サクラの樹の下にはオバケがいるんだよ

私はマスターからもらった名刺を頼りに、その事務所を訪れていた。


なんのへんてつもない小さなオフィスで、受付の若い女性に出されたお茶をすする。


テーブルを挟んで向き合っているのは、ちょいワルふうのダンディーなおじさん。


年の頃は40代半ばというところだろうか。


大人の男の色気を感じる。



私は佐倉代行サービスの社長だというそのダンディーなおじさんに、マスターに話した内容と同じ話をした。


誰かに話すほど、厳しい現実に突き刺されているようで、どんどん惨めな気持ちになる。


「事情はわかりました。その依頼、お引き受けします。」


「ありがとうございます。」


「それでは細かい設定をしていきましょう。」


佐倉社長は受付の女性に声を掛け、書類らしきものを持って来させた。


私自身の身元や、希望する日にち、設定などの詳細を記入するシートをテーブルの上に差し出される。


二度も話した自分の恥を、文字にまでしなくちゃいけないなんて、余計に惨めだ。


でも、仕方ない。


やると決めたんだから。



私がシートに記入していると、事務所の電話が鳴った。


応対した受付の女性が、子機を持ってきて佐倉社長に渡した。


私は黙々と記入を続ける。


応接セットのソファーの後ろで、何かがモソリと動いた。


「あーあ。」


誰かの大きな欠伸が聞こえた。


「だっせぇ。男に逃げられてやんの。」


「えっ?!」


誰?失礼な!!


その男はムクリと起き上がり、大きく伸びをした。


「結婚式の直前に捨てられるとか超マヌケ。」


「なっ…!!」


あまりの失礼さに私が言葉を失っていると、男はククッと意地悪く笑いながらこちらを見た。


綺麗に顔立ちの整った若い男が、人をバカにしたような目で私を見る。


その顔には見覚えがあるような気がする。


いや、間違いなく覚えている。


「被害者ぶるのやめたら?自分にも原因があるとは思わない?」


なんでアンタにそんな事言われなきゃいけないの…?


悔しくて情けなくて、肩が震える。


来るんじゃなかった、こんなところ。


「こら順平、失礼だろ。」


電話を終えて戻って来た佐倉社長が、失礼なその男の頭をはたいた。


「堀田さん、申し訳ありません。うちの若いのが失礼な事を…。」


「ホントの事じゃん。こいつに原因があったから、その男は別の女を選んだんだよ。」


「順平、口を慎め!」



最悪だ。


こんなところでまた会うなんて、思ってもみなかった。



かつて私が捨てた、この男に。







「……と、いうわけなんです。」


私はバーのカウンター席に座り、モスコミュールを飲みながら、佐倉代行サービスで起こった出来事をマスターに話していた。



結局、私が偽壮介役をしてくれる人を依頼した日には、あの順平しかスケジュールが空いていなかった。


どこぞの裕福な家庭の息子がゴージャスな結婚披露宴を予定しているのだが、良家のお嬢様である花嫁の家柄と釣り合うような友人がほとんどいないとかで、新郎の友人として大勢の代行サービス、つまりサクラを依頼したらしい。


その日は他にも何件か依頼があって、特に男性のサクラが、ほとんど出払ってしまうのだそうだ。


依頼するのを辞めようかとも思ったけれど、挙式を予定していた日まで、もう時間がない。


他にもやらなきゃならない事があるし、順平が失礼な事を言ったお詫びに格安料金にしておくと言われたので、不本意ではあるけれど仕方なく依頼する事にした。


たった1日、ほんの数時間の辛抱だ。


その日をなんとかうまくやり過ごせば、あとはどうにでもなる。



マスターには、若いサクラの男に失礼な事を言われたとは話したけれど、昔付き合っていた事は話さなかった。


二人が会う事なんてないのだから、余計な事を話す必要はない。



そう思っていた。




順平と出会ったのは5年前。


私がまだ24歳だった頃。



知り合ったきっかけは“幼馴染みが舞台の主役を務めるから一緒に観に行こう”と、半ば強引に友人に誘われ、その舞台を観に行った事だ。


友人と一緒に誘われ出席した打ち上げで、偶然隣に座ったのが3つ歳下の椎名 順平だった。


その頃の順平は役者を目指していて、アルバイトで生計を立てながら、小さな劇団の活動に打ち込んでいた。


“今はまだほんのわずかな出番しかないチョイ役ばかりの下っ端だけど、いつかは大きな舞台でたくさんの観客を前に主役を演じたい”と、目をキラキラさせて言っていた。


その後も何度か舞台を観に行き、打ち上げに誘われて一緒にお酒を飲んだ。


初めてから4度目の舞台の打ち上げの後、駅までの道のりを送ってもらっていた時に“付き合おう”と言ったのは順平の方だった。


私は初めて会った時から順平の事が気になっていたし、次第に次に会うのが楽しみになり、会うほどにもっと会いたいと思うようになっていた。


だから、素直に嬉しかった。




それから2年後。



私はなんの別れの言葉もなく、順平の前から姿を消した。


ただひたすらに夢に向かっていた順平は、現実にしか未来を見出だせない私には眩しすぎた。


どんなに好きでも、順平と同じ未来に向かって歩く事はできなかった。




過ぎて行く時の流れは、決して待ってはくれないのだから。





私がボーッとしている間に、少しずつ店内が賑わい始めた。


飲みかけのモスコミュールを一口飲んで、昔の事を考えるのはもうよそうと思う。



今となってはもう昔の事だ。


あの時だって今だって、順平は若い。


私との事なんてきっと、一時の気の迷いくらいにしか思ってないはずだ。


もう一度だけ我慢して顔を合わせれば、もう会う事もないだろう。


余計な事は考えないでおこう。


あの人は偽壮介。


今はもう恋人なんかじゃない。



そんな昔の事より今夜の事だ。


夕べは酔って連れ出されそうになったのが功を奏して、マスターの厚意でここに泊めてもらえたけれど、今夜はどこに行けばいいだろう?


友達にもホントの事は話せないし、マスターに頼むのも気が引ける。


やっぱり今夜こそネットカフェか。


そういえば財布の中にいくら入っていたかな。


早く新しい部屋を見つけなきゃ、毎晩どこに泊まるかで苦労する事になる。



だけど先立つものがない。



今日、“壮介の都合でキャンセルしたんだから私のお金を返して”と言ったら、今すぐは無理だと言われた。


彼女と暮らす部屋を借りて、出産費用と生まれてくる子供のために必要な物を揃えるお金がいるから、まとまったお金は今すぐ用意する事はできないと、都合のいい事を言っていた。


子供のために、と言えばすべて許されるとでも思ってるのか?


子供に罪はない。


むしろ悪いのはあの二人だ。



壮介と彼女が仲良くキッチンに立っていた姿を思い出して、ムカムカしてきた。


今頃壮介のやつ、鼻の下伸ばして、あの女といちゃついてるんだろう。


グラスに残っていたモスコミュールを飲み干して、おかわりをオーダーした。


「昨日みたいに飲みすぎたらダメだよ。」


マスターは優しく笑いながらモスコミュールを差し出した。


「気を付けます…。」


昨日の失態を思い出して、思わず苦笑い。


「それで、今日はこれからどうするつもり?寝泊まりする場所は確保した?」


「いえ…それがまだ…。」


壮介からお金を返してもらえなかった事や、結婚前から落ち着くまでは仕事を気にしなくていいように、派遣先との契約を昨日までにしていた事を話した。


「すぐに見つかるかはわからないけど、早く次の派遣先を紹介してもらわないと。今のままじゃ新しい部屋を借りる事もできないし…。」


「そうか…。」


マスターは腕組みをして少し考え込んでいる。


「なんにもないけど、新しい部屋を借りるまでうちの店の事務所で寝泊まりする?」


「えっ、いいんですか?!」


「朱里ちゃんがいいならね。シャワーとトイレと簡易キッチンくらいはついてるけど、ホントになんにもない場所だよ。」


「じゅうぶんです、雨風しのげれば!」


マスター、なんて優しいの!!


世の中にはこんないい人もいるんだな。



「ああそうだ、ここにいる間、家賃代わりに店手伝ってくれたら助かるよ。洗い物とか。」


「もちろんやらせていただきます!!洗い物でも掃除でも、なんでも言って下さい!」


「へー、なんでもだって。じゃあ夜の相手もお願いしちゃえば?マスター。」


「えっ?!」


突然割り込んで来た失礼なその男は、人をバカにするような目で私を見た。


「懲りもせずにまた酒飲んで。学習機能ってものがないのか?」


じゅ、順平がなんでここに?!


「ああ順平。もうそんな時間か。」


マスターは腕時計をチラッと見た。


「朱里ちゃん、昨日は随分酔ってたから覚えてないよね。こいつ順平。昨日君が連れ出されそうになったのを阻止したバイトくん。」


「えぇっ?!」


最悪だ。


最悪だ。


最悪だ。


あんなところ順平に助けられたなんて!!


「礼のひとつも言えねぇの?」


順平は私を見下して勝ち誇ったような顔をしている。


悔しいけど助けてもらったのは事実だ。


「もしかしてあれか、あの男についてけば体と引き換えに今夜は泊まる所に困らないと思ってたとか?まんざらでもなさそうだったしな。」


酔っていたとはいえ、実際似たような事を考えたから返す言葉もない。



順平よ、それは仕返しなのか?


もしかして、私が勝手にいなくなった事を、まだ根に持ってるのか?



「順平、あんまりいじめないでやってくれ。」


「なに?マスター、マジでこの女どうにかしちゃおうとか思ってる?」


「思ってないよ。純粋な人助けだ。」


この女って何よ。


どうにかってなんだよ。


しかし順平はいつの間にこんなに最低な男になったんだろう?


昔はこんなひどい事は言わなかったのに。


「ほっときゃいいのに。マスターは人が好すぎるんだよ。」


「朱里ちゃんを助けたのは順平だろ?」


「この店がいかがわしい店だって、他の客に誤解されたらどうすんだよ。こいつを助けたかったわけじゃない。こいつは自分の意思でついて行こうとしてたんだからな。」


順平はグラスを洗いながら舌打ちをした。


これ以上関わりたくなかったのに、私が新しい部屋を借りられるまで、何度も顔を合わせなくちゃならないって事か。


お金貯めて早く部屋借りなきゃ。


今度の仕事は、多少きつくても時給の高い職場を紹介してもらおう。


「とりあえずだ。朱里ちゃん今日からしばらく事務所で寝泊まりする事になったから。その間は店の手伝いしてもらう。」


「俺一人でじゅうぶんだろ。かえって邪魔になるんじゃねぇの?それにこんなやつ信用して大丈夫なのか?朝になったら金でも盗んでバックレてるかも知れないのに。」


ホントにいちいち失礼だ。


人を泥棒呼ばわりしくさって。


ホントに腹が立つ。


昔とは別人みたいだ。


昔の順平はもっと素直でかわいかった。



「ああ言えばこう言うね、オマエは。そんなに言うなら、オマエが面倒見てやれば?」


順平は眉間にシワを寄せて、険しい顔をした。


「は?なんで俺が…。」


「そうだ。確かオマエ、同居人探してなかったっけ?部屋空いてんだろ?」


「だからって…。」


「いいじゃん。朱里ちゃんは新しい部屋を借りる余裕はないみたいだし。家賃半分払ってもらえばオマエもラクだろう?」


いやいや、なんでそうなるの?


順平と一緒に暮らすなんて有り得ない。


「あのー…できれば私はここの事務所で…。」


おそるおそるそう言うと、マスターは私の方を向いて笑った。


「そう?朱里ちゃんがそう言うなら構わないんだけどね、俺は。ただ、ひとつ言い忘れてた事があって。」


「なんですか?」


「ここね、たまに出るの。」


「えっ?!」


出るって…出るって、もしや…!!


「朱里ちゃんが平気なら、遠慮なくどうぞ。」



い…い…イヤだ…!!


無理、絶対に無理!!


私はこの世で一番オバケが苦手なんだから!


心霊話を聞いた日の夜は、怖くて怖くて、とても一人ではいられない。


今までは壮介がいたから、夜に一人になる事はほとんどなかった。


私が怖がって抱きついたら、壮介は鬱陶しがってはいたけれど、それでも私が眠るまで、ちゃんと背中をトントンしてくれた。


そんな時もあったのにな。


なんで今更、そんな事を思い出すんだろ。


……とりあえず、壮介の事はおいといて。


いくらなんでも順平と暮らすなんて…とは思うけど、“出るよ”と言われた場所に一晩中一人でいるなんて絶対に耐えられない。


しかも一晩どころの話じゃない。


どうしよう…。




何も言い出せないまま、確実に夜は更ける。


どうしよう、ひとりになるのが怖い。


なんか変な汗が出てきた。


でもここしか頼る場所はないんだから。


ビビったら負け、眠っちゃえばきっと大丈夫。


だけど眠る前に何か出てきたらどうしよう?!


眠ってても起こされるかも知れない!!


シャワーとかトイレとか…怖すぎる…。


ダメだ。


やっぱり一人で耐えられる自信がない。


「朱里ちゃん、閉店待ってなくても、好きな時間に事務所に行っていいんだよ。」


「そ…そうですね…。」


マスターの気遣いは嬉しいけれど、出ると知ってしまった以上、私には事務所で一人になる勇気はない。


「俺らがいると落ち着いてシャワー浴びたりしづらいでしょ。」


「それは…そうなんですけど…。」


いや、逆に誰もいない方が落ち着いてシャワー浴びたりできないよ!!


「もう少ししたら行こうかな…。」



オバケが怖くて行けません!!とも言えず、グラスに残っているモスコミュールを、チビチビ飲みながら閉店時間を待った。




バーが営業を終えたのは2時過ぎ。


マスターと順平が片付けを終えたのは2時半前だった。


マスターと順平と一緒に事務所に入った私は、オバケはいつどこに現れるのかとビクビクしながら部屋中を見回していた。


今はマスターと順平がいるから怖さも少し和らいでいるけど、売り上げの集計なんかを終えると二人とも帰ってしまう。


ヤバイ…絶対無理だ…。


「よーし、今日も終わったな。お疲れさん。」


えぇっ、もう?!


「今日はいつもより忙しかったからな。もうこんな時間だ。帰って寝るか。」


待って、待って!


まだ帰らないでー!!


「じゃあ朱里ちゃん、俺たちは帰るからね。店の鍵はちゃんと閉めておくから、朱里ちゃんは安心して寝ていいよ。」


安心して眠れないから!!



どんなに目で訴えかけても、マスターは気付いてくれない。


「じゃあね、朱里ちゃん。おやすみー。」


マスターはさっさと事務所を出た。


恐怖と不安で背中に冷たい物を感じる。


私はきっと今、ひどく蒼ざめた顔をしているに違いない。


その後をついて出ようとした順平が、腕時計をチラッと見ながら、ボソリと呟く。


「2時半か…。草木も眠る丑三つ時だな。」


順平の一言が私に追い討ちをかけた。


う、丑三つ時…!!


オバケのゴールデンタイム…!!


無ー理ー!!


絶対無理、耐えられん!!




私は無意識のうちに、震える手で順平の背中にがっしりとしがみついていた。






















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