第13話 異世界
「あの……、早く行かなくて良いのですか?」
夕食を食べたばかりだと言うのに、私は気が急いていた。すでに洗い物は終わり、私は着替えも済ませ、外出の準備は調っている。
今日は12月28日……。仕事納めで、明日から年末年始の休みに入る。
休暇は1月3日まで。仕事は嫌いではないけれど、やはりのんびり休めるのは嬉しい。
仕事納めだけでも嬉しいのに、今晩はタケシと飲みに行く約束をしている。しかし、肝心のタケシはなかなか腰を上げようとしない。嫌がっているのは明白で、いつも颯爽と出掛けていく人と同じ人物だとは思えない。
先日のサンタワンピース事件は、アリスの暗躍により、私の恥ずかしい姿がタケシに晒されることになった。今日はアリスも来るらしいので、文句の一つも言ってやろうと思う。そう言う意味でも、今日の私は気負っていると言える。
タケシはどうしても私をカリンと言う人に逢わせたくないようだ。しかし、私はこの人物にどうしても逢いたいと思っていた。先日のタケシへのメールで、私の存在を浮気と決めつけたこのカリンさんに逢い、タケシと私が暮らしていることをアピールするつもりでいる。
タケシに飲み友達が多いのは良いけれど、やはり、特定の女性と親密なのは気になるし、率直に言えば嫌だ。カリンさんがどんな人かは知らないが、私とタケシがステディな仲であることを認めさせ、浮気なのはどちらかを分らせてやるつもりだ。
グズるタケシを急き立てて、家を出たのは8時過ぎだった。
フッと見ると、タケシは私が贈ったマフラーをしてくれている。グレーのスーツにボルドーのマフラーが良く映え、5歳は若く見える。
目的の店は、歌舞伎町方面ではなかった。……と言うか、繁華な方から遠ざかるようにタケシは進んでいる。大通りには徐々にネオンがなくなり、これから飲みに行くと言う感じがあまりしなかった。
寂しめな大通りから路地に入ると、急にバーやスナックの看板が目立ち始めた。タケシはその中のビルの一つに入っていく……。
「ここが、カリンさんのいるお店なのね……」
私はそう心の中でそう呟くと、何があっても良いように心構えを新たにするのだった。
「いらっしゃ~い」
ビルの二階にある扉を開けると、すかさず声が掛かった。店内を見ると、薄暗い照明の中に、カウンターとボックス席が浮かび上がる。全部で20席ちょっとだろうか。一見した感じでは、ごく普通のバーかスナックのように見える。
すでにボックス席の方は埋まっていて、必然的に私達はカウンター席に案内された。そして、案内してくれた人がそのままカウンターに入り、おしぼりを出すと、
「お飲み物は何にします?」
と聞いてくれた。
「タケシさん、これが噂の紗季さんね?」
カウンターの中の人は、乾杯をするとすかさず尋ねた。
カウンターの中の人は、オレンジ色のプリーツドレスを着ている。言葉遣いも丁寧で、髪型はボブで金髪……。一応は女性っぽい。しかし、身長がどう見ても180㎝以上あり、肩もガッチリしていて、体型だけを見ると男性だ。ただ、しっかりお化粧をしているし、胸もある。
年齢はタケシと同じくらいか少し上だろうか? もしかすると、もっとずっと若いのかもしれない。顔には加齢による皺がないので、人相風体からは年齢も性別も分らない不思議な人だ。
「初めまして、私、ますみと申します。あら、紗季さん、あまりジロジロ見ないでね。恥ずかしいわ」
「ますみさん……、あまり紗季さんをからかわないでくれよ。こういうところ、初めてなんだからさ」
タケシが渋い顔で言う。
私にはどうからかわれたのか分らなかった。確かに私はジロジロ見ていたし。失礼だったかな、と反省していたくらいなのに……。
「紗季さん、ますみさんを見て分ったと思うけど、ここはオカマバーなんだ。つまり、ますみさんもオカマだよ」
「オカマ……?」
「そう、基本的には元男性ってことね」
「……、……」
確かに、ますみさんがオカマならガッチリした体型も高い身長も分る。ただ、胸はどうなっているのだろう?
「胸はシリコンが入っているのよ、触ってみる?」
ますみさんは私のような反応に馴れているのか、何も言わなくても私が考えていることが分るようだ。
ますみさんは私の手をとると、自分の胸に触れさせる。確かに、ちょっと私のとは感触が違う。弾力はあるが、少し張りがきつい。
「あらいやだわ、しっかり揉んで、感じちゃうわ。あん、もう……、紗季さんたらエッチ……」
「そ、そんな、揉んでなんていないです」
「タケシさん、私、紗季さんに辱められちゃったわ。あなた、紗季さんの代わりに、今晩、責任取って下さる?」
「……、……」
タケシはますみさんの言動に馴れているのか、笑いながら見ているだけだ。
「そうそう……、紗季さん、今日は普通の格好なのね。残念だわ、コスプレでいらっしゃるのかと楽しみにしていたのに」
「こ、コスプレ?」
「そうよ、サンタクロースの似合っていたわよ。ああ言う趣味なんでしょう?」
「あれは、仕事でやっていただけで趣味じゃありませんけど……」
「仕事? あら、プロの方だったのね、失礼いたしました。道理で似合っているわよねえ……。着慣れている感じがしたもの」
「着慣れてなんていないです」
「サンタクロースは初めてだったの? じゃあ、普段はアニコス系かしら? もっと露出の多いのがお好み?」
「そうじゃなくて……」
「良いじゃないの、恥ずかしがらなくても。私も好きよ、そう言うの。ほら、これもカツラなのよ。同じような趣味の女同士なんだから、仲良くしましょうよ」
「た、タケシさん、何とか言って下さい」
私が何を言っても、ますみさんのペースで話が進んでしまう。たまりかねてタケシに救いを求めるが……。
「あら、涙目になってるわ。カワイイ……。ズルイわ、紗季さん。そんなにカワイク泣かれたらタケシさんじゃなくても、惚れちゃうわよねえ。私なんか20年も付き合いがあるのに、タケシさんたら誘ってもくれないのよ」
「……、……」
「あ、ちょっと失礼いたしますわ。……、いらっしゃ~い」
結局、ますみさんは私とタケシに何も抗弁させず、新たなお客さんが来たので接客に行ってしまった。
これがオカマバー……。タケシが私を来させたくなかったのも、分らないでもない。圧倒的な異空間を前に、私は愕然とするのであった。
「あはは、驚いたようだね」
ますみさんが行ってしまうと、タケシは私にそう語りかけた。
「驚いたと言うか、オカマの人に逢うのは初めてなので、圧倒されました」
「まあ、さっきのはますみさんの冗談だから、気にしなくて良いよ」
「冗談?」
「そう、オカマトークの定番ネタみたいなモノで、名刺代わりだね」
「それなら良いのだけれど……。でも、私、コスプレ趣味の人みたいに思われてません?」
「あ、それだけは本気かもね」
「えっ?」
「あはは、冗談だよ」
「もう、タケシさんったら……」
タケシはすっかりこの異空間に溶け込んでいる。さっきまであんなに嫌がっていたのに……。
「ますみさんはね、プロ中のプロなんだ」
「……、……」
「だから、色々言うけど全て心得てるし、ちゃんとお客さんのことを看て接客しているから、その人がどういう人かもすぐに把握するんだ」
「つまり、私は言っても大丈夫だと思われたのですか?」
「あはは、そうだと思う。多分、紗季さんは気に入られたと思うよ。初対面であんなにカマすことは、ますみさんでもそんなに多くないから」
「……、……」
「年齢が分らないだろうけど、あの人、僕より10歳も上なんだよ」
「えっ?」
「だけど、素敵な彼氏がいるし、男性の気持ちも女性の気持ちも良く分る。水商売をやるために生まれてきたような人だね」
「……、……」
「惜しむらくは、身体が大きいのでオカマとしてはちょっと辛い部分もあるけど、話しているとそんなの全然関係なくなっちゃうでしょう?」
「……、……」
「本来、女性ではなかったからこそ本人も大変な想いをしてきている。弱い立場の人にも優しいしね」
ますみさんは、少し離れたカウンターで接客している。確かに先ほど私と話していた時とはトーンが違う。中年男性の二人連れを相手にしているが、落ち着いた物言いは同一人物とは思えないほどだ。
もしかすると、私がこういう店に馴れていないのを感じ、わざとおどけてくれていたのかもしれない。
「あの、手前のボックス席で接客している人がいるよね」
「坊主頭の方ですか?」
「そうそう、あの和服を着流している小太りの人ね。あの人はサンディさんって言うんだけど、ここの店の人なんだ」
「……と、言うことは、オカマさんなんですね?」
「うん、まあ、そうなんだけど、あの人はちょっと変わっていてね」
「……、……」
タケシによると、サンディさんは職業オカマなのだそうだ。つまり、本当のオカマと言うよりは、接客業をするためにオカマを演じているだけなのだと言う。
ただ、物腰が柔らかく、悩み相談などにも乗ってくれるので、若い女性には人気があるらしい。そして、本当のオカマではなくても、女性のお客さんと深い関係になったりはしないそうだ。そう言う点でも、職業オカマを徹底しているのだと、タケシは言う。
歳は、多分、ますみさんと同じくらい。ますみさんの年齢不詳な感じとは対照的に、サンディさんはそのものズバリの年齢のようだ。
「一口にオカマさんって言っても、色々な方がおられるのですね」
「そうね……、この界隈はゲイの人のたまり場だから」
「この界隈?」
「新宿二丁目って知らない? 東洋一のゲイタウンなんだけど……」
「あ、聞いたことはあります。そっか、ここが有名な二丁目なんですね」
「そう、特にここはど真ん中だからさ。この近辺のビルは、ほとんどその関係のお店ばかりなんだ」
私は何も知らずに、新宿二丁目で飲んでいた。多分、タケシに出逢わなければ一生縁のなさそうなこの場所で……。
テレビではオネエタレントなどがお馴染みになっているが、自身がそれに近いオカマの方々に会うとは夢にも思わなかった。
「奥のボックス席で接客している人がいるよね」
「はい……。あの人がカリンさんですね」
「ん?、どうして分ったの」
「それは……」
私はこの店に入った時からずっと気になっていたのだ、あの人のことが……。そして、カリンさんであることも確信していた。
何故、私が確信していたかと言うと、カリンさんは黒い髪が腰まであるからだ。あの洗濯槽で見つけた黒く長い髪の持ち主は、この人だとしか思えなかった。
カリンさんは、白いブラウスに黒いロングスカートと言う格好で、見た目も女性そのものだ。イメージ的には、ピアノの先生って感じだろうか。言われなかったらオカマだとは気がつかないだろう。色白でメイクもキツ過ぎず、とても自然な佇まいだ。
オカマだと言われてみれば、確かに女性としては身長が高いが、ますみさんのように際だって高い訳ではない。体型は、衣服が身体のラインを隠しているデザインなので分らないが、少しふくよかな感じだと思えばまったく違和感はないし。それに、何と言っても、顔が女性的で美人だ。
年齢はますみさん同様に分らない。あっても40代前半くらいまでな気がするが……。
私は洗濯槽で見つけた黒い長い髪の毛について、タケシには何も言わなかった。カリンさんの姿を見てしまったら、あのメールの浮気発言も気になってきたし。アリスが「カリン姐さん」と呼んでいた通り、まったく女性そのものだ。まさかとは思うが、タケシがカリンさんと深い仲だと言う可能性も、否定できなくなってきたように感じた。
「あら、タケシさんじゃない」
「ああ、どうも……」
「今日はまた違う子を連れてるのね」
「高梨さん、僕はいつも若い子と飲んでいる訳じゃないですよ」
「だって、いつもはアリスって子が一緒でしょう?」
「いや、アリスさんもたまに飲むだけです」
「うふふ……、そうかしら? でも、その子が嫌な顔をしているから、もうこれ以上は言わないわ」
「まったく、この店に来る人はどうしてそう誤解するようなことを言いたがるのかな?」
タケシの後ろから、女性が突然話しかけてきた。タケシはまたも困惑顔だ。
高梨と呼ばれた女性は、小柄でスレンダーな中年女性だった。タケシとは旧知の仲なのか、かなり馴れ馴れしい口調だ。
「ダメよ、高梨さん……。二人の邪魔をしちゃ。タケシさんと紗季さんはラブラブなんだから」
少し離れたところから、ますみさんがダメ出しをする。そして、タケシのお酒が少なくなっているのを見るや、目の前に移動してきてすぐにお酒を作り出す。
「ますみさんも公認なの? この子のことは」
「そうよ、紗季さんとは、今度一緒にコスプレしようって約束もしたものね」
「悔しいわ、私の一番上の娘より若いお嬢さんに、タケシさんを奪われるなんて……」
高梨さんは、少し不満そうな声で訴えるが、ますみさんは笑って相手にしていない。
私もコスプレの約束はしていないので、勝手に話が進むのは不満だったが、話の流れに乗れず黙っていた。
「紗季さん……、この高梨さんは、昨年まで男性だったんだよ」
「えっ?」
「四人の娘さんがいてね、それなのに奥さんと別れてオカマになっちゃったんだ」
タケシが呆れたような顔をして呟く。高梨さんは、少し恥ずかしそうに顔を伏せるが、もう言われ馴れてるのか微笑みさえ浮かべている。
「ど、どうして……?」
「紗季さん、理解できなくて当然よ。私の長いオカマ生活の中でも、こんな変わった人珍しいわ」
「……、……」
「二丁目で遊んでいる内に、いつの間にかカミングアウトしちゃっててね。元は全然そんな感じの人じゃなかったのよ」
ますみさんも呆れたような声を出している。私は、そんなことがあり得るのかと、ただただ驚くだけだった。
高梨さんはしばらく話をしてから、元の席に戻った。ますみさんも、カウンターの他のお客さんの方へまた移って行った。
「そう言えば、アリスさんはまだいらしてないですね」
私はこのお店に入って衝撃の受け通しだったので忘れていたが、急にアリスの存在を思い出した。先日飲んだ時には、アリスのマイペースぶりにビックリしたものだが、今思うとそれもかなりまともに思える。
「アリスさんは、日付が変わってからかな。今頃、お店で頑張っているだろう」
「アリスさんも大変ですね……」
「ん?」
「私、水商売をしてる人ってもっと華やかで楽しいモノなのかと思ってましたけど違いますね」
「……、……」
「今日、ますみさんの接客を見ていて、本当に大変なんだなあ……、と」
「まあ、色々な人が来るからね」
「その一人一人をちゃんと看て、向き合ってるのって凄いと思うんです」
少し酔ってきたのか、自分でも饒舌になっているのが分る。
「客の方も色々あるけど、接客する方も色々と抱えていたりするんだよ」
「そうかもしれないですね」
「特にオカマの方々はね」
「……、……」
「紗季さんは自分が女性であることが当たり前だと思っているだろうけど、彼らはまずその前提となる当たり前が何かから始めるんだ」
「性別が確定していないと言うことですか?」
「そう、本人がいくら女性だと思っていても、周りがそれを許さない場合が多いから」
「周りですか……」
「親だったり、兄弟だったり、親戚だったり、友達だったり、会社の同僚だったり、ご近所の人だったり……。とにかく、ありとあらゆる人間関係が、本人が正しいと思うことを否定してくる可能性があるんだ。彼らはその一つ一つにケリを付けて生きてきているんだよ」
「私には想像も出来ないです」
「そうね、僕もだよ。だからこそ凄いと思うんだ。自分には出来ないことをやれちゃう人達なんだからさ」
タケシと話をしている内に、私は何故だか直樹を思い出していた。きっと彼は今も小説を書こうと懸命になっているのだろう。その姿が、オカマの方々に被っているような気がする。
彼は仕事……。オカマの方々は性別……。生きる上で大事なモノを否定されて、それでも自力で前に進もうとすると言う点で、私には似通っているように思えて仕方がなかった。
「それは違うわ」
後ろから声が掛かった。振り向くと、また高梨さんが立っていた。私達の会話を聞いていたようだ。
「私は一つ一つにケリなんか付けてこなかったわ。皆がそんなに強く生きている訳ではないのよ」
「分っているよ……、高梨さん」
「私は放り出して逃げたのよ。ただそれだけ。でも、逃げて楽になったわ。それっていけないこと?」
「いや、そんなことないよ。ただ、高梨さんはまだケリの付け途中なだけだよ。そんなに簡単に割り切れる訳もない。誰もそれを責めたりしないさ」
「タケシさん……、相変わらず優しいのね。あなたはいつも変わらない。私が男であっても、女であってもね」
「まあ、何れにしても高梨さん本人でしかないからね。僕が僕であるのと同じことさ」
「……、……」
時刻は11時を回ったくらいだ。お客さんで帰る人はまだいない。
宴たけなわだからか、あまり広くない店内にカラオケが響き始めるのだった。
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