第2話 拾われる

 ほのかにお日様の匂いがする。

 あっ、これは昨日干した布団だな。身体を包む掛け布団にはカバーが掛かっているようで、そのカバーやシーツにもちゃんとのり付けがしてあるようだ。


 私はどうやら心地良い布団の中にいるらしい。


 いつもと違う環境で寝ていることは自覚できた。しかし、まだ目は開けていない。意識は醒めつつあるのに、身体が起きることを拒否しているかのように重い。

 身体の変調の中で一番酷いのは、頭の痛さだ。風邪をひいて熱でも出ているかのような重く不快な痛さ……。そう言えば、少し熱っぽいかもしれない。


 どうしてこんなことになってしまったんだろう……? ぼんやり考えてみるのだが、何も思い当たらない。……と言うか、何も思い出せない。


 今日は確か日曜日のはず。だったら、直樹に朝食を作らなくては。彼は早番だから7時には家を出ないと間に合わないから……。


 ここまで重い頭で考え、そしてようやく思い出した。そう、私は直樹と別れてあの部屋を出たのだった。昨晩の出来事なのに、思い出すのに記憶を辿らなくてはならないなんて……。





「と言うか、ここ何処?」

引きずるように身を起こし、周囲を見回して思わず呟く。

 まるで見たこともないような殺風景な部屋だ。六畳の和室だが、押し入れと障子、そして今私が寝ている布団類以外には、私のトートバックしか置いていない。障子の向こうから漏れる日差しの感じからすると、もう昼近いのかもしれない。何となく分るのは、この六畳間が高い建物の中の一室だと言うことだ。戸建てだったら障子の外にモノの気配がするが、障子には影が一切映っていない。

 生活感のない部屋ではあるが、綺麗に掃除はされているようだ。埃一つ落ちていないし、カビ臭い感じもしない。

 しかし、どんなに部屋を見回してみても、何故、私がここにいるかは全く分らなかった。


 記憶を辿ってみると、新宿で居酒屋に入り、かなり飲んでから店を出たことは思い出した。お勘定もちゃんとして、通りに出たところまでは何となく覚えている。

 しかし、そこで記憶は途切れていた。どう頭を捻っても何も浮かんでは来なかった。


 あれこれ考えている内に、一つ、重要なことに気がついた。

「私が着ているのって、スエットの上下だ……」

昨日は寒かったので、厚手のセーターの上にジャケット、下はウールのロングスカートを履き、長めのダウンコートを羽織っていたのだ。しかし、今、その何れも私は身につけてはいなかった。

 ただ、下着とストッキングは着ているようだ。スエットのパンツをめくって確認してみたが、昨日から身につけていたモノに間違いない。ブラジャーも……。しかし、スエットの上下に見覚えはなく、しかも私にはかなり大きいことも分った。サイズ的には、LかLLだろうか?


 身体を起こし、しばらく自分の身に起ったことを整理していると、少しずつ体調が良くなってきていることに気がついた。重かった身体も今なら動く気がするし、頭もスッキリしだしている。

 いつまでもこうしている訳にもいかないので、とりあえず布団をたたみ、髪の毛だけとかしてこの六畳間を出ることにした。何があっても自己責任……、と念じながら。





 襖を開け、六畳間を出ると、右手の短い廊下の先にリビングが広がっていた。左側にはすぐに玄関があり、正面には洗面所とトイレと思しきドアが並んであった。

「ああ、これはマンションだな」

何となくそう感じつつ、人気がありそうなリビングの方に向かう。すると、十畳はあろうかと思われるリビングの片隅で、大きめなノートパソコンに向かっている男性が見えた。


「起きられたみたいだね」

男性は振り向きもせず私に声を掛けてきた。マウスをしきりに動かしているところを見ると、作業中なのだろう。


「あ、あの……、私……」

見ず知らずの人に何と語りかけて良いのか分らない。どう考えても私がご迷惑を掛けているのだから、いきなり服のことを聞くのも気が引けた。

「あ、ちょっとそこに座って待っててね、今、終わるからさ」

「はい……」

対面式のキッチンに続くテーブルに、オシャレな椅子が三脚あり、一番手前の椅子に座った。椅子はバーで使われているような腰高で背もたれがほとんどない回転椅子だった。


 リビングもやはり殺風景だった。置いてあるのは、大画面のテレビと食卓と思しきテーブル、そして男性が操ってるノートパソコンとデスク……、だけだった。フローリングの床には床暖房が付いているようで寒くは無いが、小綺麗と言うよりは、やはり殺風景と言う言葉が相応しい。その隅で黙々とパソコンに向かう男性の姿はとてもアンバランスで、何処か生活感が欠如しているようにも感じる。


 男性は、もう50代くらいになるのだろう。後ろ姿しか見えないが、後頭部にはかなり白髪が交じっている。私の両親は生きていれば今年46歳なので、仕事関係以外にはあまり馴染みのない年代の人だ。

 

 時計を見ると12時を少し回ったくらいだった。普段は6時台に起きるのに、こんなに自堕落な休日の過ごし方をするなんて、我ながら情けなかった。





「お待たせ……」

5分位待った後、ようやく男性は振り返った。よっこいしょ……、と言いながら立ち上がる様は、正にオジサンだ。よく見ると、私と同じグレーのスエットを着ている。あまり知りたくなかったが、きっと私の着ているスエットも彼のモノなのだろう。


「気持ち悪くない?」

そう言いながら男性はキッチンに入っていった。ガス台を点ける、カチッという音がする。


「気持ちは悪くないのですが、少し頭が重いです」

「ああ、昨日は随分飲んだみたいだねえ……、きっと覚えてないよね」

「……、あ、あの、ご迷惑をお掛けしたのでしょうか?」

「あはは……、まあ、誰にでも良くあることでしょ」

笑いながら男性はキッチンから出てきた。

 やはり、私はお酒に酔ってここに来たらしい。


「あの、それで、私はどうなっちゃったのでしょうか?」

聞きたくは無かったが、恐る恐る聞いてみる。恥ずかしいが自分でやったことだ。致し方がない。

「シンプルに言うと、歩道で寝てたんだよね」

そう、にべもなく言い切ってから、男性は少し微笑んだ。





 男性の話を総合すると、私の醜態はこんな感じだったようだ。


 まず、男性が花園神社の前を通りかかる。時間は午前3時過ぎ頃……。不夜城とも言える新宿だが、さすがに人通りもまばらだったらしい。

 男性もお酒を飲んだ帰りだったそうで、ほろ酔い気分で歩いていると、歩道の片隅で地べたに直に座りながらうつむいている私を見つけたようだ。新宿ではこういった光景は多々見掛けるものの、連れもいないようだしこのまま放っておくと凍死しかねないので声を掛けたそうだ。

 声を掛けられた私は、聞き取れない言葉で何やら喋り、顔を上げたそうだ。顔色が赤いので急性アルコール中毒の危険性が無いことを確認し、救急車を呼ぶような事態ではないな……、と男性は思ったと言う。

 そして、近場でタクシーを拾い、降りてからこの部屋まで背負って来た……、と言うのが顛末のようだ。


「今、意外とスッキリしてるだろう?」

一通り顛末を語ると、男性は私にニヤリと笑いながら尋ねた。確かに、記憶が無くなるほど酔っていた割には、今は頭も重くなかった。それに、全く吐き気もしない。


「吐き気がしないのは、ここに着いた直後に散々吐いたからさ」

「えっ……?」

「何を食べたか知らないけど、ジャケットもセーターも、あとスカートもドロドロでね」

「……、……」

「あ、もう洗ってあるからもうちょっと待ってな、乾くまでな」


 なるほど……、スエットを着ていたのはそのせいだったのね。でも、それって自力で着替えた訳では……。

 私の疑問を察知したのか、男性は決定的な一言を放つ。

「脱がして悪かったけど、何もしちゃあいないよ」

「す、すいませんでした」

本当は、勝手に脱がされた恥ずかしさで一言くらい文句を言ってやりたかったが、見ず知らずの私にここまでしてくれたのだ。さすがに謝罪の言葉しか出ては来なかった。


「安心しなって、こんな枯れたオッサンだから、下着姿くらい見られてもどうってことねえよ」

「……、……」

「スエットもまだ着てない新品だしな」

慰めにならない慰めの言葉は、私の耳を通り過ぎた。処女ではないが恥じらいは当然ある。見られて恥ずかしい下着ではないが、それでも好んで見せたい訳でもない。

 

 屈託を抱えながら呆然としている私に、男性はこう言って話を締めた。

「ほら、これでも飲みな」

対面式のキッチンから味噌汁の入ったお椀を差し出し、男性はまた少し微笑んだ。






 男性は味噌汁の他に、手巻き寿司のようなモノを二本作って出してくれた。

 手巻き寿司のようなモノ……、とは、形状は手巻き寿司そのものなのに酢飯ではなかったから。両方とも鰹節のおかかが中身だったが、片方は醤油味、もう片方は梅干しで和えてあった。どちらも塩加減が丁度良く、あっという間に食べてしまった。

 手巻き寿司のようなモノも美味しかったが、味噌汁の方は更に美味しかった。……と言うか、こんなに美味しい味噌汁を飲んだのは初めてと言って良いくらいだ。具はなめこと刻んだ万能ネギが入っているだけ。味噌もとりたてて特別な感じはしない普通の赤味噌だ。私も料理は得意だと思っているし自信もあるが、何故こんなに美味しく感じるのか全く分らなかった。


 私が食べている間、男性はまたパソコンの前に座っていた。時計を気にしている素振りを見せていたので、何かリアルタイムでやらなくてはいけない用事があるようだ。チラチラ見える画面の感じだと、エクセルで作業をしているのが分る。


「ご馳走様でした……」

男性の背中に向けて、声を掛けた。作業がいつ終わるか分らないし、黙っているのも何だか違う気がしたので。それに、とにかく感謝の言葉を早く届けたかった。それくらい味噌汁と手巻き寿司のようなモノは美味しかった。


「ああ、食べられた、良かったね」

声を掛けると、今度はすかさず振り向き応じた。

「このお味噌汁、出汁は何を使ってるのですか?」

「出汁?、鰹だよ、不味かった?」

「あ、いえ、その……、凄く美味しかったので、何を使ってるのかなあ、と」

「特別なモノは使ってないよ、単なる削り節さ」

「そ、そうなんですね」

「まあ、酔い明けの味噌汁ってのは、やたらと美味く感じるものなのさ」

そう言って、男性は可笑しそうに少し笑った。


 味噌汁が美味しかったのは、削り節から出汁をとっているからだった。もちろん、男性の言うように二日酔いの上にお腹の中が空っぽだったせいもあるだろう。しかし、男性が市販の濃縮出汁や顆粒状の出汁を使わず、わざわざ削り節から出汁をとっていることに私は驚いた。多分、この人はいつもそうやって出汁をとっているのだ。見た感じでは一人暮らしなのに、そんなに手間を掛けているなんて……。






「さて、そろそろ乾いたかな?」

また、よっこいしょ……、と呟きながら、男性はパソコンの前を離れた。


 私は、昨日着ていた服に関しては諦めていた。スカートもセーターもジャケットも、全部ウールだから。普通に洗ったら縮んでしまうので、男性が洗濯機を見に行ったことからしてまずダメだろうと……。

 しかし、男性が持ってきた服はどれも綺麗に乾いていた。しかも、縮みもせずふっくらと仕上がっている。


「これ、もしかして手洗いして下さったのですか?」

「ああ、じゃないとウールのはね……」

「すいません、色々と」

「ジャケットだけはちょっと色落ちしちゃってるよ、悪いけど」

見ると、確かに胸の辺りが色落ちして白くなっているが、これは致し方ない。吐いたモノは胃液を含んでいるので、どうしても濃い色の染料は落ちてしまうのだ。ジャケットは紺色なのでかなり色落ちが目立つが、スカートとセーターはオフホワイトなので綺麗に洗い上がっている。






 着替えを済ませ、今まで着ていたスエットを畳むと、トートバックを持って先ほどまで寝ていた六畳間を出た。セーターのふんわり感が素肌に心地良い。


「駅まで送って行こうか?、場所、何処か分る?」

「あ、いえ、スマホで分るので大丈夫です」

「そう……」

男性は玄関口で心配してくれた。

 そう言えば、今まで一度もちゃんと男性の顔を見ていなかったが、なかなか精悍な顔立ちをしている。決してハンサムとは言えなかったが、誠実そうな雰囲気が目つきの柔らかそうなところに出ていた。


 男性は、玄関脇のクローゼットから私のコートを取り出して羽織らせてくれた。上着をこうして着せて貰うのは、幼い頃母にしてもらって以来だ。


「これ、いらなかったら棄てて……」

そう言って、男性は小さい紙片を差し出した。それは、肩書きのない名刺であった。

 三浦 剛、とあまり大きくない字で印刷してあり、住所と電話番号、メールアドレスが載っていた。

「困ったことがあれば相談に乗るからさ、袖すり合うも何とやら……、って言うだろう」

そう言って、男性は微笑み、玄関のドアを開けてくれた。





「あの人、そう言えば私のこと何も聞かなかったな……」

マンションのエレベーターを降りながら、フッとそう思った。無関心で聞かなかったのではなく、全てを心得ていたから聞く必要がなかったように、何故だか感じる。部屋と同様に素っ気ない名刺をまじまじと眺め、アドレス帳にそれを大切に挟んだ。


「さて、頑張らなきゃ」

二日酔い明けのくせに威勢良く独り言を言うと、私はエレベーターを足早に駆け下りた。外気が少し冷たく、心地良さを感じる。


 マンションのロビーを出ると、スマホを取り出し位置の確認をした。

 冬とは言え、午後の日差しは、屋内から出たばかりの私には眩しく感じた。



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