拾ったからには責任とってね
てめえ
第1話 棄てられる
「悪いけど、出てってくれない?」
突然、何を言い出すのかと思ったら、これ以上ないほど残酷な言葉が飛んできた。
と、言うか、それが二年も同棲していた彼女に対して言う言葉か? あまりにも自分勝手だし、理由も何も言わないで切り出すなんて……。しかも、この師走の寒空に出て行けだなんて……。
直樹はいつも大事なことを唐突に言う。それが相手にとってどんな意味を持つかなんておかまいなしに、サラッと、さも当然かのように言うのでタチが悪い。
それでも、今まで付き合ってきたのは、普段は優しく接してくれるからだ。しかし、そんな気持ちもこの最悪の一言で一気に醒めた。そう、言われなくても出て行ってやると心の中で瞬時に誓ったのだった。
気持ちの整理は瞬時についたものの、私の身体はまだ最悪の一言に対応してはいなかった。まず、どう動き出せば良いのか、それとも言葉を発して誓いを表現したら良いのか……。何をすれば直樹に後悔させるくらいのダメージを与えられるのだろう? そんな疑問形の言葉の数々が私の中で次々に湧いてきていた。
最悪の一言が来る直前の私は、少し遅めの夕食を作っていた。2人分の……。今日は寒いので鍋物が良いかと思い、豚肉の薄切りと白菜を買って来たのだ。
その白菜を左手に持ち、右手に包丁を持ったまま半ばフリーズ状態の私。まな板にそれらを置いて直樹に向き直りたかったが、怒りとも諦めとも違うような微妙な気持ちが身体を硬直させていた。
「聞こえた? 出てって欲しいって言ったんだけど」
「……。」
「もうお前が偉そうに仕切るのに耐えられないんだ、俺」
「……。」
「それに、好きな子が出来ちゃったんだよ、実はさ……」
「……。」
肺腑をえぐるような言葉の暴力を受けたが、受ければ受けるほど気持ちは落ち着いて行くのが分った。「ああ、私、もしかするとかなり前から醒めていたのかもしれない」なんて冷静に思えてくる。
ただ、一つだけ納得がいかないのは、一方的に出て行けと言われていること。確かにこの安アパートの敷金、礼金は直樹が払ったが、家賃はずっと折半している。
あと、冷蔵庫も洗濯機も電子レンジも布団もタンスもテレビもパソコンも炊飯器も掃除機も……、全部私が買ったか持ち込んだものだ。つまり、どう見ても私の住居に近い空間なのだ、この部屋は。
それなのに何故私が出て行かないと行けないんだろう?
「はあ……。」
一つ大きく息を吐いた。ようやく直樹に向き合う決心が付いたから……。
結局、今晩中に私が部屋を出ることになった。
押し問答は小一時間も続いたが、直樹の態度は頑なだった。こちらとしても、出て行くことに異存は無かったものの、すんなり引き下がるのもバカバカしいので、嫌ならあなたが出て行けば?、と言ってやった。どうせ新しい彼女が乗り込んでくるのだろうから、直樹がここから出て行く訳は無いことを百も承知で……。
「契約は俺がしてるんだから、お前が出て行け……」
この一点張りで押し切られたのはかなり悔しかったが、もうこんな奴と一緒の空間で息をしているのも嫌だった。貯金もかなりあるし、いっそ清々するとも思ったので、そこそこのところで私が出ることには同意した。
ただ、私の物は全部引き取りに来ると宣言はしておいた。新しい彼女がどんな子か知らないけど、その子にサービスしてあげるつもりは毛頭無かった。
とは言うものの、身の回りの物をスーツケースに詰め、大きめのリュックを背負っていざ部屋を出るときには、さすがに泣きそうになった。
でも、ここで泣いたら直樹を喜ばせるような気がして、グッと耐えた。掌に爪が食い込むほどギュッと拳を握りしめて……。
「じゃあね」
この一言が、私の精一杯の抵抗だった。努めてクールに、直樹がするようにサラッと言ってやった。
「紗季なら大丈夫だろ、しっかりしてるし、美人だからな」
都合の良いことを言ってるんじゃない……、と思いつつも、もう私は振り返らなかった。お気に入りのブーツになかなか足が入らなかったのは、やはり平常心ではいられなかったからだろうか。それでも、大荷物を抱えて狭い玄関から抜け出ると、そっとドアを閉めた。
いつもなら気にならないスーツケースのゴロゴロ音が、今日は妙に大きな音に感じた。
勢いで部屋を出たものの、行くあては無かった。まあ、今日は土曜日なので、明日も休みだ。とりあえず今晩だけ何処かで凌いで、明日不動産屋を回れば良い。
駅に着いた時には22時を回っていた。
駅に着いたからと言って、何処へ行くつもりも無かったが、とにかく直樹のいるあの部屋から離れたかった。近日中には、所有物を取りに戻らなければならないこともすっかり忘れて……。
「都心へ……。」
気持ちの中にはそれだけしかなかった。もちろん、都心の何処へ行くのかなど決めてはいない。
ただ、都心にはカプセルホテルも満喫もネカフェもいくらでもあるように思えた。実際に使ったことがないのであくまでもイメージだけではあったが、人通りの少ない寂しい駅でスーツケースとリュックを持った自分が、終電で駅から追い出されるのだけは想像するのも嫌だった。
だから、とにかく山手線に辿り着くために京浜東北線に乗り、品川で乗り換えようと思ったのだった。
衝動的に電車に乗ったが、いざ乗って少し落ち着いてみると、友人を頼ると言う手段があることに気がついた。友人と言っても、もう深夜にかなり近い時間だから、そんな状況で頼めるのは一人しかいないのだが……。
その一人、洋子にメールだけはしてみる。
突然のことなので、極力、いつもと同じようなノリで、
「今ってメールする時間ある?」
と……。
洋子はスマホ周辺にいれば即レスしてくる人間なので、多少の期待を込め画面に見入る。
「洋子に頼むのなら、逆方向に乗っちゃったなあ」
そんなことをちょっと考えつつ、新着メールが来るのを待った。
しかし、蒲田を過ぎ、大森に着いても返信は来なかった。洋子にも都合があるだろうし、致し方ない。
それに、今、洋子に会ったら、直樹に対する愚痴を全てぶちまけてしまいそうだから、返信が無かったことはかえって良かったかも。もう、あんな奴の為に感情的になるのは金輪際ごめんだし……。
山手線に乗り換えてからしばらくは、何処で降りるかだけを考えていた。
幾つかの候補駅を乗り越し、降りたのは新宿であった。
途中、渋谷で降りかけたが、一緒に降りそうになっているカップルが目に付き断念。心ならずもまだ部屋を追い出されたことを引きずっている自分に気付かされる。
新宿で降りたのも、それほど理由があった訳ではないのだが、私と同じ世代の女性が重そうなトランクを下げて降りていくのを見て、何となくシンパシーを感じたためだった。
とは言っても、その女性は深夜に出る高速バスにでも乗るのだろう。行くあてのない私とは立場も表情も雰囲気も違っているように見えた。
忘年会シーズンでもあり、新宿駅は終電を意識する時間になっても混んでいた。いつ来てもこの駅はラッシュアワーのように人で溢れかえっている。
飲み会帰りと思しき赤ら顔の若い女性もチラホラ目に付く。私がこの時間の新宿駅にいる時は、やはりお酒を飲んだ後が多い。友人と……、仕事の関係の人と……、そして、直樹と……。繁華街のチェーン店系の居酒屋で、一種の祭りのような楽しい時間を過ごしてきた。
改札を出ながらそんなことを思い出していたら、猛烈にお腹が空いてきた。そう、私は自分で用意した豚しゃぶを放棄して出てきたのだった。
「ちょうど良いから、お酒でも飲もうかな……。」
心の中でそう呟き、雑踏に入る。
しかし、10歩も行かない内に荷物が気になりだした。誰も私のことなど見てはいないので、格好がどうのとかではないのだが、スーツケースがスムーズな進行を妨げているし、お店に入った時にも何処に置くかまた考えなくてはならないことに気がついた。
「あ、さっきコインロッカーがあった……。」
フッと思い出す。預けてしまえば身軽になれる。それに、悲壮感漂うこの大荷物にいい加減うんざりしてきたところだ。
幸い、コインロッカーは大きいのが空いていた。身の回りのモノだけトートバックに入れ直すと、何だか自由になったような気がする。
「さあ、これで万全、飲みに行くわよ。」
誰に聞かせるでもなく独りごち、今度こそ雑踏の奥、アルタの向こう側に歩を進めるのであった。
落ち着いた先は、何の変哲もないチェーン店系の居酒屋であった。本当は、オシャレなバーや高級料理の店に入ってみたかったのだが、入った経験が無いので怖かったのだ。新宿ではボッタクリの店なんかもあると言うし、寒空に放り出された身の上としては無駄遣いするのも気が引けたのもある。
大通りに面していて一応チェーン展開している会社なら、多大な期待には応えてはくれなくても無難には過ごせそうだし……。あと、24時間営業と書いてあったので、閉店で追い出されることもない。
店内は団体客でいっぱいだった。
どう見ても一軒目の客ではなく、他で散々飲んだ末にここに来た客達のようだった。酷く煩く、そして外界から隔離されたこのスペースには妙な熱気がこもっていた。
一人の客は、私だけのようだった。しかし、誰も私なんか気にしていないし、カウンター席だったので向かいの座席を持てあますこともないのは嬉しかった。
お酒はライムサワー、ツマミにアジの刺身と唐揚げ、そして鮭のおにぎりを頼んだ。空腹過ぎて、ご飯物を頼まざるを得なかったのだ。それもそのはずで、昼を食べてから12時間も経っている。
「お昼を食べた時には、こんなことになるとは思ってなかったのよね」
誰に言うともなく呟くと、早速来たおにぎりを頬張った。普段ならどうと言うこともない少し大きいだけのおにぎりが、物凄く美味しく感じた。ただ、ライムサワーとの相性は最悪だったが……。
ライムサワーからレモンサワーに切り替え、3杯目を飲み終わった頃、ようやく空腹は納まった。
よく考えてみると、私は今まで一人でお酒を飲んだことが無かった。お酒そのものは好きだし、弱くもないと思う。ただ、料理は一通り自分でも出来るので、外食をすることに意義を見出せなかった。高いお金を出すよりは自分の好きな物を作る方が性に合っている。
そう言えば、直樹も私の料理は喜んで食べてくれた。
特に好きだったのはハンバーグ。味覚が幼いのかデミグラスソースは好みではなく、いつもケチャップで食べていたっけ……。せっかく合い挽き肉ではなく牛挽き肉で作っても、レアだと凄く嫌がっていたし。私はレアめで肉汁がジュワっと出てくるくらいが好みなので、しっかり焼いてしまうとなんだか勿体ない感じがしていた。
フッと気がつくと、また直樹のことを考えていた。少しお酒に酔ったのだろうか? 次から次へと頭の中でこの二年間の同棲生活が甦る。
同棲までに一年付き合ったから計三年……。
まだ、酔ったままあの部屋に帰ったら、いつもの生活が始まりそうな気さえする。もう必要がないのに、朝食のパンを買っておいたか気にしているし……。
グラスに残ったレモンサワーを眺めていたら、少し鼻の奥がツンとなった。涙でグラスが曇って見える。あいつのために泣いてなんてやるものか……、と思っていたのに、とうとう涙がこぼれ出た。
一人、居酒屋のカウンターで……、……、……。
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