崖の美術館


 夢の話。


 街から外れた沿岸部にその美術館はあった。美術館は海沿いの大きな岸壁をくり抜いた穴の中にすっぽりとはめ込まれるようにして建設されていた。周囲は上も下も断崖絶壁。お世辞にも交通の便がよいとは言えない環境にもかかわらず、その美術館はいつも盛況だった。崖伝いに続く細く長い階段が美術館への唯一の道となっているのだが、そこにはほぼ毎日入場を待つ来館者で長蛇の列が出来ており、海側から見るとそれがまるで陸地から垂らされた糸が岩の壁を這っているようにも見えた。


 その美術館はとある私企業が運営していて、主に現代美術を収蔵・展示していた。美術館の中には企業直営のギャラリー兼プロダクションが併設されており、企業と契約した国内外の名立たるアーティストが出入りしているとのことだった。そこでは美術に関する最新の情報が世界中から集まり、最新の議論が絶えず交わされているらしかった。


 かつてその美術館を訪れた際、偶然、私はそこのギャラリー所属のアーティストと少しばかり話をする機会に恵まれた。具体的に何の話をしたのかはよく覚えていない。しかし、不思議と彼とは意見が重なるところが多かったと記憶している。短い時間の中で彼と私はまるで古くからの友人同士のように打ち解けていた。その日の帰り、美術館のミュージアムショップで、私はそのアーティストが執筆したという小説――そのミュージアムショップの限定販売で一般書店では取り扱っていない――を一冊購入した。そのアーティストとは近く再び会うことを約束し、私は美術館をあとにした。


 ――そしてまた時を経たある日。私はその美術館を再訪した。その日の私は、以前にその美術館の展示で使われていた「あるもの」を携えていた。それは、どこの家にもあるようなだった。

 その日も美術館には多くの来館者が押し寄せ、長い行列をつくっていた。潮風が吹き荒ぶ中、丸めた布団をぎゅっと抱きしめて私は自分の番が来るのを待った。そして、崖の列で待つこと数時間。ようやく美術館に入る。美術館の入場ホールは全面ガラス張りで、屋内から外の海を一望することが出来た。しかし、そこでただぼーっと景色を眺めているわけにもいかなかった。私のあとにも来館者は老若男女問わずひっきりなしにやって来る。美術館の一角には小さな子供が遊ぶスペースも設けられており、走り回る子供たちを避けながら私は布団を抱えて美術館の中をさまよった。


 そうこうしているうちに、気づけば夕方になっていた。すぐに閉館時間が迫る。あれだけ大勢いた来館者は、いつのまにか私以外、誰もいなくなっていた。昼間の喧騒が嘘のように、すっかり辺りは静まり返っていた。ふいに心細さが身を包む。閉館間際のがらんとした美術館のホールで、私は一人立ち竦んでいた。ホールのガラス越しに、遠く暮れなずむ海を見る。水平線に日が沈んでいく。美術館の無機質な空間が刻一刻と夕闇に染まろうとしていた。


「やあ、お久しぶりです」


 急に声がした。見ると、例のアーティストが専属のスタッフ数名をつれて現れたところだった。にこやかな表情でこちらへ歩み寄って来る彼の背後で、夕焼けが少しずつ光を失いつつあった。




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幻景市随想 カクレナ @kakurena

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