第4話 惹かれる

 何度も逡巡を繰り返し、結局、私はマンションの前にいる。昼と違い、夜の新宿は少し大通りから入っただけでも人気がなく怖い。しかし、理性や理屈で何度自分を押しとどめようとしても、気持ちが止まらなかった。


 心の中で、私は必死に言い訳をしていた。

「あれだけ好意的に誘ってくれたのに、何のリアクションもしなかったら申し訳ない」

とか、

「スマホが電池切れしちゃったから断れなかったのよね」

と……。

 ただ、自分でも分っているのだ。言い訳が、所詮言い訳でしかないことを……。






 オートロックのドアの前で、男性の部屋の番号を入力する。あとは呼び出しのボタンを押すだけで良い。それなのに、まだ最後のボタンを押しかねている私……。男性が出たら、どう一言目を切り出して良いのか分らない。


 二、三度取り消して、ようやく覚悟が決まった。もう一度部屋の番号を入力すると、今度はすんなり呼び出しボタンに手が伸びる。

「ピンポーン……」

場違いなほど大きいインターホンの音が、静寂の中でやたらと響いた。


「ああ、来たね、いらっしゃい」

男性はすぐに出た。そして、私が用意していた言葉を言う前に通信が切れ、オートロックのドアが開いた。





「上がって、荷物は和室に置いてね」

出迎えた男性は良く来る知人に対するように、そう言った。その様子は昼と全く変わらなかった。


 一方、私はと言えば、激しい後悔の念に苛まれていた。

「どうして、スーツケースをコインロッカーに置いて来なかったんだろう?」

と……。これでは私が困っているのが丸わかりではないか。


「ちょっと待っててね、今、肉を焼くからね」

私のコートを玄関脇のクローゼットに仕舞うと、彼はそう言って、キッチンに入って行った。

 男性は、相変わらず私に何も聞かなかった。まるで、すべてを承知しているみたいに……。


 テーブルの上には、取り皿と箸、グラスが二つずつ並べてある。

「本当に食べるのかな?」

内心で呟く。食器が出ているのだから食べるのだろうが、こんな時間まで夕食を食べていないとは考えにくい。男性は中肉中背と言うか、年齢にしては痩せ型なので、大食漢だから何食も食べるのでもないだろうし。

 部屋の時計を見ると、日付が変わろうとしている。


「肉の焼き方は何が好き?」

「えっ?、……、あ、レアが好みです」

「了解」

肉の香ばしい匂いがしてきた。焼き方を聞いたと言うことは、牛肉だろうか? キッチンで炎が舞い上がる音がする。フランベしているようだ。

 恥ずかしいことに、小さくお腹がギュルっと鳴る。幸いなことに、キッチンにいる男性には聞かれてはいないようだが……。


「お待たせ……」

テーブルの中央には取っ手付きのフライパンが置かれ、そこには見るからに熱々のハンバーグが二つ、たっぷりのソースと共に鎮座していた。いわゆる煮込みハンバーグと言うモノだろう。ただ、ソースはサラッとしており、あまり見掛けない出来上がりになっている。

 付け合わせはポテトサラダと、ボイルしたニンジンにブロッコリー。ニンジンにはキチンと面取りがされてあり、ポテトサラダの上にはカレー粉と思しき黄色いパウダーが散っている。細かいところまで手が掛かっていて、男性の几帳面さがこれだけで分る。


 ハンバーグと付け合わせの他に、光り物の魚とキュウリ、ワカメの酢の物、ほうれん草のからし和え、ラディッシュと油揚げのお味噌汁に少しおこげが入ったご飯……。まるで、いつ来客があっても良いようなバランスの取れた食卓だ。しかも、どれもシンプルだが手間の掛かっている品ばかりである。


「昨日も今日も、お世話になってすいません……」

「あはは……、まあ、そうだねえ」

心惹かれる料理を目前にしてはいたが、私は話しを続けた。

「まだ名乗ってもいませんよね、私……」

「ん?、ああ、そうねえ」

「紗季と申します」

「サキさんね、ああ、僕も名乗ってなかったね」

「あ、いえ、名刺をいただいていたので……」

「ゴウじゃないよ、タケシね、ジャイアンと一緒のタ・ケ・シ」

じゃ、ジャイアンって、ドラえもんの……。そうツッコミそうになりかけて、ハッとする。私が言いたいのはそれではない。


「タケシさん、だらしのない女だと思ってますよね……、私のこと」

「ん……?」

「酔っぱらって行き倒れてみたり、今日は深夜だと言うのにお宅に伺ったり」

「いや、色々あったんでしょ?、紗季さんにも……、事情は知らないけど」

「事情は確かにありました、でも、だからと言って、ちゃんとした人ならこんなことにはならないですし……」

「うーん、そんなもんかなあ?」

「私、もう少し自分自身がしっかりしていると思っていたんです」

「……、……」

「でも、昨日も今日もダメダメで……」

自分でも不思議なほど、次から次へと言葉が出た。タケシさんは戸惑っているのか少し首をかしげながら私を見ている。


「そうねえ……、まあ、僕で良いのなら何があったか言ってごらん、少しは気が楽になるかもしれないし」

「あ、あの、それは……」

「たださ、とりあえず食べよう、レアに焼いたのがミディアムになっちゃうからさ」

そう言うと、タケシさんは微笑んだ。





「このソース、何を使ってるんですか?」

私は思わず聞いてしまった。褐色のソースなので、恐らくバルサミコ酢なのかもしれないが、普通のバルサミコ酢には無いコクがある。ただ、ほんのり甘酸っぱいような感じもするので、何か他の調味料と合わせたモノかもしれない。正体は分らないが、とにかく美味しい。ハンバーグと絶妙なハーモニーを奏でている。

 ハンバーグ自体も、見事な焼け具合だ。表面はしっかり焼き色が付いているのに、中は肉汁と肉自体のトロトロの食感で、タルタルステーキを食べているようだ。火が通ったレアで暖かく滑らかな口触りは、心地良いとまで言える。


「ん?、ポン酢醤油だけど……」

「えっ……?」

「酸っぱい調味料ってね、加熱している内に酸味が飛んで独特の味わいになるんだ」

「……、そうなんですか」

「口に合わない?」

「いえ、凄く美味しくて……、でも今まで食べたことのないハンバーグなので」

「ああ、それは繋ぎに使ってるのが違うからかもね」

「繋ぎ?」

「普通はパン粉と牛乳を使うらしいけど、僕のは手抜きで絹ごし豆腐を使ってるからさ」

「ああ、それで凄く滑らかな食感なんですね」

「そうだと思う……、と言うか、ちゃんとしたハンバーグの作り方を知らないんでね」

「えっ……?」


 話せば話すほど、食べれば食べるほど、タケシさんの料理には驚かされた。

 

 まず、ご飯を土鍋で炊いているそうだ。道理でおこげが付いている訳だ。お米も立っていてとても美味しい。私が使っていた安い炊飯器だとなかなかこうはいかないのに……。

 次に、ほうれん草のからし和えは、和辛子と粒マスタードを半々ずつ調合し、鰹節と醤油で味付けしてある。ハンバーグが脂っこいので、マスタードの風味が良く合う。

 何といっても白眉なのは、酢の物だ。光り物の正体はアジであったが、これは揚げ物に使う鮮度の良い小アジを、一匹ずつ自力でおろし、酢に漬けている。酢締めにするには、大きなアジより小アジの方が美味しいそうで、手間は掛かるが毎回こうやって作っているのだと言う。みじん切りにしたガリ(生姜の甘酢漬け)がこっそり混ぜられているのも嬉しい。


「もしかして、お店でもやっているのですか?、飲食店の」

「いや、我流の家庭料理だよ……」

そう言って、照れたようにタケシさんは笑う。






 ご馳走になりながら楽しく料理の話をしていたので、自分の身の上話をするタイミングがなかなか巡って来なかった。しかし、どうしても私は話すつもりでいた。

 何故、そんなに話したがるのかと言えば、タケシさんにだらしのない女と思われたままでは嫌だったから……。実質、今日出逢ったばかりなのに、情けない印象を残すことにとても抵抗があった。


 ハンバーグも残り少なくなり、料理の話題も一段落する。そろそろちゃんと話さなくては……。


「私、昨日の夜、突然、同棲していた人から別れを切り出されまして……」

「……、……」

「暮らしている部屋を追い出されたんです」

「追い出された、って、無理矢理?」

「あ、いえ、暴力とかはされていません」

「ああ……」

「でも、こんな理不尽な人と同じ空間に居たくなくて……」


 タケシさんは、私の語ることに相づちを打ちながら聞いてくれた。

 あても無く新宿に出たこと……、居酒屋でかなり飲んだこと……、今日は住むところを探して彷徨っていたこと……、結局、住むところは見つからなかったこと……、新宿に戻って来たのはスーツケースを取りに来たこと……、等々、昨日から私に起ったことを、思いつく限りタケシさんに語った。


「うーん……」

私が全部語り負えると、タケシさんは難しそうな顔で唸った。きっと、私の不甲斐なさや計画性の無さ、短絡的な行動に呆れたのだろう。でも、それでも良かった。だらしのない女だと思われるよりは……。


「一言、感想を言って良い?」

「ええ……」

「紗季さんさあ、それって頑張りすぎでしょ」

「えっ?」

「だって、誰にも頼れない状態なのに、一日、二日で何とかなる話じゃないよ、誰でもね」

「そうですか……?」

「まあ、酔っぱらったのはご愛敬かもしれないけど、僕が紗季さんと同じ立場なら、やはり酒の力を借りそうだしね」

「……、……」

「好きだったんでしょ……、その人?」

「今となっては何とも言えないですけど……」

「辛いよ……、人間関係が絶たれると言うことは」

「……、……」

「親密であればあるほどね」

感想を一通り述べると、タケシさんは私の方を見ながらも、何処か遠くを見るような目つきをして押し黙った。





 タケシさんは、食事の残りを食べながら何事か考え込んでいるようだった。

 私は……、と言えば、何もかも話したし、タケシさんが思いの外私の話を好意的に受け取ってくれたのが嬉しかった。スッキリした感じと、一仕事負えたような満足感まである。なので、最後まで美味しくハンバーグをいただき、隅から隅まで食卓の皿を綺麗に空にしたのであった。


「おっ、綺麗に食べたねえ」

「はい、美味しく頂きました」

「あはは、お腹が鳴るほど腹を空かせてたからねえ」

「えっ、あの、聞こえていたのですか?」

「うん、可愛い音がしてたのをね」

「……、……」

 くすくす笑うタケシさん。

 私の顔が火照ってくるのが分る。こういうのを顔から火が出るほど恥ずかしいと言うのだろう。

 ただ、よく考えてみれば、私は昨晩醜態を演じた上に、嘔吐する姿も、着替えさせてもらった時に下着姿も見られている。お腹が鳴ったくらいで恥じ入るような立場ではないことは明白だ。しかし、そういう冷静な理屈を認識しても、私の新たな恥ずかしい気持ちは、少しも和らいだりはしなかった。





「とにかく、今晩はここに泊まりなよ」

「でも……」

「でもじゃないよ、もう終電も無いしさ」

「えっ?」

「今日は日曜だから、終電も早いんだよね」

「……、……」

「それに、明日は仕事なんでしょう?」

「……、……」

「どんな仕事か知らないけど、しっかり寝なきゃ良い仕事は出来ないよ」

「それはそうですけど……」

時計を見ると、確かに電車が走っているはずもなかった。すでに1時を過ぎている。多分、日曜日ではなくても、もう終電はないだろう。


 私は新宿の何処かで泊まるつもりだった。二日連続でお世話になるなんて、あり得なさすぎる図々しさだから……。せっかく、だらしのない女ではないことを釈明して分ってもらったのに、図々しい女だと思われたら何の意味もないし。

 ただ、もしかして……、と思う部分もある。タケシさんは、電話で誘ってくれた時から私を泊めてくれるつもりだったのではないか、と。……と言うか、昼間から私が連絡してくることを予期していたのかもしれない。だから、夕食をこんな時間に一緒に食べたのでは……? そう考えると、何もかも辻褄が合う。


「紗季さん……、とりあえず行くところがないなら、ここに越してきたら?」

「そ、そんないくらなんでも……」

「見ての通り部屋は空いてるし、賃貸じゃないから家賃もいらないしね」

「わ、私、そんなつもりじゃ……」

あまりに有り難い話なので、涙が出そうになった。いや、本当に涙が出ている。

 昨日出逢った垢の他人……。しかも、素性も分らない、行くあてもない小娘に望外な提案をしてくれるなんて……。

 涙は止まらなかった。大体、昨日から何度泣いただろう? 私、いつもはこんなに涙もろい方じゃないのに……。目の前がぼやけて、タケシさんの顔が歪んで見える。


「あ、いや、そんなに泣かないでよ……」

「……、……」

「ごめん、悪かったよ、気に障ったら謝るよ」

「ち、違うんです……、私、私……」

「んっ?」

言いたいことが素直に口から出てくれない。本当は、こんなに気を遣って下さって、感謝すると言うか申し訳なさで一杯なのに……。


「とにかく、今日はもう寝なさい、疲れただろう?」

「……、……」

まだ気持ちが言葉にならない私だったが、うなずいて今晩は泊めてもらう意志を見せた。

「引っ越しのことは、明日、仕事が終わったらまた考えたら良い」

「は、はい……」

「そうそう、風呂が沸いてるよ、疲れがとれるから入って寝なね」

「い、色々……」

そこまで言ったら、また涙が溢れてきた。


 結局、私は満足な感謝の言葉を伝えられなかった。





「タオルとか石鹸とか、適当に使って」

そう言い置いて、タケシさんは洗面所から出て行った。棚には、上段にはバスタオル、下段には手ぬぐいの順で綺麗に畳まれて置いてあった。


 お風呂は、気を失うかと思うくらい気持ち良かった。広めの浴室に大きいバスタブ……。シャンプーは石鹸の匂いしかしない、何処のメーカーのモノか分らないのだったが、そんなことは気にもならなかった。とにかく、湯船で寝てしまいそうになるくらいゆったり出来た。

 癒されると言うのは、こういう状態を指すに違いない。





「ありがとうございます……」

お風呂から出て、寝る支度を調えると、リビングにいるタケシさんにようやく感謝の言葉を伝えた。

「ああ、おやすみ……、ぐっすり寝るんだよ」

タケシさんはそう言うと、昼と同じようにパソコンに向かった。


 和室に行くと、もう布団は敷かれてあった。何から何までやってもらって、また申し訳ない気持ちになる。

 ただ、もう私は気力の限界だった。眠気が襲って来て、色々と考えを巡らすことも出来そうもない。スマホを充電器にセットしてコンセントに繋ぐと、倒れるように布団に入った。そして、いつ眠ったのかも分らないほど、あっという間に深い睡眠に落ちていった。

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