第9話 過去の人
このアパートに戻って来たのは二週間ぶりだ。駅からそこそこ近いのだけが取り柄の、部屋に西日しか入らないアパートに……。
先日、洋子が約束してくれたので、今日は直樹の部屋に私物を取りに来た。
今、9時半……。洋子とは正午に待ち合わせをしたので、その前に荷物を持ち運べる状態にしておくつもりであった。
ドアの前に立ち、合い鍵を取り出す。今までこの場で何百回も繰り返してきた動作のはずなのに、何故か違和感がある。もう、ここが私の居場所ではないからかもしれない。
ただ、もっと感傷的になるかと思っていたが、部屋のドアを開けるのも、玄関に入るのも、何処か見知らぬ人の部屋に立ち入るくらい、無味乾燥な心持ちにしかなってはいなかった。
入って、まず抱いた感想は、
「汚い……」
の一言だった。思わず口に出してしまうくらい、室内は荒れ果てていた。
キッチンの流しには汚れた食器類が山積みだし、ガス台には何かが入ったままの鍋が置かれっぱなし……。食卓にはコンビニ袋とプラスチックのトレーが溢れ、敷かれたままの布団の周囲には、脱いだままの洋服が散乱していた。
もちろん、私が居た頃にはどれも片付いていた。食器をそのままにしたこともなければ、衣服の洗濯を欠かしたこともない。掃除機も出勤前には必ずして出掛けていたし……。
とりあえず、自分が持ち出すモノをまとめた。
タンスの中は、私のモノがそのまま置かれ、手はついていないようだった。ただ、このままでは持ち運べないので、近くのコンビニでもらってきた段ボール箱に中身を入れ直す。
次に、パソコンのプラグを抜き、本体を段ボール箱に詰めた。モニターは入りきらなかったので、タオルにくるんで梱包し、周辺機器類は紙袋に詰めて、一通り作業は終わった。
時刻は10時半……。洋子が来るまで、まだ一時間半もあった。
持ち出すモノを玄関付近に置くと、急にやることがなくなった。しかし、足の踏み場もないこの部屋で落ち着けるスペースはなく、しばし呆然とする。
ゴミ溜めのような部屋の中に立ちつくしているのは、3分も我慢出来なかった。性分的に、汚いモノを見ると掃除をしたくなる私は、とにかくゴミだけでもまとめておく気になった。散乱するコンビニ袋にそのまま棄てられるゴミを詰め、市の指定のゴミ袋にまとめて入れる。
ゴミ袋が整理されると、部屋は一応見られる感じにはなった。しかし、プラスチックのトレーやキッチンの洗い物が気になり、これにも手を付け出す。鍋の中の液体はカビだらけになっており、流し台の食器は悪臭を放っていたが、かまわず全て洗った。
食器類の洗い物が終わると、部屋は私がいた頃の面影を取り戻した。
それでも、私は満足がいかなかった。布団の周りに散乱する洋服をそのままにしておけなかったのだ。
結局、洗い物は洗濯機の中に入れ、布団を干し、ハンガーに掛けられるモノは全てラックに押し込み、掃除機を一通り掛け、最後まで掃除をしてしまった。本当は洗濯機も回したかったが、さすがにそれをするのには時間が足りない。洋子はあと15分で来てしまうから……。
洋子を待つ間に、私は用意して来た紙に一筆したためた。私宛の郵便物をタケシ宅に転送してくれることと、必要なモノを持ち出したことを……。そして、最後に、
「さようなら……」
と書いて封筒に入れ、食卓の中央に置いた。
部屋を掃除したのは、少なくとも直樹のためではなかった。長らくお世話になった部屋そのものへの感謝の気持ちと、二年間ここにいた私自身へのけじめのつもりだ。まとめたゴミも棄てて行ってあげたかったが、収集日ではないのでそれは出来なかった。そのことだけが僅かに心残りだった。
洋子は少し遅れてきた。日曜日と言うこともあり、道が混んでいたそうだ。
「もしかして、片付けてあげたの?」
「うん……」
「もう、紗季ったらお人好しなんだから」
「違うのよ、そう言う事ではないの」
部屋に入るなり、洋子は私が何をやっていたのかを看破した。しかし、私の心情までは分らなかったようで、
「私ならそのままにしておくけど……」
と言っていた。確かにその方が普通で、気持ちの整理がついていなかったら私もそうしただろう。途中まではそのつもりだったし……。
荷物の運び出しは、それほど時間が掛からなかった。ただ、洋子が荷物運び用の台車を用意してくれたのに、階段があったため使うことは出来なかった。だから、それほど重くはないものの、段ボール箱を抱えて、二人で車と部屋とを何往復もした。ピチッとしたジーンズ姿の洋子が小気味よく動く姿は、とても軽快で格好良かった。
荷物をすっかりハイエースに納めたが、見ると、車内の三分の一くらいしか占めていなかった。洋服ダンスと戸棚さえなければ、軽自動車でも入ってしまいそうな量だ。
最後まで悩んだのは、炊飯器だった。タケシの家に唯一ない電化製品だったので、持って行くことも考えたのだが、結局、断念した。炊飯器がなくてもタケシのご飯は美味しいし、冷やご飯は電子レンジで温めれば良いから。
それに、直樹から何もかも取り上げるような気持ちは、すでになかったのもある。彼とは色々あったが、これからは他の誰かと安らかに暮らして欲しいと、素直に思えた。
干していた布団を取り込んだ。直樹が帰ってくるのは夜になるから……。少しの時間しか干せなかったが、多少はふっくらした気がする。
最後にドアを閉め、施錠し、鍵をキーホルダーから外した。そして、新聞受けにそっと入れた。
「これで一段落ね」
運転しながら洋子は話す。サンデードライバーなのかと思ったが、仕事でもかなり乗っているそうで、なかなか運転が上手い。
「ありがとね、また付き合わせちゃって……」
「何言ってるの、全部自分でやっちゃったクセに」
「車だって出してもらったし……」
「まあ、カワイイ紗季の為だからね」
「……、……」
こうして色々世話を焼いてもらうと、洋子が年上に思えてくる。本当に洋子は何でも出来るし、しっかりしている。
「直樹って、新しい子と付き合うって言ってたんでしょ? 追い出す時に」
「うん……」
「私、思ったんだけど……」
「……、……」
「きっと、その子とはうまくいってないよ」
「どうしてそんなことが分るの?」
「あのコンビニ弁当のカスを看れば一目瞭然でしょ」
「コンビニ弁当?」
確かに、私もそれは感じていた。何となく新しい彼女とうまくいっていないのだろうと言うことは。部屋の中が荒れているのは、気持ちが荒れていることだとも思うから。ただ、それは何となく思うだけで根拠はない。
一般的に、独り暮らしの男性は部屋が汚いものだと思うし、直樹は普段から無精な方だ。だから、多分、私がいなければ部屋は元々あんなモノだろう。
私には、コンビニ弁当が新しい彼女とうまくいかない根拠になっているとは、とても思えないのだが……。
「えっ……、本当に分らないの?」
「だって、自分で作らなかったらコンビニ弁当に頼りたくなるだろうし、駅までの道にあるのだから当然そこで買いたくなるでしょう?」
「あはは、紗季、あなた、もう直樹のことなんかすっかり関心がないようね」
「そ、そんなことはないけど……」
道が混んでいるせいか、一時間ほど車を走らせても、まだ神奈川県の中にいる。多摩川を越えるにはもう少し掛かりそうだ。
「あのゴミの量からすると、直樹は朝と晩の毎食、あの部屋でご飯を食べているわ」
「……、……」
「それって、外で食べていることはほとんどないってことでしょう?」
「そうね……」
「男性が付き合ってる彼女がいるのに、その彼女の手料理を食べたり、外食を二人でしたりしないと思う?」
「ああ、なるほど……」
「つまり、毎食コンビニ弁当を食べてるってことは、新しい彼女とはうまくいってないってことよ」
言われてみればその通りだ。しかし、私はまったく思い至らなかった。
洋子に言われて思いだした。私はあの部屋でいつも直樹の帰りを待っていた。そして、いつも帰宅後にご飯を食べるのかどうかを聞いていた。ほんの二週間前まで……。
それなのに、今は一緒にご飯を食べたり、直樹のために食事を作ったりしていたことを想起することさえしなくなった。洋子が言うように、確かに関心がなくなったのだ。私自身が感じているよりすっかりと……。
「きっと、紗季の中で、直樹は過去の人になったのよ」
「過去の人?」
「そう、イメージは残っているけど、紗季の中の直樹は動いてはいないのよ」
「それが過去の人なの?」
「アルバムの中の一ページってことでしょうね。想い出の人と言っても良いかもしれないわ」
「……、……」
動いていない……、と言われ、ちょっとドキッとした。洋子の言っていることは当っている。アルバムの中の一ページと言うことは、いずれは色褪せてセピア色になっていくのだろうか?
「今、洋子に過去の人って言われて、ちょっと思い出したことがあるの」
「思い出したこと?」
「うん……」
先週、焼鳥屋で飲んだ後、私は一人で家に帰った。
もう12時過ぎだったので、すぐに寝ようと思ったのだが、タケシの洗濯物が乾いたまま洗濯機に入っていることを思い出し、取り出してたたんでおいた。
たたんだ洗濯物を寝室に持って行くと、そこでフッと気がついた。私はまだタケシの寝室に入ったことがなかったことに……。それどころか、書斎と思しき部屋もまだ覗いたことがなかった。
勝手に寝室に入ることに少し後ろめたさを感じたが、私には洗濯物を置いてくると言う大義があった。だから、ためらいはあったものの、そのドアを開けてみた。
「それで、何かあった……?」
「部屋の中は綺麗に片付いていたし、あるのはタンスが一つだけ。あと……」
「あと?」
「仏壇があったわ」
「……、……」
「ご位牌と額に入った写真が備えてあって、その写真には40代くらいの女性が写っていたの……」
「ご家族かな?」
「多分、奥様だと思う。写真がそんなに古くない感じだったから……」
車はようやく多摩川の手前まで来た。ただ、この橋はいつも混んでいて、抜けるのには時間が掛かる。東京方面へ抜けるのには、必ず何処かで多摩川を渡るしかないのだが、いずれのルートを選んでも、日曜日は混んでいることに変わりがなかった。
「なるほど……、それで過去の人に引っ掛かったのね」
洋子は前を見つめながら言った。
「ええ、タケシさんにとって、奥様が過去の人なのかな……、って」
タケシにも当然過去がある。私の倍以上も生きているのだから、当然のことだ。ただ、漠然とその事実が分っていても、具体的な事実を目の当たりにし、私は少なからず動揺した。だから、洋子が過去の人と言った時に、すぐに遺影の女性を思い出したのだ。
可能性的には御兄妹などもあり得るが、直感的にあの人は奥様だと思った。根拠はないけれど、まず間違いないと言う確信を……。
「うーん、それはどうかな?」
「……、……」
「紗季にとって直樹は過去の人だけど、タケシさんの中で奥様はまだ動いているかも知れないしね」
「……、……」
「先日、アリスさんは言っていたよね、タケシさんは誰ともそういう関係にならない……、って」
「うん……」
「こういうのは心の中のことだから、時間の長短は関係ないのよね」
「……、……」
「いつ奥様が亡くなったか分らないけど、先日飲んだ感じだと、タケシさんは少なくとも数年は今みたいな生活をしてるのでしょう?」
「そうね……」
「だとすると、亡くなったのはその前だと考えるのが自然だわ」
「……、……」
「その間、ずっと想い続けている可能性は否定出来ないかな」
「……、……」
「紗季には可哀想なことを言っているけど、これはタケシさんの中のことだから、受け入れるしかないかも……」
「……、……」
「タケシさんが好きならね」
「うん……」
多摩川を渡ったところで、少し遅めのお昼を食べることにした。もう14時半……。健啖家の洋子は、お昼ご飯の提案に、
「待ってました!」
と、即答する。言い出さなかったが、きっとかなりお腹を空かせていたのだろう。
昼食は、多摩川の河原に車を停め、車内でとった。タケシがいつものようにお弁当を作ってくれたのだ。洋子の分も……。
お弁当の中身は、サンドイッチだった。持たせてくれた包みを看ると、おしぼりと水筒、紙コップまで入っている。引っ越し作業をすると言ってあったから、何処でも食べられるように用意してくれたのだろう。
「これ、美味しいね……」
洋子が頬張っているのは、豚の生姜焼きとキャベツの千切りにマヨネーズを付けて挟んであるモノだ。甘辛い生姜焼きにマヨネーズが良く合っている。
その他にも、定番の卵サンドに、明太マヨネーズサンド、アンチョビとキュウリ、スモークサーモンとレタスなど、どれも手が掛かっているモノばかり。いつもよりボリュームがあるのは、洋子がよく食べることを考慮した上でのことだろう。
水筒の中身は、オニオンスープだった。ステンレスの水筒に入っていたので、まだ湯気が立つほど暖かい。サンドイッチとの相性もバッチリで、言うことがない。
「紗季、いつもこんなに美味しいお弁当を食べてるの?」
「あ、今日は特別よ、スープも付いているし。洋子が一緒だからだと思う」
「でも、毎日お弁当を作ってもらってるんでしょう?」
「う、うん……」
「これ、直樹には今の生活を教えられないね」
「……、……」
「きっと、怒ると思うよ、別れて二週間でこんなに良い待遇になってるのか、ってさ」
「今までやってあげる側だったのが、やってもらう側になっちゃってるしね」
「そう、こんなラッキーな話、何処にも転がってないよ」
二人で顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。
私は幸運だ。一番ドン底の時に、タケシという素晴らしい人に巡り会ったのだから……。美味しいモノを食べさせてくれることももちろんだが、私に対する気遣いが、いつも優しく行き届いているのがこの上なく嬉しい。
サンドイッチは、あっという間になくなった。洋子はもちろんよく食べたが、私も思ったよりもよく食べた。
フロントガラスから入ってくる日差しが微妙に暖かく、お腹も気持ちも満たされている感じがしていた。
都内に入ってからは割と進みが良く、新宿に着いたのは4時頃だった。
今度は台車が使えたので、スムーズに荷物が搬入出来た。タケシはまだ寝ているようだったので、起こさないようになるべく静かに運び入れる。
荷物の搬入を終えると、洋子はすぐに帰って行った。マンションの来客用駐車場に空きがなく、車を停めておけないから……。また、近い内にご馳走する約束をして、去るのを見送った。
段ボール箱の中身を出し、タンスと戸棚に入れ替え、パソコンを繋いだら、部屋に生活感が出てきた。今まではお客様として居させていただいていた感じだったが、急に自分の部屋らしくなったし……。パソコンは新しくラックを買った方が良さそうだけど、とりあえずは畳の上に置いて使えないことはない。
もうあと30分もすれば、タケシは起きてくる。
「たまには私がご飯を作ろうかな?」
「タケシさんは、何を食べたいかな?」
と、独りで呟き、その気になる。
彼はそう言ったらどんなリアクションをするだろう?
すっかり自分のスペースとなった和室で、私はいつまでも幸せな妄想に耽るのだった。
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