第1話(現在‐1915年4月)

 春が訪れたとは思えない、肌寒い朝だった。昨日までの天候とはうって変わって、雪交じりの春雨が外套を重く湿らせる。復活祭には似つかわしくない、暗く、厚く立ち込めた雲が、モスクワの空を覆っていた。

 僕は左肩に棺を担ぎ、葬列の中に組み込まれながら、教会から墓地へと続く道を進んでいた。通りには人があふれ、誰もが沈痛な面持ちで彼の死を悼んでいる。しかし、樫の木で作られた棺はあまりにも軽く、僕は、その中に本当に彼が納められているのかを疑わしく感じた。

「セリョージャ……セルゲイ・ラフマニノフ」

 棺の向こうから、僕を呼ぶしわがれた声が聴こえた。僕が顔を向けると、僕を見つめるタネーエフ先生の視線とぶつかる。深い慈愛が通奏低音のように響く瞳に、愛する弟子を喪った哀しみが滲む。

「まるで天が、彼の死を悼んでいるようじゃないか」

 深い皺が刻まれた頬をわずかに歪ませ、タネーエフ先生は空を見上げる。雲は次々と重なり合い、いっそう暗さを増していった。

 彼の危篤を告げる報せを耳にしたのは、ほんの一週間ほど前のことだった。上唇部のできものが悪化し、切開手術を試みたが、そのときにはすでに全身に毒が回っていた。連日のように新聞記事は彼の容体を知らせ、そして、あまりにも呆気なく彼はこの世を去った。

 アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン。彼は降誕祭クリスマスの日に生を享け、復活祭の日に死を迎えた。降誕祭に生まれた彼は自分をキリストの生まれ変わりだと信じていた。皮肉なのか、神の啓示なのか。出発した教会には、スクリャービンの死を悼む葬送のテーマと、復活祭の歓喜の聖歌が混じり合い鳴り響いていた。キリストは十字架に架けられた三日後に復活したという。

「私は、彼の音楽も思想も理解できなかった。理解しようとも思わなかった……けれど私たちは、愛すべき人物を永遠に喪ってしまったのだ」

 白い吐息混じりに呟くタネーエフ先生の言葉は、独り言のようにも聞こえて、僕はそれに返答することができなかった。

「こんなことはあってはならないのよ!」

 年老いた女の声がヒステリックに耳に響く。喪服を身に纏った二人の女。声の主はスクリャービンの母代りで叔母のリュボーフィだ。彼女は落ち窪んだ目で、曇った空を見上げながら独りごちた。その傍らには、スクリャービンの後妻のタチアーナ・シリョーツェルが生気を失った瞳で佇む。

「リューボ叔母さま……」

「あの子がこんなふうに死んでしまうなんて……」

「いけませんわ、叔母さま。どなたが聞いているかわかりませんのに……」

 リュボーフィの甲高い声をタチアーナが窘めた。そのまわりには、まだあどけない彼の遺児たちが纏わりつく。

 リュボーフィは昏い瞳を鋭く尖らせて「貴女に何がわかるというの!」と激昂しかけたが、怒りを飲み込み、冷静さを取り戻した低い声音で言った。

「そういえば……、あの子は遺書を書いたのかしら?」

「……」

「アパートの契約はもう切れてしまったのでしょう。……あの子のいない今、貴女はどうなさるおつもり?」

「……」

「あの子がいなければ、正妻とは認められていない貴女に……」

「……遺書ならあの人が息を引き取る直前に……。……ご友人のみなさまが何とかしてくださいますわ……」

 一陣の冷たい風が通り過ぎ、葬列の人々の身を震わせた。タネーエフ先生は、喉に絡むしわぶきをひとつした。二人の女の声は、群衆のざわめきの中に聞こえなくなった。

 僕は彼のことを考えようとした。彼の死を考えようとした。けれど、心の中には何も思い浮かばなかった。その代わりに、彼のピアノソナタ第一番の最終楽章葬送行進曲が脳裏を過った。彼がモスクワ音楽院を卒業してすぐに作曲したもので、ショパンの《葬送ソナタ》の猿真似だと騒がれた。けれど僕はそうは思わない。ショパンには希望があった。彼の葬送行進曲には絶望しかない。希望の光は遥か遠く、決して人の手には届かない。……彼はこれ以降、直接的な人間の死をテーマにした作品を書くことはなかった。彼の関心はまったく別の、人間を超えた世界へと移っていってしまった。

「君には、母親の胎内の記憶があるかい?」

 彼は初めて出会ったとき、僕にそう訊いた。蒼みがかったヘイゼル色の瞳は、目の前のものを透かして、別の世界を視ているかのようだった。

 僕は彼と出会った三十年前に思いを巡らせた。

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