は敢えてせかさずに、アントーニイの言葉を待った。
「……もちろん僕もラフマニノフを応援してやりたいし、彼がペテルブルクに行くことには大賛成するよ。けれど、さっきの曲ははっきり言って」
アントーニイは一呼吸おいて、こう言い放った。
「華がない」
「……」
「全体を聴いたわけではないから何とも言えないが、メロディは暗くて荒々しいし、古い聖歌のリズムを持ってきているのはわかるけど、古典的な拍動法からは外れている。展開も懲りすぎてて、到底受け入れられるとは思わないよ。それに、ベリャーエフの演奏会だとしたら指揮はグラズノフだろう。彼はこんな曲を理解できないぞ。お上品な音楽が絶対だと思っているからな」
「やはり君もそう思うか」
「そりゃ僕はこういう果敢なチャンレジは嫌いじゃないけれど、やりようというものがあることを知っている。いずれにせよ、この曲は斬新すぎる。それでも敢えて、ベリャーエフの演奏会にのせるつもりか?」
「そうだ、やりようというものがある。彼はそのことを学ばないといけない」
私は一言ひとことを区切るように明確に発音した。
アントーニイはそんな私を見て一息つき、「君はもう決めてしまっているようだから、僕はこれ以上何も言わないさ」と呟く。
私は、さて、ベリャーエフ氏にどんな手紙を書こうか、とさっそく思索を巡らせた。
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