第14話(過去)

「春にロンドンでスクリャービンの《プロメテ》を指揮することになったよ」

 一九一四年の新年を親戚が集まる別荘ダーチャで迎えた僕は、従兄ジロティからこう切り出された。

「ロンドンには君のファンも多いし、今からならまだスケジュールの調整もできるだろう? 君も聴きにおいで」

 スクリャービンの《プロメテ》は、クーセヴィツキーの指揮によるモスクワ初演ですでに聴いていた。……スクリャービンとは、ジョイントコンサート以来、会う機会がほとんどなかった。僕は気が進まなかったが、ジロティは重ねて「聴きに来るべきだ」と言った。

「演るのは〈完全版〉だ。ケチなクーセヴィツキーは演らなかった、ね。君も観てみたい・・・・・だろう?」


 リハーサルの日時を教えられた僕は、会場の片隅で、ジロティとスクリャービンが協演する《プロメテ》を聴いた。

 この作品で、スクリャービンは機能和声を完全に崩壊させた。心のうちを揺さぶるような不協和音が満ちあふれ、どこにも〈歌〉がない。彼が独自に生み出した和音は〈神秘和音〉などと呼ばれているらしい。人を不安に陥れる、心もとない響きが、オーケストラの力を借りて増幅する。

「僕の指揮はどうだい?」

 僕の姿に気づいたジロティが、演奏の手を止めて意見を求めた。

「なぜこんなふうに響くのだろう……」

 頭を占めていた思いが口をついて出た。僕の言葉を聞き咎めたスクリャービンは、ピアノの椅子から立ち上がって僕に言った。

「じゃあ、君、僕の和声に何か書き加えてみればいい」

 そういう問題ではなかった。

 返答に窮した僕を見て、その場に居合わせたスクリャービンの取り巻きたちが忍び笑いを漏らした。

「……」

 スクリャービンはそれ以上何も言わなかった。僕もそれ以上、言う言葉が無かった。


 スクリャービンの《プロメテウス―火の詩(Promethée le Poème du Feu)》には、〈色光ピアノ〉というパートが存在する。鍵盤を押すと音の代わりに光が出る、《プロメテ》のために開発されたピアノで、スクリャービンの共感覚を聴衆に追体験させるものだった。けれど、クーセヴィツキーの初演では照明機械の故障を理由に用いられることがなかった。

 ギリシャ神話のプロメテウスは、天界の火を盗んで人類にもたらした。人の手に余る〈火〉は、いつか、彼の身を焼き滅ぼすことになるだろう。コンサートの本番、照明を落とした暗いホールの中に音楽とともに瞬く赤や黄、青色の光をぼんやりと見つめながら、予兆めいた思いが胸の中にあふれた。

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