第11話 悔恨の果てに……

 静かだ……。

 きっと、この病院も昼には人が溢れかえっているはずなのに、今は人影もない。

 照明も、受付と救急の診療室、そして、私がいる待合所の一部にしか灯ってはいない。





 あの時、タケシは私を庇ってくれたのだ。直樹は常軌を逸した状態だったので、その振り上げた拳が、何処に当るか分らないから……。


 私は何も出来なかった。振り上げられた拳が怖かった訳ではなかったが、ただ呆然とことの成り行きを目で追っていた。タケシに握りしめられていた私の右手首には、まだその感触が残っている。





「ぐう、う……」

唸って崩れ落ちたのは、殴りかかった直樹だった。私には何が起ったのか分らなかったが、すぐにそちらを見ることはしなかった。


 私がまずしたのは、タケシの無事の確認だった。鈍い音がしたから、頭でも殴られたのではないかと思ったのだ。

 しかし、私に覆い被さったタケシの顔には、ホッとしたような表情が浮かんでいた。彼も私に何事もないのを確認したようだ。お互いの視線が合っただけで、私達に被害が出た状況ではないことは分った。


「おい、大丈夫か?」

「うっ、うう……」

タケシは痛いほど握りしめていた私の手を離し、直樹の方に向き直った。地べたに座り込む直樹は、左手で右手の肘の辺りを押さえ、下を向いて唸っている。

 直樹の右手首は、不自然なほど内側に曲がっていた。そして、小指の付け根が陥没しているのが見えた。





 直樹は、マンションの壁を殴ったようだ。タケシが私を庇いながら避けたので、誤って当ててしまったのだろう。マンションの壁は大理石……。壁には何の痕跡も遺ってはいなかったが、状況的にそれしか考えられなかった。


「すぐに救急車が来るから、もう少し我慢してくれ」

タケシは、直樹の様子を確認すると、スマホで救急車を呼んだ。

 直樹は相変わらず低い声で唸り、うずくまったままだった。患部を触ると痛いのか、右手首を宙に突き出す格好で……。


「転んで変な手の着き方したようです」

救急車が来ると、タケシはそう救急隊員に説明した。

 直樹は自力で救急車に乗った。ストレッチャーが要るか聞かれたが、断っていた。それが直樹に出来る精一杯のプライドを保つ方法だったのだろう。


 私とタケシは、直樹に付き添って救急車に乗った。

 そして、今、直樹は救急の診療室で処置を受けている。タケシは直樹に付き添って診療室に入って行ったが、私は待合所に残ることにした。処置される直樹が最低限のプライドを保つのには、その方が良いと思ったから……。





 二人はなかなか診療室から出てこなかった。


 私は独りで考え込んでいた。

「私が手紙なんか置いてこなければ、こんなことにはならなかったのに」

と……。

 直樹の様子からすると、彼は住所以外の情報を知らなかったし、知りようがなかったはずだ。たとえ洋子に聞いたとしても、洋子は何も喋らないだろう。


 私が迂闊だったのは間違いないが、それにしても、直樹が私を連れ戻そうとするとは想像もつかなかった。洋子が新しい彼女とうまくいっていないと看破してはいたが、だからと言って、あれだけ酷く追い出した私ともう一度暮らすことを考えるとは、今までの直樹の態度からは考えられなかったから……。

 直樹に何かあったのかもしれないが、私には思い当たることはなかった。


 考え込んでいたことは、直樹のことだけではなかった。本音を言うと、むしろ、こちらのことの方が私の関心は強かった。


 こちらのこと……、は、タケシのことだった。

 先ほどまで、デートとは言えないまでも、二人で初めての外出をし気持ちの距離を縮めていたのに、私は急にその距離に自信がなくなってしまったのだ。


「直樹に抱かれているときが一番幸せ……」

この直樹が言い放った私の一言が、私とタケシの距離を大きく隔ててしまうように思えてならない。

 覆い被さって助けてくれた後に、タケシがホッとしたような表情を見せたときには、きっと心の距離は離れていなかったと思う。しかし、これから冷静な時を過ごした後はどうなってしまうのか……。タケシは優しいから何も言わないと思うが、それは永遠に縮まらない距離が存在する可能性を否定しない。

 そんなことを考えると、私の中にもやもやとした不安がいつまでもくすぶるのだった。


 確かに私はそう言っていたのだ。そして、その言葉を言ったときの私は、本気でそう感じていた。だから、直樹が言った言葉は嘘ではない。

 ただ、今は、直樹に対し言ったこと、したこと、感じたこと……、全てが重荷だった。

 初めての人は直樹だったし、今まで直樹の身体しか私は知らない。女の悦びがどういうものかも彼との行為で知った。しかし、それもこれも、全てなかったことにしたかった。なかったことにならなければ、タケシに受け入れてもらえないような気がしてならなかったから……。





「ありがとうございました」

タケシが一礼して、救急の診察室から出てくるのが見える。

 続いて直樹も出てくる。右手小指から手首には包帯が巻かれ、処置された跡があったが、先ほどまでのように痛がってはいない。


「紗季さん、直樹君のポケットから財布を出して、会計をしてきてあげてくれないか?」

直樹はいつも上着の内ポケットに財布を入れる。確かに今の状態では取り出せないだろう。直樹も了解しているのか、頼む……、と一言呟いた。


 会計をする受付は、少し離れたところにあった。待合所からすぐに曲がり、フロアの隅の方にある。ただ、夜間なので誰もいず、呼び出しベルを押して職員が来るのを待たなければならなかった。

 広くほとんど照明の点いていないフロアに、見渡す限り私しか人影がないのは、時間帯的に当たり前とは言え、かなり不気味な感じがした。





 ベルを何度か鳴らしても、職員は現れなかった。

 私は一人で薄暗く広いフロアにいるのが嫌で、二人のいる待合所に戻ることにした。


「まだ、だいぶ痛むかね?」

「いえ、痛み止めが効いているようで、それほどではないです」

角を曲がれば待合所と言うところで、私はタケシと直樹が話していることに気がついた。直樹は気持ちも落ち着いたようで、普段通りの醒めた口調だ。

 私は何となく二人の前に出るのを躊躇し、角の柱で歩を止めた。


「今なら冷静に聞いてくれそうだから、これだけは言っておくよ」

「……、……」

「直樹君……、君は誤解している」

「……、……」

「あの日、紗季さんが君の部屋を出た日……」

「……、……」

「彼女は洋子さんに連絡を取ろうとしたらしいんだ」

「……、……」

「しかし、連絡は取れなかったんだ……。洋子さんがインフルエンザで寝込んでいてね」

「えっ?」

「それで、あてもなく紗季さんは彷徨ったんだ」

「そうでしたか……」

二人とも、声は小さかった。それでも聞こえるのは、人影がなく、音が必要以上に反響するから……。


「新宿に出たのも、特にあてがあったからではなく、繁華街なら何とか一夜を過ごせると考えたかららしい」

「……、……」

「僕は、道ばたで偶然紗季さんを見掛けたんだ」

「偶然……?」

「そう、僕はそれまで紗季さんのことをまったく知らない、垢の他人だった」

「……、……」

「紗季さんは酷く酔っていてね……」

「……、……」

「歩道に座り込んで、泣いていたよ」

「泣いていた?」

「うん、泣きながら、直樹にハンバーグを作れなくなっちゃった……、って繰り返し呟いていたよ」

「俺に、ハンバーグ……?」

知らなかった。タケシは私が歩道で寝ていたとしか言わなかったから。泣いていたことも、直樹のことを呟いていたことも……。酔った後のことをまったく覚えていない私自身が恨めしい。


「直樹君が疑っていた通り、確かに、今、僕は紗季さんと暮らしている」

「……、……」

「紗季さんは僕に好意を持っているようなことも言っているようだ」

「……、……」

「ただ、君も分るだろう? 紗季さんは不安だったんだ」

「……、……」

「君にも洋子さんにも頼れず、独りになってしまったことに……」

「……、……」

「だから、勘違いをしているんだ」

「……、……」

「君もだろうけど、紗季さんも心が深く傷ついている」

「……、……」

「その傷から立ち直ろうと必死になっているんだよ」

「……、……」

会話の合間に、直樹がしきりと鼻をすすっているような音がする。もしかすると泣いているのかも知れない。

 私も、グッと込み上げるモノがあったが、上を向いて耐えた。病院の職員が来たら、すぐに対応しなくてはいけないから……。


「僕は、紗季さんと直樹君の間に何があったのかを知らない」

「……、……」

「だから、それについては首を突っ込むつもりもない」

「……、……」

「ただ……、紗季さんと洋子さんは直樹君の言動に問題があったと思っているようだけど、僕はそうは思ってはいない」

「……、……」

「きっと、直樹君には直樹君なりの判断や考え方があったのではないかと思っているよ」

「……、……」

タケシの声だけが淡々と聞こえている。会計の受付には、まだ人影がなかった。





「言い訳はしたくないです」

直樹はぽつりと言った。


「気持ちは分るが、紗季さんの気持ちはどうなるんだ?」

「紗季には悪いと思っています。可哀想なことをしてしまいました」

「だったら、正直に何もかも話してあげるべきだろう?」

「正直に……?」

「僕には分らないが、何か隠していることがあるんじゃないか?」

「……、……」

タケシは何を言っているのだろう? 私には何を言いたいのか分らない。隠していることって……。


「君はそもそも、紗季さんと別れるつもりはなかったのだろう」

「……、……」

「そうでなければ、今日だって来なかったはずだ」

「……、……」

「紗季さんと別れるつもりはなかったが、一時、自分だけの時間が欲しかったようにしか、僕には思えない」

「……、……」

別れるつもりがない……? それなのに、どうして……。


「君は何らかの理由で職を辞めたんじゃないか?」

「……、……」

「だけど、紗季さんを巻き込みたくないから、洋子さんに預けるつもりで部屋から追い出した」

「ど、どうして……。あなたは何故……」

「今日来たのは、自分が想定していない状況に紗季さんが置かれていて、心配だったから……。違うかい?」

「……、……」

「分るんだよ……、僕は君らの倍以上生きているからね」

「……、……」

「紗季さんを遠ざけてまで、君がしなくてはいけないことはそれほど多くない。つまり、仕事のことしかない。そして、それは紗季さんと君のためだったんだろう?」

タケシは一方的に話し続けた。ただ、それは静かで、諭すような口調であった。





「紗季には、好きな人が出来たから別れてくれって言ったんです」

「……、……」

「でも、それは嘘です」

「……、……」

「あなたの言うように、俺は仕事を辞めました」

「何故?」

「やりたいことがあったんです」

「……、……」

「学生時代は天狗になっていた。何でも出来ると思っていたし、紗季も幸せにしてやれると……」

「……、……」

「でも、社会に出てそうじゃないことが分った。紗季よりも先に立って歩いているつもりが、実際には紗季の方が前を歩いていた」

「……、……」

「御存知かもしれませんが、彼女は司書になる夢を持っていて、今でもそのために努力をしています」

「……、……」

「その上で毎日を誠実に生き、俺も支えてくれる……」

「だから直樹君も変わろうと思ったんだね」

「はい、自分もやりたいことをやった上で紗季と並んで歩きたいと……」

「……、……」

「浮気したこともありますが、就職してからは紗季だけでした」

「そう……」

「俺はあいつのお荷物だった。そして、いつも甘えているだけだったんです」

「……、……」

「悔しいけど、俺はまだ何も変わってはいない」

「だから、壁を殴ったんだね」

「……、……、何でもお見通しなんですね」

「僕はほとんど避けなかったから……」

「何かに当りたかっただけです。バカな若僧だと思うでしょうが……」

「いや……、……」


 私は驚きを通り越して混乱していた。

 何故、直樹は私に相談してくれなかったのだろう?

 何故、私は直樹の嘘に気がつかなかったのだろう?

 何故、タケシは今日初めて会う直樹の気持ちが分るのだろう?

 その他、幾つもの何故が、私の頭の中を巡る。


「タケシさん、一つだけ聞いても良いですか?」

「ん……?」

「タケシさんは紗季のことをどう思ってるんですか?」

「僕は……、……」





 急に、救急の診察室が騒がしくなった。救急車のサイレンは聞こえなかったが、新たな急患が来たのだろう。待合所にも何人もの人が流れ込んできたようだ。慌ただしく人の動く気配がする。

 フロアの方を看ると、職員と思しき若い男性が受付の方に走っていた。今までいなかったのは、急患が入るので対応していたのだろうか?


 騒がしくなったので、私はタケシの最後の言葉が聞こえなかった。私のことをどう思っているのかを……。





 会計を済ませ、病院を出たのは11時過ぎ……。

 タケシは泊まっていくように勧めたが、直樹は終電まで時間があるので帰ると言う。


 新宿までタクシーで行き、そこで直樹とは別れた。

 分れ際に、タケシに向かって、

「今日は色々すいませんでした……」

と、直樹は言い残した。しかし、私には視線を合わせただけで、何も言わずに去っていった。直樹の後ろ姿が人混みに飲まれるまで、私達はじっと見守っていた。





 家に帰り着いたのは、12時少し前だった。

 タケシはすぐに料理に取りかかる。私は洗濯物を畳み、お風呂を沸かした。


 タケシが言ったとおり、今晩は中華三昧だった。チャーハンには大きめの海老が入り、ワンタンは白湯スープ……。角煮の皿には蒸したパプリカとブロッコリー、キャベツが添えてあった。

 用意してあったとは言え、20分少々で作ってしまうタケシの手際の良さに、改めて感心するのだった。


 病院を出て以来、私達は何も話さなかった。タケシは何事か考え込んでいるようだし、私も先ほど抱いた何故の数々を思い浮かべるのだった。





「ごめんなさい……」

まだ半分も食べていないのに、私は食卓を立った。いつものように美味しい食事なはずなのに、砂を噛むように味がしない。

「どうしたの? さっきから元気がないね」

「……、……」

タケシは気遣ってくれているようだ。

 私は力なくリビングの床に座り込んだ。どうにも身体に力が入らない。


「直樹君の怪我だけどね、手首の方はねんざで済んだらしいよ。小指は折れていたけど」

「……、……」

「もう着いたかな? 家に……」

「……、……」

「痛み止めはもらっていたから、今晩は大丈夫だろう」

「……、……」

「明日、地元の病院に行くように言われていたから、ちゃんとした処置はこれからだけどね」

そう言えば、私は直樹の怪我がどうなっているかを聞いていなかった。しかし、私の関心事は他にあった。直樹の怪我が心配ではないわけではないけれど……。





「初めに夕食をご馳走になった時、ハンバーグだったのはそれでなんですね」

「ん……?」

「私がハンバーグとしきりに言っていたから……。電話を掛けてくるのも待っていて下さったんですね」

「ああ……、聞いていたのか」

「はい……」

私は聞いてしまったことを自分の中に仕舞っておくことが出来なかった。言葉がぽろりぽろりと流れ出す。


「直樹は何故、私にあんな嘘をついたのでしょう?」

「……、……」

「相談してくれれば、私だって協力したのに……」

「彼のやりたいことって何だったの?」

「多分、小説家になることです。学生時代はいっぱい書いていましたから……」

「仕事を辞めなければ書けないものなの? 小説って言うのは」

「直樹の仕事はホテルマンだったんです。だから、勤務時間が不規則な上に拘束時間が長くて……」

「なるほど……、それで辞めたのか」

「タケシさんは、直樹の気持ちが分ります?」

「うん、まあ……」

「じゃあ、どうして嘘をついたのか教えてもらえますか?」

私にはどうしても理解出来なかった。そして、何故タケシには分るのかも、分らなかった。


「さっき、直樹君自身が認めていただろう? 巻き込みたくなかったって」

「……、……」

「それとね、彼はまだ小説家になれる自信が持てなかったんだと思う」

「……、……」

「だから、独りで自信が持てるまで頑張るつもりだったんだろう」

「……、……」

「自信がついたら、洋子さんのところに紗季さんを迎えに行くつもりだったんだと思うよ」

「私が一緒ではダメなんですか?」

「どうかな……。でも、彼は甘えたくなかったんだろうね、紗季さんに」

「……、……」

「なるべく早く迎えに行くつもりだから、必死になれるとも思ったのかな」

「……、……」

「紗季さんも辛かったけど、直樹君も辛かったんだよ」

「……、……」

「彼は紗季さんを裏切ってない……。それだけは分ってあげて欲しい」

「……、……」

タケシの食事をする手は止まっていた。きっと、今夜も飲みに出掛けるはずだったのに、そうせず私に付き合ってくれている。


「直樹が裏切ってないのは、聞いていて分りました」

「そう……」

「私が気がつかなかっただけで……。単なる誤解だったんですよね」

「いや、気がつかないのは仕方がないよ」

「でも、タケシさんは話を聞いただけで気がつきました」

「うん、まあ……」

「それに、誤解が解けたのなら、私、直樹のところに帰るべきですよね?」

「……、……」

「でも……、……」

「……、……」

「でも、私、ここにいたいんです」

「……、……」

「タケシさんと一緒に……」

「紗季さん……」

素直な気持ちだった。私がこんなに感情を優先する人間だとは、私自身も初めて知ったが……。


「タケシさんは嫌ですよね……、こんな薄情な女」

「……、……」

「直樹の気持ちも分らずに、自分だけが辛いと思っていたような、自分勝手な女だし……」

「……、……」

「それに、私、ふしだらなんです」

「……、……」

「直樹が言うように、身体を求めますし」

「……、……」

「タケシさんにも抱きしめてもらいたいんです」

「……、……」

「こんな私、気持ち悪いですよね」

もう、自分でも何を言っているのか分らなかった。ただただ感情のままに言葉は口をついて出て行く……。

 私は覚悟した。タケシに嫌われることを……。それでも、自嘲する言葉を止めることは出来なかった。


 タケシからは何の応えもなかった。重苦しい沈黙だけが流れる。私の目からは涙がこぼれた。泣いたって、どうしようもないのに……。

 こぼれた涙がフローリングの床にポタポタ落ちるのが見える。私はそれを下を向いて見つめるのだった。





 呆れられたのだろう。当たり前だ。それだけのことは言ったのだ。

 ただ、タケシが私をどんな顔で看ているのかだけは気になった。せめて、哀れんでくれたなら……、と、かすかに思う。





「……、……!」

突然、私の両肩は後ろから掴まれた。驚いて振り向くと、そこにはタケシがしゃがんでいた。


「そんなに自分を責めることはない」

そう言いながら、タケシは、私の頭を優しく両手で包んでくれた。

 私は無我夢中でタケシの胴にしがみつくと、胸に顔を埋めて泣いた。私の勢いに押されてタケシは尻餅をついたが、それにも構わずに……。

 もう、何のために泣いているのかも分らなかったが、ただひたすら嗚咽を漏らしながら泣き続けた。





 タケシの胸は暖かだった。そして、タケシに触れていることは、私にとって大きな安心となっていた。





 私は泣き疲れて眠ってしまったようだ。いつ泣き止んだのか分らないが、タケシの胸に抱かれながら……。まだ、タケシは背中を猫でもあやすようにさすってくれている。

「ん……、起こしちゃったかな?」

「あ、いえ……。すいません、私、寝てしまったのですね?」

タケシの温もりが気持ち良い。このままずっと抱き合っていたい。


「30分くらいだよ。今日は色々あったから疲れていたんだね」

「……、……」

確かに色々あったが、泣いてスッキリしたのか、不思議と起った出来事を冷静に看られる気がする。


「このまま寝てしまう? それとも、せっかく沸かしてくれたから風呂に入る?」

「もう少し、このまま……」

言いかけた途中で、私のお腹が「ギュル」っと鳴った。

「あはは、どうやら身体はお腹が空いたと言っているようだね」

「いやん……、もう」

恥ずかしかったが、確かにお腹が空いていた。見ると、食卓にはまだ食べ残したモノがすべて残っている。

 タケシが促すように背中を軽くポンポンと叩く。致し方なく、しがみついた手を解き、私はタケシの胸から離れた。


「温め直そうか?」

「いえ、このままで……」

冷めてしまっても、タケシの料理は美味しかった。ただ、少しだけいつもよりしょっぱい感じがしたが……。

 タケシは、私が食べ終わるのを待っていてくれた。時刻はもう2時半……。今、気がついたが、私の使っている箸は、昨日、穴八幡宮で買い求めた黄楊の箸だった。





「ご馳走様でした」

「今度は食べられたね」

「すいません、こんなに遅くまで……。洗い物は私がしますので、置いておいて下さい」

「あはは、何を言ってるの、明日も仕事でしょう?」

「……ですけど」

「大丈夫、僕がやっておくよ。それより、紗季さんはサッと風呂に入ってきなさい」

「すいません……」

「あ、キッチンに先ほど買った柚子があるから、入れて入ってね」

「ああ、ゆず湯ですね」

「そう……。まあ、もう冬至は終わっちゃったけどね」

「うふふ……」

タケシはいつもと変わらなかった。不安がったり、驚いたり、泣いたりしているのは私だけ……。泣き疲れて寝てしまうし、本当に私は幼い。





 お風呂から上がり、布団を敷いたら、もう3時になっていた。少し寝たせいか、眠くはない。


 枕元で充電しているスマホを見ると、メール着信のランプが点滅していた。メールは直樹からだった。


 紗季、さっきは酷いことを言ってごめん。

 もう、連絡しないから許してくれ。

 幸せになってくれ。

 直樹


 きっと、左手で打ったので、入力し辛かったのだろう。文面はシンプルだ。しかし、直樹の気持ちが私に染み入るような気がするメールであった。

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