飛行場のある町の隣にある町で
晴れた空の上を飛行機が飛んでいるなあ、と思って見ていたら目と鼻の先で指先ほどの大きさの旅客機がゆっくりと横切っていくところだった。「えっ?」と思っているうちにそのミニサイズの飛行機はほぼ一定の速度を保ってぐんぐん飛んで行ってしまって、あたしがエンジン音の残響を聞き終える頃にはすっかり姿が見えなくなっていた。
後には呆然とするあたしが一人。
え。え。なんだったんだろう。すぐには自分の目が信じられなかった。本当におかしな物を見たのか。それとも授業をサボって屋上でぼやっとしてなどいるから罰が当たって幻覚を見たのか。ついに頭がどうかしてしまったのか。あたしはすっかり混乱しちゃっていて自分の頬を何度も叩いたりした。
あたしはクラスメイトのサチコのことを思い出す。サチコごめん。こんなことならあんたの言う通り真面目に授業に出てればよかったよ。そもそも今どき屋上を開放しているうちの高校がいけないのではないか。屋上の扉が開いてたりしなければあたしだって……。いや、それは関係ないかな。待って待って何言ってるんだろ。よく分からなくなってきましたよ大丈夫かあたし。
頭の中がぐるぐるした。世界がぐるぐるした。見ている風景全部がぐるぐるした。でもここは田舎の商業高校。周りは田畑と鉄塔があるばかり。他には何もない。どれだけ前後左右がぐるぐる反転しても見え方に支障ないレベルで辺りにはなんもない。一応は市内だけど都心からはずいぶん離れてるし。ほとんど村みたいなもんだよ。マジで田舎。ええと、でも隣町まで行けば空港があるんだよね。あそこは結構大きい。中学の頃まではクラスの男子と一緒になって自転車で遊びに行ったりしてた。それくらい何もない。
あ。ほら、空港とか言うから思い出しちゃったじゃん。せっかく関係ないこと考えて脳内からアレを追い出そうとしてたのに。馬鹿かあたしは。馬鹿ですはい。馬鹿じゃなかったら授業サボって屋上で寝てたりしてないっつーの。うん。とにかくアレは幻覚。一時の気の迷い。見なかったことにしよう。次の時間からはちゃんと授業に出ること。はい、おしまい!
……といったんは割り切ったものの、幻覚の方はそれで終わりにはしてくれなかった。とりあえず、教室に戻って最初の授業は平穏だった。先生に当てられることもなかったし、現国のイトウ今日も禿げてんなとか考えてたらチャイムが鳴っていた。
ことはその次の数学の授業中に起こった。ちゃんと授業に出ると決意はしたけれどいざ数式を前にすると次第にやる気が消え失せてきて、途中からあたしは問題を解くふりをして窓の外を眺めていた…………ら、例の小さい飛行機が飛んできた。それは今度はあたしの手元まで接近してきて、あたしのノートの罫線に沿ってすっと着地したのだった。あまりの出来事にあたしが口をぱくぱくさせていると、程なくして飛行機は再び離陸していった。他のクラスメイトはまるで気がついていないふうだった。
そのあとは連続して当てられるし、アレに気を取られてたから当然問題は解けてないし、「だって飛行機が……」とごにょごにょ言い訳しようしたら怒鳴られるしでマジでサイアクだった。
まあでも、たとえ飛行機が関係のない状況だったとしても結果は同じようなものだっただろう。ちっちゃい飛行機が飛んでるなんて普通の人が言っても不審がられるだろうに、あたしがどれだけ一生懸命に主張したところで不良女がなんか言ってる程度に思われるだけなのは目に見えていた。それはあたし自身がよく分かっていた。むしろ幻覚を見るような電波な奴という負の評価が増えるリスクの方が大きかった。え、きちんと説明すれば分かってくれるだろうって? あたしじゃなかったらそうだったかもね。
それから小さな飛行機はあたしの生活の中の節々に現れるようになった。教室でも、体育でグラウンドに出ている時も、登下校中も、自宅にいる時でさえ静かなエンジン音が響いてきた。一度気にし始めてからは競うように飛行機の影が目につくようになった。はじめは一機だけかと思っていたんだけど、どうやらその飛行機にも種類があるらしかった。見慣れてくると、飛んでくる飛行機は毎回違うもののようであることにも気づくようになった。複数のミニ飛行機が雁行するのも見た。
もしかしたらあたしが気にしていなかっただけで、元々小さな飛行機はあたしたちの周囲を割と当たり前のように飛び交っていたのかもしれない。そんなことを思うようになった。あたしの思考もいよいよおかしくなってきたようだ。でもあたし以外の子は飛行機のことなんて全く見えている感じじゃなかったし、やっぱりアレはあたしにしか見えていないんだ。そう思った。それでますますあたしはノイローゼみたいになっていった。
あんなのが原因で休むのも癪だったので学校には行っていた。以前は暇な時はよく空を見上げてぼんやりしていたけど、今は上の方を見ることもあまりなくなった。授業中はなるべく顔を伏せるようにした。飛行機が飛んできそうな開けた場所を避けて、休み時間はトイレや階段の隅なんかで過ごすことが多くなった。
放課後。屋上で小さな飛行機に遭遇して一週間が経過していた。あたしはHRが終わるや否や、逃げるようにして席を立った。その日もミニ飛行機群が机の上から列を成して離陸するのを見送った直後だった。
人と目を合わせず、変に思われないように。間違っても幻覚を見ているなんて気取られてはいけない。あたしは鞄を抱えてさっと教室を出た。廊下を足早に駆け抜ける。がやがやとしたおしゃべりの声。今のところ誰もあたしに気づいていない。まだ何とも思われていない。大丈夫。大丈夫。正面玄関まであとちょっと――。
その時、どこかでごうごうとエンジンの音が聞こえた気がした。機体が近づいてくる気配。ああ、やめて。やめてよ。あたしは眩暈がしてその場に倒れ込みそうになった。
「ようちゃん、だいじょうぶ?」
声がした。
同時にあたしの左腕を細く小さい手がつかんだ。サチコだった。
「ようちゃん、ここのトコうちと目も合わそうとしてくれないし、休み時間もすぐにどっか行っちゃうし……どうしたの?」
サチコが心配そうにあたしを覗き込んでくる。
彼女のおかっぱ髪がぱさっと揺れた。
「あ、あの。エンジン音が……」
「エンジン音?」
「飛行機の、ジェットのエンジン音が……」
震える声であたしは答えた。
「あー、そうだね。ここ飛行場近いしよく響くよねえ。それがどっかしたの?」
不思議そうに尋ねるサチコ。あたしは追い詰められた気持ちになって、どうしたらいいか分からなくなって、そういえばこういう時にどうやって誤魔化そうとか考えてなかったなと今更のように思って「小さな飛行機が……」「飛行機があたしの周りを飛んでて……」と、これまでの事情を訥々と、絞り出すように語った。サチコはそんな要領を得ないあたしの説明を黙って聞いていてくれてたんだけど、
「そっか。ゆうちゃんが見たって言うなら、そういうこともあるんじゃないかなあ」
そう言ったサチコの声はあまりにのんびりしていて、それを聞いた途端、あたしはするすると全身の力が抜けてしまった。なんだか直前まで張り詰めていたものが一気になくなってしまった。
思えばあたしは何にあんなに怯えていたのだろう。だってただ小さい飛行機が飛んでるのが見えるだけなのだ。少し見えている風景が変わったからって何だと言うのか。……そりゃあ多少うざったくはあったけどさ。突然へたり込んでしまったあたしを前にしてサチコは慌てていたけど、あたしは数日ぶりに安息を得ていた。おろおろするサチコを見てあたしはつい笑い出してしまった。
それ以来、小さな飛行機は見ていない。
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