第8話 垣間見る
「ところで、お腹空かない?」
タケシさんは洋子と私に声を掛けた。
先ほどからお茶をすすり、私達二人を眺めていたタケシさんだったが、たまりかねたかのように言った。そう言えば、私達はパイをいただいたが、タケシさんだけ昼から何も食べていない。
時刻は7時になろうとしていた。
「私もお腹空きました」
洋子が笑いながら言う。
洋子は健啖家なのに、まったく太らない羨ましい体質だ。女性の私から看ても魅力的なメリハリのある体型だが、それを維持する努力がいらないのだから、羨ましいを通り越してズルいような気さえする。
どうも、あまりお腹が空いていないのは私だけのようだった。
「せっかく新宿まで出てきたので、タケシさんに何処か美味しいお店を紹介してもらえません?」
「ん?、僕が何か作っても良いよ」
「いえ、今日は紗季がお世話になったお礼をタケシさんにしたかったので、私にご馳走させて下さい」
「うーん、洋子さんって本当にしっかりしてるねえ……」
「本当は、タケシさんの手料理にも、物凄く興味があるんですけど……。今日は我慢します」
「まあ、そう言うことなら出掛けようか。心当たりは結構あるからね」
「嬉しい、楽しみです。ねえ、紗季……?」
私もすかさず同意する。もちろん、洋子だけにご馳走させる訳にはいかない。お世話になっているのも、これからお世話になるのも、私なのだから……。
洋子の提案は、タケシさんにお礼をするだけではなく、別の意味でも私には有り難い提案だった。別の意味……、とは、タケシさんの日常とは違う面に触れられそうなことだ。
同居することが決まり、私は更にタケシさんのことが知りたくなっていた。特に、飲みに出掛けた先にどんな人間関係を持っているのかを……。あの、黒く長い髪の持ち主にも関心があったし、それ以外にもどんな人と付き合いがあるのかを、少しでも知りたかった。
「馴染みの店で良いかな?」
三人で外に出ると、タケシさんは私達に聞いた。
私の期待は高まった。タケシさんの人間関係に触れるのなら、馴染みの店が一番良いに決まっている。洋子と打ち合わせをしていた訳ではないのに、私の希望する方へ話が展開している気がした。
タケシさんに案内されたのは、ゴールデン街の一角にある焼鳥屋だった。
良く言うと味のある店構え……、悪く言うとすすけた感じがするあまり綺麗ではない店……、と言う感じだろうか。入り口に大きな赤い提灯がぶら下がっているのだが、汚れている上に所々が破れている。
入ると、カウンターの中で焼き鳥を焼いている店主と思しき男性が、
「いらっしゃい!」
と、威勢良く迎えてくれた。後から入ってきたタケシさんを見つけると、
「おっ、今日は早いね、タケちゃん」
と、今度も威勢良く声を掛ける。
「マスター、今日は連れがいるんだが、座敷で良い?」
「ああ、良いよ、上がって……」
「ボトルといつものウーロンセット、あと適当に焼いてくれる?。煮込みも三つね」
「あいよ」
馴染みの店らしく、タケシさんはサラッと注文すると、案内するように店の奥へ入って行った。
座敷と言っても畳敷きの小上がりで、ついたてもなかった。そこにテーブルが二つ置かれ、座布団が各々四枚ずつ敷かれている。ただ、他にはカウンターとテーブル席が一組だけの店内だったから、この店の中では贅沢な空間ではある。タケシさんが一人の時には、きっとカウンターに座るのだろう。
私としては、この焼鳥屋にはちょっとあてが外れた感じを持っていた。店の雰囲気からすると、黒く長い髪の毛の持ち主が接客をするとは思えないし、店内に女性は皆無だったから……。カウンターは全て埋まっていたが、その何れもが男性で、タケシさんと同年配か少し若いくらいの人ばかりだ。まあ、他にも行きつけのお店があるのだろうから、勝手にあて込んだ私の方が悪いのだが……。
私の勝手な期待はすかされてしまったが、タケシさんがこの店を選んだのは、分るような気がした。きっと、洋子がご馳走してくれると言うので、それほど高くないお店を選んでくれたのだろう。お品書きを見ても、どれもかなり安い。焼き鳥が一串120円からと言うリーズナブルさだった。
「ところで紗季、あなた家具はどうするの?」
乾杯をし、最初に出てきた煮込みを食べながら洋子は聞いてきた。私も直樹の部屋に置いてきた家具類については、どうしようか悩んでいたのだ。
「タケシさんの家にあるモノでほとんど賄えると思うけど、タンスとかは持ってきたいのよね」
「パソコンは?」
「あ、それも……」
「じゃあ、運ぶにしても結構荷物が多そうね」
最初は悔しいので全部持って来てやろうと思っていた。しかし、電化製品類はほぼタケシさんの家には揃っていて、しかもこちらの方が高性能だったりする。だぶらせても邪魔なだけだし、全部目を瞑ろうかとも……。
「紗季、来週の日曜日空いてる?」
「特に予定はないけど……」
「じゃあ、兄貴のハイエースを借りてくるから、欲しいモノだけ持ってきちゃいなよ」
「ああ、そうしてくれると助かるわ。日曜の昼は、ちょうど直樹もいないし……」
洋子には何から何までお世話になってしまって申し訳ない。洋子のお父さんは工務店を営んでいて、お兄さんも家業を継ぐつもりで働いている。ハイエースクラスの車なら確かに私の荷物などは一回で持ち運べるだろう。
諦めても良いと思っていたが、持ってこられるのならそれに越したことはない。今度も洋子には助けて貰うことになりそうで、もう感謝の言葉しか出てこない。まったく、持つべきモノは良い友人だ。
焼き鳥の盛り合わせは塩とタレが半々くらいで、値段の割に一本ずつが大きかった。焼き加減もふっくらとしており、さすがにタケシさんが連れてくるだけのことはある。自家製のつくねには卵の黄身が塗ってあり、美味しさだけでなくボリュームも満足するモノだった。
「ところで、タケシさんはどんな投資が専門なんですか?」
焼き鳥をあらかた食べ終わり、お酒もかなり進んだ頃、洋子が尋ねた。
「僕は日本の株式専門なんだ」
「そうなんですか……。あの、パソコン画面に出てた表はそれっぽくなかったですし、普通、株式投資ってパソコンを何台も並べてやるのではないですか?」
「ああ、僕は古いタイプの投資家なので、そんなに頻繁に売ったり買ったりはしないんだよ。だから、パソコンは一台で十分なの」
「……と言うことは、いわゆるデイトレみたいのとは違うのですね?」
「うん、ああいうのもやれば出来ないわけではないけど、やる必要がないんだよね」
「やる必要と言うと……」
「あはは、そこそこ儲かってるってことね」
「ごく普通に買ったり売ったりするだけで儲かっちゃうって、凄いですね」
「まあ、子供の頃から新聞の株式欄を見て育ったから、他人に勧めないのならそれほど大変じゃないんだ」
「……、……」
私にはピンとこない話だったが、タケシさんの言葉は洋子にはかなり驚くべき内容だったようだ。確かに、株やFXなんて投資は、大きな組織でもあって特殊な情報を掴まない限りは勝てないイメージが私にもある。
「洋子、タケシさんは土日でもお仕事をなさってるくらい研究熱心なのよ。だから勝てるんじゃないかな?」
「土日も……?」
洋子は不思議そうな顔をしている。そう言えば、土日には株式市場は開かないはずだ。
「あはは、土日にやってるのは仕事じゃないよ。遊んでるだけ……」
「遊び……?」
「そう……。今日、パソコンで開いていたエクセルのは、競馬を投資的にやったら儲かるかどうかを実験していたの」
「競馬で投資ですか?」
「そう、僕は競馬の馬もジョッキーもよく知らないし、レースもほとんど観たことがない」
「それで競馬が勝てるのですか?」
「うん、理論的には十分勝てるね」
「……、……」
「計算上は、116%の回収率だから、まずまずだと思う」
「では、儲かって仕方がないですね」
「あはは、違うよ、実験していただけだから馬券を買っている訳ではないの」
つまり、タケシさんは本業の株式投資で培った理論で遊んでいるのだ。洋子は興味があるのか色々聞いているが、私にはチンプンカンプンな話で良く分らない。
「私なら、そんなに儲かるのなら今すぐにでも始めてしまうなあ……」
「あはは、ちょうど会社の休みに出来るしね。たださ、これには一つ問題があるんだよ」
「問題ですか?」
「そう……」
ここからまた話は難しくなった。なかなか話に付いていけない私の理解が正しいか甚だ疑問ではあるが、まとめるとこんなことをタケシさんは言っていたと思う。
まず、競馬で勝つには馬券を買うことから始めるしかない。
次に、全部のレースに勝つ訳にはいかないので、損失が出た時にフォローする体制が必要になる。つまり、当った時に損失を取り戻すような買い方が大事なのだそうだ。
ただ、ここで問題が発生する。当った馬券に投資したレース分に関しては、買った馬券は税制上の必要経費になり控除の対象になるのだが、ハズレ馬券に投資した分は経費として認められず儲かった分の控除対象にはならない。つまり、当った分の配当だけでは所得税とハズレ馬券分の投資が埋められないので、結局、儲からなくなってしまう……、と言うことらしい。
「あ、それ、確か裁判で色々やってましたよね」
すかさず洋子は反応する。
「そうね、今の裁判の結果は、投資法次第で白か黒かに別れる感じで、経費と認められる確証があるとは言えないね。だから、問題が依然として残っているってことなんだ」
「なるほど……、苦労せずに儲かるなんて、世の中そんなに甘くない訳ですか……」
「あはは、洋子さんって面白いね。凄く色々知っていて、その上ちゃんと情報を処理する能力を持っている」
「いえ、何にでも興味を持ちたがる、尻軽女なんです」
と言うか、二人とも凄い。私はすっかり蚊帳の外だ。
でも、私はそれで良いような気がする。凄い人達の脇にいられるだけで……。
「まあ、たださ、裁判なんか待たなくても、多分、近いうちに経費で認められるようになるよ」
「えっ?、どうしてです」
「先日、カジノ法案が通ったよね」
「あ、はい、それが……?」
「カジノには日本人も出入り出来るようになるらしいから、当然、税金の取り方も変わってくるよ」
「それって、どういうことですか?」
「競馬の外れ馬券が経費じゃないのは、レースとレースの間に因果関係がないと評価されてるからなんだ」
「……、……」
「だったら、カジノの一勝負一勝負にも因果関係がないことになるので、勝った勝負だけしか経費が認められなくなるって理屈でしょう?」
「なるほど……」
「でも、そんなことしたら誰もカジノに行かなくなっちゃう。大勝ちしたら税金でごっそり持って行かれちゃうギャンブルなんて誰もやらないからね。商売自体が成り立たない。……、だから、法律が改正される可能性が凄く高いってことなのね」
「……、……」
洋子も押し黙ってしまった。きっと、タケシさんの言っていることに圧倒されたからだ。
何が凄いって、これが単なる遊びの話だからだ。投資法には専門的な技術がいるだろうし、裁判の経過などは社会的な情報収集能力も関係してくる。おまけに政治的な法案がどうのと言う話まで自分で評価出来ると言うのは、私のような無知な人間でも分る尋常ではない才能だ。
それからも洋子はタケシさんの話を熱心に聞いていた。タケシさんが専門の株式投資のことなども……。私は、ただただタケシさんの見識の広さに驚き、そして、色々と迷惑を掛けた洋子が、この場を楽しんでくれていることが嬉しかった。
「あら……、タケシじゃない」
座敷の脇の方から声が掛かった。そちらの方を見ると、黒のロングワンピースを着た女性が立っていた。真珠の一連のネックレスをしているので、もしかするとロングワンピースは喪服なのかもしれない。
「……ん? アリサさんか。そちらこそ、こんな時間に珍しいね」
「土曜の稼ぎ時なのに、今日は休んだのよ」
「ああ、葬儀の帰りか、そりゃあ大変だったね」
アリサと呼ばれた女性は、タケシさんと親しいのだろう。年齢は私とそれほど変わらないくらいなのに(きっと私の方が下だとは思うが……)、とても馴れ馴れしい。タケシさんを呼び捨てにするのにもちょっとイラッときた。
「珍しいじゃない、タケシがお水じゃない若い子と飲んでるなんて……」
「まあ、ちょっと色々あってね」
「あ、座敷に一人も寂しいから、ちょっと私も混ぜてよ」
「おいおい、そんな勝手に……」
「ここ、お邪魔しますねー」
そう言うとアリサは、そそくさとタケシさんの隣に座った。店内はほぼ満席で、彼女の言うように残っている席は私達の隣のテーブルしかない。タケシさんはあまり歓迎している感じではなかったが、洋子などは面白がって、
「どうぞ、どうぞ……」
と迎えている。
「何、タケシ、私と飲むのが嫌なの? そんな不機嫌な顔して……」
「そういう訳じゃないけどさ……」
「大丈夫よ、直来でいっぱいお寿司を食べて来ちゃったから、一杯飲んだら退散するわ」
「いや、まあ……」
「亡くなった方は、凄くお世話になった人でね。どうしても、今は一人じゃ飲みたくなかったの」
「……、……」
「だから一杯だけね」
よく見ると、アリサは綺麗な顔立ちをしている。葬儀だったから派手なメイクはしていないようだが、目鼻立ちがハッキリした、フランス人形のような上品な顔だ。髪の毛が栗色の巻き毛なのも、フランス人形をイメージした一因なのかもしれない。
「ごめんなさいね、突然割り込んでしまって……」
彼女のグラスが来て、ウーロン杯が出来上がると、乾杯の前にアリサは私達に向かってそう言った。ウーロン杯は手際よく自分で作り、いかにも仕事で慣れているような感じだ。綺麗に揃った爪に、シルバーグレーのネイルが施されている。
「ほら、タケシ、ちゃんと私を紹介しなさいよ」
「ああ、そうね……」
タケシさんはすっかりアリスに仕切り回されている。
「こちら、歌舞伎町のキャバクラに勤めているアリスさんね。お店ではかなりの売れっ子らしい」
「アリスです……。お名刺渡しても良いのだけれど、渡されても困っちゃうわよねえ」
「ここで営業掛けてどうする……」
タケシさんは呆れたように応じる。
私達二人も挨拶をして名乗った。洋子のお酒が少ないと見るや、アリスはすかさず作り出す。
「洋子さんと紗季さんね。初めまして……。何よ、タケシったら、こんなに美人を二人も連れちゃって……」
「……、……」
「タケシはいくら営業を掛けても、一度もお店に顔を出さないのよ」
「ん、まあ……、そうだな」
「接客されながら飲むのがあまり好きじゃないらしいの」
「酒は自分のペースで飲みたいからなあ……」
「だからと言って、一度くらい付き合いで飲みに来たって良いと思わない?」
アリスはとにかく良く喋る。タケシさんもタジタジだ。
最初は私も、この闖入者アリスに戸惑っていた。もしかして、タケシさんと深い仲の人なんじゃないかとも疑ってみたし……。
しかし、その心配がないことは、タケシさんとアリスの掛け合いで段々分ってきた。知り合って二、三年になるが、飲み屋以外で顔を合わせたことがないことや、お互いに飲み屋には共通の知人が多く、プライベートな仲にはなり得ないこと、そして、アリス本人には今、極秘(?)に彼氏がいること……、などが明かされたからだ。洋子はすかさず、
「ここで言っちゃったら極秘にならないじゃない」
とツッコミを入れていたが、アリス本人は、まったく意に介していないようで、喋る勢いは衰えることを知らなかった。
「ちょっと失礼……」
言いながらタケシさんが席を立つ。
「歳をとると近くなってね……」
なんて言っているので、トイレに立ったようだ。
アリスは、「一杯で帰る……」と言っていたのに、何杯飲んでも帰る気配はなかった。
タケシさんのボトルがなくなり、アリス自身のキープボトルが尽きても、
「もう一本キープしてあるから大丈夫」
と言って開けては、ドンドンお酒を作ってしまう。すっかり場に溶け込んで飲んでいる姿を見ると、本当に飲み仲間なんだなあ……、と実感する。きっと、アリスやタケシさんには、こういう飲み仲間がいっぱいいるのだろう。
「お二人は、タケシとどういう関係?」
アリスは、タケシさんが席を立つと私達に尋ねた。とても意味ありげな笑みを浮かべながら……。
「紗季は関係が深いですけど、私は今日初めて会いました」
洋子が私の脇腹を肘で突きながら、サラッと言う。
「紗季さん……、深い関係って、もしかして……」
「……、……」
「付き合ってるってこと?」
「そう言う訳では……」
「ああ、そう言うことか。紗季さんが一方的にお熱なのね」
「……、……」
さすがにお水のプロだけに鋭い。
「あ、でも、紗季はタケシさんと一緒に住んでいるんですよ」
「よ、洋子さん、それマジで……?」
「ええ、今日はその件で、私は呼び出されましたしね」
アリスは本気で驚いたらしい。ピタッとお酒を作る手が止まる。
「タケシってね、誰とでも飲むけど、どんな相手とも絶対そう言う関係にならないので有名なの」
「……、……」
「私のお店に、以前、アケミってナンバーワンの人がいたんだけど、一時、タケシにご執心でね」
「……、……」
「あの手この手を使って、ようやくホテルまで連れ込んだのだけど、シャワーに入っている内にタケシが帰っちゃった……、って」
「……、……」
「その人、ショックでお店を辞めちゃったわよ」
「……、……」
「ん、皆、黙っちゃってどうしたの?」
タケシさんがトイレから帰ってきた。先ほどまで騒がしかったアリスまでもが沈黙していたので、雰囲気が変わったのを感じたらしい。
「ちょっと、タケシったら……。いつの間に同棲する子なんか出来たのよ」
「紗季さんのこと?」
「そうよ、一昨日も飲んだのに、そんなこと一言も言わなかったじゃない」
「わざわざ言う必要もないだろう?」
「何言ってるのよ、水臭いわね」
「おいおい、誤解するなよ。紗季さんとは同棲じゃなく同居ね。ほら、ルームシェアってやつだよ」
「こんなカワイイ、若いお嬢さんと?」
「困ったやつだな、まったく……」
タケシさんは本当に困ったのか、顔が赤くなった。今まで散々飲んでいたが、全く顔色が変わらなかったのに……。
「じゃあ、私、帰るね。良いネタをもらっちゃったから……」
アリスは唐突にそう言った。タケシさんが、「良いネタってなんだよ」と呟くが、軽くスルーして、
「私、これを報告しないといけないわ……、カリン姐さんに」
と嬉しそうに宣言する。
私と洋子には意味が分らなかったが、恐らくそのカリンって人も飲み仲間の一人なのだろう。
コートを着て、帰り支度を調えると、アリスは私の耳元でささやいた。
「紗季さん、タケシは良い人だけど、ライバルも多いから気をつけてね」
と……。
タケシさんや洋子には聞こえなかったらしく、
「何々……?」
と洋子が尋ねるが、アリスは笑って答えなかった。
「私もそろそろ失礼します」
アリスが帰ると、洋子もすぐにそう言い出した。確かに、もう11時を回っている。うっかりすると終電に乗り遅れてしまう時間だ。
私は洋子を送りながら先に帰ることを、タケシさんに告げた。タケシさんも他の店で飲み直すと言う。
洋子は、
「楽しかったね……」
と、ご機嫌だ。
お会計は、4人で散々飲み食いしたにも拘わらず、8000円で済んでしまった。タケシさんとアリスがボトルを提供してくれたので安かったのだろう。
焼鳥屋を出ると、タケシさんとはそこで別れた。
私は洋子と新宿駅に向かう。
「紗季もさあ、アリスさんみたいに、タケシって呼べば?」
大通りに出て、人混みを避けながら二人で歩いていると、前後の脈略もなく洋子はそう言った。すかさず、私はそんな馴れ馴れしく呼べない……、と言ったのだが、
「そう……」
とだけ言って、洋子は笑っていた。
洋子をJRの改札まで送り、私は帰途についた。先ほど洋子に言われた、
「タケシって呼べば?」
と言う一言が、歩きながら頭の中を巡っていた。きっと、私はタケシさんに良いと言われても、彼を直接呼び捨てることは出来ないだろう。
でも、今日からは、自分の中だけではタケシさんを呼び捨てにすることにした。私もアリスと同じくらい親しくなりたかったから……。
「タケシ……」
と、独りで小さく呟いてみる。雑踏の騒音に紛れて、誰の耳にも届かなかっただろうが、私はそれでも十分満足だった。
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