第21話 愛に関する一考察


「お父さん。春が来ましたよ」

「おう。春か。よく来たな。暑かったろう。少し上着を脱いだらどうだ」


 文章は小説風にアレンジしていますが、春風亭柳昇さんの落語「里帰り」(または「春が来た」)からです。ちょっとうろ覚えですが。


 夏のある日、嫁に行った春がやってきました。聞くと黙って出てきたというではないですか。

 実父から、亭主も向こうのご両親も心配するから早く帰れと言われるけれど、もう二度と戻らないといいます。見ると確かに少しやつれている。


 理由を聞けば、亭主は良い人だけど、しゅうとめさんから嫌みを言われ、100円玉1枚だけ渡されて夕飯のおかずとして魚と肉を買ってこいと言われ、しかたなく自分のお金で買っていったことも。

 けれど一度、嫁に行った娘。向こうの家でやっていくしかありません。実父は重ねて早く帰れと言いました。

 春はもうここにも自分の居場所がないとさとり、「あんな家には帰れない。それでも帰れっていうんなら、帰る。そして、向こうのお母さんを殺す」と言うではありませんか。


 それを聞いた実父は、「そこまで言うなら、いいぞ。殺してしまえ。お父さんも手伝ってやろう」と言い、奥から白い粉を持って来ました。

 渡して言うには、

「ちょいとひとめしただけでコロリと死んで、遺体からは何の毒物も出てこない。すごい毒薬だろう」

 春はうれしそうに笑って、

「こんな良いもの。もらってもいいの?」

「いいよ」

「本当? じゃあさっそく帰って飲ませよう」

「おいおいちょっと待て。あわてなさんな」


 警察に捕まっても遺体からは何も出てこない。けれど近所で嫁と姑の仲が悪かったと言われたら、逃げられやしないだろう。せっかく憎い姑を殺しても自分が捕まっちゃあ、何にもならない。

 だからまずは近所をだませ。それも2、3日のちょっとの間じゃなくて、1年間、向こうの言うことをよく聞いて、みっちりと近所をだますんだ。そうすれば、「あんなに親孝行な人が殺すなんて間違いです」とご近所さんが警察に言ってくれるだろう。証拠はないんだ。無罪。いい考えだろうと。


 春はすっかり感心して、

「お父さんは人殺しの名人ね」

と言って、すっかりその気になりました。

 実父は、1年間しっかり我慢するんだぞと春を送り出しました。


 1年が経ち、また夏の日に春がやって来ました。

「お父さん。春が来ましたよ」

「なに春? 夏が来ると春が来るって……」


 見ると、少しふくよかになって血色が良くなっています。おまけに亭主からとお土産を持って、着ている着物は姑さんが徹夜で仕立てあげてくれたものだと言います。

 しかも1日だけじゃなくて、「あんたはうちに大事な人だから」と、2、3日ゆっくりしておいでと心良く送り出してくれたのでした。


 それを聞いた実父はニヤリと笑みを浮かべ、

「近所での評判はどうだい」

と尋ねると、春はうれしそうに、

「とってもいいわ。本当の親子でもこうはいかないって」

 実父は大きくうなずいて、

「それじゃあ、そろそろばばぁを殺ってもいいな」

「お父さん。ばばぁなんて失礼よ」

「お前は殺したいと言ってたじゃないか」

「今じゃあ、家に帰ったらとっても親切にしてくれるし、私もお義母さんを大切にしてるの。亭主より好きなくらいよ。……それでね。お父さん。これらなくなったから返しに来たの」


 春はそういって、昨年もらった白い粉を実父に返します。実父はわざと驚いた表情で「ええっ」と言いながら受け取りました。

 そして白状します。「腹が減ったら飲めばいい。そりゃあ、ただのうどん粉だから」「だましたのっ」


 だまされたことを知った春に、実父は言いました。

 去年のお前はひどい状態だった。心も追い詰められていて。本当に殺してしまいそうなほどだった。

 だからああ言ったんだ。殺してしまいたいほど姑に親切にすれば、それがウソでもしてもらった方は嬉しいもんだ。嬉しければ、今度は姑がお前を大事にしてくれる。回り回って、お互いに優しくなれると。


 春は感激して、今おめでたで4ヶ月だと言い、実父と喜び合ったのでした。


 最後に春はふと思いついて尋ねます。

「お父さん、ところでね。うどん粉の薬を飲ませていたら、今ごろどうなっていたんでしょう」

「――そりゃあ、手打ちだ」



 今までに2度ほど、仕事上のことで大きな失敗をしたことがあります。

 その時は、職場にいるのも辛くて、離職も覚悟していました。


 家路につくのも辛い。ああ、相方になんて言おう。

 私のした失敗を聞いたら、相方からも厳しく責められるかも。


 考えていることは、どんどん落ち込んでいきます。


 心のうちを表情に出さないように、あいまいな微笑みを貼り付けたままで帰宅しました。

 少し挙動不審のままでお夕飯を終え、少し時間ができたところで、意を決して言い出しました。


「時間をちょうだい。言っておきたいことがあるから」


 改まってそう言うと、相方は何かあったなと直感したんでしょう。神妙な表情でうなずきました。


 いざ対面して、相方の顔を見られずに少しうつむいて、自分の失敗のことを言いました。もしかしたら仕事辞めるかも。いや、辞めさせられるかも。


 判決を受ける被告人のような気持ちで、じっと自分の膝を見下ろしていると、

「うん。わかった。大丈夫。わかったよ」

と相方は言いました。


 顔を上げて、私は言いつのりました。

「いいの? 家計が苦しくなる。生活のリズムだって、引っ越しすることになるかもしれないし」


 けれどそんな私に相方が言ったのは、

「そん時はそん時だ。そっちだって大変だったんだろ」


 その一言に私は救われたのです。

 そして、そのあと、子供をぎゅっと抱きしめて癒やされました。



 私たちはそれぞれの関係の中を生きています。


 上司と部下、先輩と後輩、夫と妻、先生と生徒、スタッフとお客などなど。


 そうした多くの関係のなかで、もっとも「無条件」といえる何かを持っているのは家族の関係です。


 損得などで作られない関係。

 一緒に暮らしている同居人というだけじゃなくて、一緒に生きているといえる関係。

 私が相方の一言に救われたように、本当に辛いときに受け入れてもらえる関係。

 そこには愛があると思うのです。



 もし家族にどう接すればいいのかわからないというなら、春がしたように優しくしてみてください。何もすることがなかったら、抱きしめてあげてみてください。


 きっとそこに愛が生まれる。そう信じたい。



※春風亭柳昇「里帰り」(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=cVvB6voHqLk

16:00ごろからです。ぜひ聞いてみてください。

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