第5話  惑う

 嵐のような週末を終え、私は月曜日を迎えた。

 昨日までの慌ただしさが嘘のように、穏やかで余裕のある朝を……。


 起きたのは、6時頃だった。体内時計が固定されているようで、余程特殊なことがない限り、この時間に私は目覚める。誤差は5分ほど……。目覚まし時計が無くても起きてしまう。


 昨晩は、何もしないで寝てしまった。本来なら、タケシさんにはご迷惑をお掛けしたことだし、夕食の洗い物くらいはするべきだった。少し後悔したが、これからでも間に合うかとキッチンを覗いてみる。

 しかし、キッチンは綺麗に整頓され、洗い物は何も残ってはいなかった。


 キッチンからリビングを見ると、部屋の明かりが点いていた。タケシさんはすでに起きているようだ。


「おはようございます」

「おはよう……、早いね」

「いえ、タケシさんこそ……」

「あはは、まあ、そうだね」

昨日寝るときに見たのと同じように、彼はパソコンに向かっていた。


「何時に出るの?、仕事」

「7時半に出れば十分間に合います」

「じゃあ、朝食を作るから用意しておいで……」

「何から何まですいません」

「あはは、僕は在宅で仕事をしているから、忙しくないのさ」

「あの、失礼ですけど、お仕事って何をなさっているのですか?」

「いわゆる、個人投資家って奴……、平たく言うと無職のオッサンだよ」

「はあ……」

「まあ、良いから、シャワーでも浴びておいで」

「すいません、ではお言葉に甘えて……」

お世話になりっぱなしではあるが、タケシさんの好意に甘えることにした。多少何かをやってみても、彼の恩義に報いることが出来たとは言えないし、今は心配を掛けずに自分のことをやるべきだと思ったから……。





「朝はいつもパンなんですか?」

「紗季さんは、朝はパン派かなあ……、と思って」

「そんなことはないですけど、パンも好きです」

「つまり、美味しく食べられれば何でも良いのね?」

そう、笑いながら言い、タケシさんは手際よく食卓を調える。

 テーブルには、パン、オムレツと焼いたベーコン、レタスとトマトのサラダ、牛乳が置かれ、すっかり準備は調っていた。


「このパン、手作りですよね……」

見た目は何の変哲もない食パンではあるが、トーストしていないのに凄く暖かい。食感もモチモチしていて、私好みだ。バターの香りがプーンと香る。

「ああ、今は便利な物があって、材料を用意して機械に入れておけば全部やってくれるからね」

「タケシさんって、何でも自分で作るんですね……、凄いです」

「いや、そんなことないよ、このベーコンとか出来合いのだしね」

「でも、パンなんて普通家では作らないです、独り暮らしなら尚更……」

「あはは、それって、暇人だって言ってる?」

「うふふ……、ちょっとだけ」

二人で顔を見合わせて笑ってしまった。

 朝食って慌ただしくて、いつも時間に追われてる印象があったのに……。

 タケシさんのやることなすことが、全て新鮮で心地良い。






「これ、持って行きな……」

「えっ?」

タケシさんは布巾に包んだモノを手渡した。お弁当だ。いつの間に作ったのだろう? まだ暖かい。

「何から何まですいません」

「会社でお腹の音を鳴らしちゃいけないと思ってさ」

「タケシさんの意地悪……」

「あはは……」

「うふふ……」

そう言って、また顔を見合わせて笑った。






 週初の月曜日は、いつも忙しい。

 事務作業や雑用が主な仕事内容の私は、頼まれ事が集中する月曜日には座っている暇もないほどだ。一段落するまでは、頑張って作業をこなすしかない。


 私は、某電機メーカーの総務部で働いている。働いている……、と言っても、正社員ではなく契約社員だ。一年契約だから、次の契約更新時にはどうなるかは分らない。ただ、就職したばかりで給料も安いし、一応、言われたことは一生懸命やるし、特に大きなミスをした覚えもないし、人間関係でトラブったこともない。だから、正社員になりたいと思わなければ、今は普通に働くことは出来ると思う。


 本当は、契約社員で仕事をするのは本意ではなかった。私は大学在学中に司書の資格を取っており、それが活きる仕事に就きたかったから。

 しかし、司書の仕事で満足に暮らせる人はごく僅かで、順番待ちなのが現状だ。公務員試験を受けて公の図書館に勤めるのが一番安定しているが、私としては専門書が揃う大学の図書館で働きたかった。

 実際に、もう少しで就職出来そうなところまで行ったのだが、後からコネで割り込んで来た人に決まってしまい、致し方なく一般企業の就職活動をした。まあ、契約社員でも雇ってもらえて有り難いと思っているので、今の会社には何の不満もないが……。ただ、もし、司書の欠員が出た時には応募し、いつでも契約社員は辞めるつもりでもいる。


 司書の資格を取ったのは、大学で文芸サークルに入っていて、本に関わる仕事がしたいと思ったからだ。本に関わる仕事と言えば、出版社などを思い浮かべる人もいるだろうが、私は読むのが好きなだけで、自分で書いたり他人の書いたモノを論評したりするのは苦手だった。だから、サークルでも、ひっそりと本を読むだけであまり議論などには加わったことがなかった。






 洋子と直樹とは、サークルで知り合った。二人とも同学年で、大学に於ける私の数少ない親しい存在であった。

 

 洋子は、議論好きな上に社交的で、サークル内でも男女を問わず人気があった。付き合っていた異性も少なくない。おまけに博学で、サークル内の中心的な存在だった。自分で小説のようなモノも書いていたし、論評をさせると誰よりも鋭く的確だった。就職先も大手出版社で、今もバリバリ働いている。

 私とは、最初から気が合った。読む本の趣味もファッションのセンスもまるで違う二人だったが、お互いの長所を尊重しあえる大切な親友だ。洋子は、よく私の家庭的でキッチリした部分を褒めてくれた。

 今でも、二人で食事や飲みにも行くし、ショッピングもする。相談事には乗りもするし乗ってもくれる。私にとって唯一無二の存在である。


 直樹は、小説家志望だった。だから、知り合った当初から彼の書いた作品は全部読まされた。多少、ナルシストな点が気にはなるが、流麗な文章は豊かな才能を感じさせた。

 付き合いだしたのは、大学二年の夏だった。サークルの合宿で突然告白されたのだ。私は男性と付き合った経験がなく、とにかく戸惑ったのを覚えている。

 皆が就職活動の準備をし出す頃、彼はとにかくプロの小説家になりたいと、出版社を回っていたようだった。しかし、彼の才能を評価してくれる会社は、残念ながらなかった。そう言えば、同棲し出したのもこの頃だった。

 本人が言うには、彼の作品は時代を先取りし過ぎているそうだが、私にはそうとは思えなかった。目標のために、とにかく文章のテクニックに拘り、そして、それが嫌みに映っていったように、私には感じられた。

 結局、卒業と共にビジネスホテルに就職し、今は作品を書いてはいない。





 忙しかったこともあり、就業時間はあっという間に過ぎて行った。まだ用事が一段落つかない内に昼が来るくらい……。


 タケシさんのお弁当は、おにぎりが二つと、根菜類の煮物、春巻き、ポテトサラダだった。ポテトサラダは、恐らく昨晩の流用品だと思われるが、煮物と春巻きはわざわざ作ってくれたモノのようだ。煮物は薄味で食べやすく、春巻きは時間が経って冷えているのに皮がパリッとしていた。

 おにぎりは焼き鮭と明太子……。あの殺風景な部屋の何処に、こんなに食材が眠っているのろう? 男性の独り暮らしとは思えない食材のレパートリーに驚きつつ、会社でもタケシさんの料理を堪能するのだった。


 昼を食べ、午後になっても相変わらず忙しかった。先輩の契約社員の中には、要領良く立ち回り作業をあまりしないような人もいるが、私はどちらかと言うと作業をしていないと間が保たないので、ドンドン仕事を回してもらえるのは有り難かった。


 社内の比較的大きな会議の後片付けをし、部内の湯飲みを一通り洗うと、6時半になっていた。終業時間は5時……。残業代は出ないが、作業の性格上致し方ない。部内にはほとんど社員が残っていず、誰に言うのでもなく「お疲れさまでした」と一礼し仕事場を出た。





 帰りの電車の中で、私は二通のメールを送った。一通は、洋子へのお見舞いメール……。そして、もう一通は、タケシさんに……。


 洋子からは、すぐに返信が来た。

「もうすぐ復活だよ、長かった……(涙)」

と、書かれていた。インフルエンザでだいぶ苦しんだようだ。


「治ったら、快気祝いに何か食べに行こうね」

「明日には会社に行けるかも。明晩、空けといてね」

「了解、私もちょっと相談したいことがあって……」

「了解。じゃあ今晩中に治しちゃうね」

2、3分でやり取りし、洋子からのメールは途切れた。


 タケシさんには、これから帰ることと、買い物をすべきかを聞いた。計算外の私が食事をしているので、食料品がきれてしまっているだろうから。

 返信は、洋子からのメールが途絶えて、少し経ってからきた。

「仕事、お疲れ様。買い物は、今日、生協が来たからいいよ」

であった。


「生協って……」

まったく不思議な人だ。生協と言えば、普通は独身の人が利用するモノではないと思う。確か、計画購入のはずだから週に一回しか来ないはずだし……。予め毎日の献立でも作っておかなかったら、食材だって足りなくなってしまうだろうし……。





「お帰り、早かったね……」

ドアを開けると、タケシさんは玄関で出迎えてくれた。時刻は7時15分……。確かに早い。


「ああ、ごま油の良い匂いがしますね」

「あはは、お腹空いてるみたいだね」

「ええ、今日は仕事が忙しかったもので……」

「もうちょっと待っててね、今、天ぷらが揚げるからさ」





 天ぷらは、またまた美味しかった。海老、イカ、穴子、ナス、カボチャ……。どれも旨く揚げてあったが、特に良かったのはかき揚げだった。たまねぎとニンジン、それに小松菜のような青菜の入ったかき揚げは、天つゆと相性が良く、ご飯がいくらでも食べられそうだった。

 タケシさんに聞くと、青菜の正体はカブの葉だと言う。カブは根の部分を食べるものだと思っていたが、意外にも葉にも栄養があるのだそうだ。お味噌汁に入れても美味しいらしい。


「あの……、タケシさん」

「ん?」

夕食も終わり、入れてくれたお茶を飲みながら、私は話しを切り出した。

「昨日、ここに住ませていただけると仰って下さったんですけど……」

「うん、言ったね」

「それ、答えはもう少し待っていただいて宜しいですか?」


 私は、会社から帰る途中、ずっと考えていたのだ。タケシさんの提案に甘えて良いのかを……。

 泊めていただいているだけでも有り難いのに、その上住まわせてもらうなんて厚かましいにも程があることは分っている。きっと、洋子に相談すれば「家に来なよ」と言ってくれるし……。洋子も独り暮らしだし、何度も泊めてもらったから勝手も分っている。洋子と二人で暮らすのも楽しいだろう。

 ただ……、……。そうすると、タケシさんとは縁が切れてしまう。私とタケシさんは、一昨日出逢ったばかりの基本的には何の関係もない間柄だ。ここを出て行けばこれから逢う理由もなくなってしまう。

 

 そう、私はどうもタケシさんに好意を抱いているようなのだ。好意と言っても、かつての恋人である直樹に抱いた好意でもなく、洋子のような友人への好意でもない。今まで抱いたことのない不思議な好意を……。


「僕の方はいつもと同じ生活だから、全然構わないよ」

「すいません……」

「紗季さんの好きにすれば良いさ、君自身のことだからね」

「……、……」

タケシさんは意に介していないかのように、微笑みながら答えてくれた。

 でも、私はそれが少し不満だった。私は好意を持っているのに、タケシさんにとっての私は、いてもいなくても同じ存在であると言うことだから……。





「あっ、そうそう、これを渡しておくね」

そう言って手渡してくれたのは、この部屋の鍵だった。

「いつも僕がここにいるとは限らないからさ」

「……、……」

「まあ、とりあえず持っていてよ」

「はい……」


 タケシさんは、私のことをどう思っているのだろう? 決めるのは私だとか、家の鍵を渡したりとか……。信用してもらっていない訳ではなさそうだけど、かと言って私の内面には絶対に踏み込んで来ない。なんか、はぐらかされているようで、微妙な心境になった。


「洗い物は私にやらせて下さいね」

「ん……?」

「私、ここでお世話になるばかりで何もしてないので……」

「あはは、そんなこと気にしてたの?」

「タケシさんは家事をいつの間にかやってしまいますし、何でも出来るみたいですけど、私だって普通には出来ますから……」

「そう、じゃあ、お願いしようかな」

「はい、喜んで……」

ご迷惑だけは掛けていられない……、と言う気持ちと、私がここにいる必要性を少しでも遺しておきたい……、と言う気持ちからだった。

 とは言っても、洗い物はあっという間に終わってしまった。あまりにあっさり終わったので、布巾で食器を拭いて、戸棚に収めた。整理整頓の行き届いたキッチンの感じからすると、タケシさんはいつもここまでをサッとやってしまうのだろう。





 洗い物を終え、リビングを覗くと、タケシさんに異変が起っていた。異変と言っても、何のことはない、着替えただけのことだが……。よく考えてみると、タケシさんがスエット姿以外になるのを、私は初めて見た。

 紺色のネルシャツにダークグレーのカジュアルスーツ……。どう見ても、それは外出着であった。


「悪いけど、用があるんで出掛けるね」

「用ですか?」

「あはは、用って言っても飲みに行くだけね」

「ああ、なるほど」

「忘年会シーズンなので、色々な飲み屋に呼ばれるんだよね」

「そんなに、お飲みになられるんですか?」

「まあ、ちょくちょくね」

時刻は9時ちょっと前……。これから飲みに行くとなると、午前様になるのだろう。


「帰りは朝だと思うから、紗季さんは寝てね」

「朝なんですか?」

「そう、不良中年なの」

「うふふ……」

なるほど、鍵を渡したのはそう言う意味もあったのか。別に、私を信頼しているからではないのかと思うと、ちょっとがっかりした。


「風呂は沸いているから、適当に入ってね」

「はい……」

「退屈だったら、パソコンとかテレビとか何でも使って構わないからさ」

「あ、いえ……」

「あはは、パソコンの中に見られて困るモノなんかないから大丈夫だよ」

「……、……」

もう、タケシさんたら、私を上げたり下げたりして……。知りながらやっているのではないかと思えるくらい、私の気持ちを弄ぶ。


「じゃ、行くね」

「行ってらっしゃい」

玄関まで行き、見送った。

 ドアが閉まると、私はこの広い家に独りになった。






 パソコンやテレビを観ても良いとは言われたけれど、私はまったくそんな気にはなれなかった。とりあえずお風呂に入ってはみたものの、考えることはタケシさんが何をどう感じているのかを、いたずらに推測するばかり……。


 洗面所で髪の毛を乾かしている時に、ハッとしたことがあった。

「タケシさんって、どうして独りでこんなに広い家に住んでいるのだろう?」

と……。

 広いダイニングキッチンにリビング……。私が使わせていただいている和室の隣には書斎と思しき部屋が一つ(多分、4畳半)。そして、その隣にはタケシさんの寝室らしき部屋がある。間取りは3LDKだ。いくらお金持ちだとしても、こういうタイプの物件を選ぶかしら……?。私の感覚だと、3、4人の家族で住む物件だとしか思えない。


「家族で住む……」

心の中でこのワードに辿り着いた瞬間に、また一つ疑問が浮かんだ。そう、タケシさんにはどんな家族がいるのだろう、と言う……。

 あれだけ家庭的な人だ(男性に家庭的と言う言葉が相応しいのかな?)。きっと、婚姻歴だってあるだろう。


 布団に入ったのは、10時過ぎだった。今まで、こんなに早く寝床に入ることはなかったが、特に何かをやる気にもならなかった。そして、この家に住ませてもらって良いのかと、タケシさんが私に対してどう言う気持ちを持っているのかを考えるのだった。


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