待たれる間が花、待つ男は大人?
マンションの前に、見覚えのある車が停まっている。
その車のそばでは、マスターが笑って手を振っている。
「朱里ちゃん。」
「おはようございます。お待たせしてごめんなさい。」
「大丈夫、さっき着いたとこだからね。さ、どうぞ。」
マスターは助手席のドアを開けてくれた。
自然にエスコートができるあたり、マスターはやっぱり大人なんだな。
ちっともイヤミがない。
こんなふうにスマートな身のこなしでエスコートしてくれた人、今までいなかった。
かなり新鮮。
助手席に座ってシートベルトを締めた。
マスターも運転席に座り、シートベルトを締めた。
前にこの車に乗ったのは壮介の部屋に荷物を取りに行った時で、運転席にいたのは、めんどくさそうにブツブツ文句を言う順平だった。
今日はいつもと少し違うマスターがいる。
…なんか変な感じ。
「じゃあ行こうか。」
マスターはゆっくりと車を発進させ、前を向いて運転しながら話し掛ける。
「どこか行きたい所はある?」
「うーん…。デートスポットみたいな場所、あまりよく知らないので…。マスターにお任せします。」
「じゃあ…ドライブでもしながら考えよう。それと…今日はマスターって言うのは無しで。」
「えーと…。」
マスターの名前ってなんて言うんだっけ?
確か苗字は梶原さんだったな。
「…梶原さん?」
「できれば名前の方で。」
名前は覚えてません!とは、さすがに言いづらいな…。
「覚えてないかな。早苗って言うんだ。」
「早苗…さん?」
「女みたいな名前だから好きじゃないんだけどね。朱里ちゃんになら、そう呼ばれてもいいかなぁって。むしろそう呼ばれたい。」
「そうなんですか…?じゃあ、今日はマスターじゃなく早苗さんで。」
呼び慣れない名前とか、いつもと違う服装とか…なんとなく照れ臭いような、くすぐったいような。
ちょっとソワソワしたりなんかして。
そうそう、初めてのデートって確かこんな感じだったっけ。
「緊張してる?」
「…少し。」
「普段通りでいいんだよ。」
普段通りでって言われても…既にもうすべてが普段とは違うんですけど!!
「…って言ってる俺も少し緊張してる。」
マスター…いや、早苗さんはハンドルを握りながら軽く笑った。
「緊張…してるんですか?」
「朱里ちゃんと初デートだから。」
顔がカーッと熱くなるのを感じて、思わず両手で頬を覆った。
「そんな事言われると照れ臭いです…。」
「あれ?照れてるの?かわいいなぁ、朱里ちゃんは。」
「かっ…かわいいなんて…。」
ヤバイな…この感じは…。
言われ慣れない甘い言葉に酔わされてしまいそうだ。
私…今日一日もつかな…。
しばらくドライブをした後、お洒落なイタリアンレストランで昼食を取りながら、この後どこに行こうかと相談した。
「私…あまりデートらしいデートをした事がないので…思い浮かぶのは水族館とか動物園とか遊園地とか…子供っぽいところばかりです。」
「子供っぽいかな?そう言えば、動物園なんてもう何年も行ってないなぁ。何十年か?」
早苗さんはおかしそうに笑った。
「何十年なんて大袈裟です。」
「いや、ホントに。行ってみる?」
「いいんですか?退屈しませんか?」
「俺は朱里ちゃんと一緒ならどこでも楽しいし、朱里ちゃんが楽しいなら俺も楽しい。」
またそういう事を…!!
なんだかもう申し訳ないくらい恥ずかしくて、赤い顔をして思わずうつむいた。
「朱里ちゃん顔赤い。照れ屋さんだね。」
早苗さんは笑いながら指先で私の頬に触れた。
余計に顔が赤くなる。
大人って…大人って……!!
何気ない仕草や言葉に余裕とか色気とかありすぎて、こっちの身がもたないよ!
今日の早苗さんは、なんだか随分積極的だ。
早苗さんは男なのだと、今までの何倍も意識してしまう。
少し顔を上げると、早苗さんと目が合った。
みっ…見られてた!!
「ん…?どうしたの?」
「いえ…何も…。」
こんなに色っぽい目をする人だった?
その視線に捕らえられていると思うと、体の奥がゾクリと疼く。
早苗さんは無意識なのか、何食わぬ顔で料理を口に運んでいる。
その指先や唇がやけに目についてしまう。
何考えてるの、私は…?
「食事が済んだら、動物園行ってみようか。」
「ハイ…。」
きっと今、私の頭の中は、欲情に駆られたメスみたいになっている。
早苗さんがエスパーじゃなくて良かった。
早苗さんじゃないけど、動物園なんて何年ぶりだろう。
前に行ったのはいつだったかな。
園内に入ると、早苗さんはスッと私の手を取り指を絡めた。
こ…恋人繋ぎってやつだ…!!
「今日はこうして歩きたいな。…いい?」
赤い顔で小さくうなずくと、早苗さんはもう片方の手で私の頭を撫でた。
「それと…朱里…って、呼んでもいい?」
はぁぁ、もうダメだ!!
心臓がドキドキし過ぎておかしくなりそう!!
「イヤ…かな?」
心臓が口から飛び出してしまいそうで、私はしっかりと口を閉じたまま首を横に振った。
早苗さんはそんな私を愛しげに見つめている。
「じゃあ…行こうか、朱里。」
指を絡めて手を繋ぎ、早苗さんの隣を歩く。
動物園に来ていると言うのに、目の前にいる動物よりも早苗さんの事が気になって仕方ない。
時間が経つと少しずつ慣れてはきたものの、早苗さんが時折見せる笑顔とか、色っぽい表情とか甘い言葉に、やっぱりドキドキしてしまう。
私…早苗さんの事が好きなのかな?
それとも甘やかされて勘違いしてるだけ?
疑問形になると言う事は、まだそんなにハッキリとした感情ではないんだと思う。
だけど確かに私は、早苗さんを男の人として意識している。
好意を寄せてくれている事は、素直に嬉しい。
早苗さんなら、きっと私を大事にしてくれると思う。
少なくとも、壮介みたいに私を騙したり裏切ったりはしないだろうとも思う。
でも…やっぱりまだ、これを恋とは呼べない。
この気持ちを恋と呼ぶにはまだ不確かで、何かが足りない。
そんな気がする。
それが何であるかは、私自身にもまだわからないのだけれど。
早苗さんと手を繋いでたくさんの動物を見てまわり、パーラーでお茶を飲みながら休憩などもして、久しぶりの動物園を楽しんだ。
グッズショップに立ち寄ると、早苗さんは私にキリンやライオンのぬいぐるみを抱かせた。
「ふふ…フワフワ。かわいいですね。」
ぬいぐるみなんてこれまた何年ぶりだろう?
「買ってあげようか?」
「…子供扱いしてます?」
「ん?してないよ。単純に、ぬいぐるみ抱いてる朱里がかわいいから買ってあげようかなぁと思っただけ。」
もう…まただよ…。
「イヤだった?」
「イヤじゃないですけど…。」
「また赤くなってる。照れ屋さん。」
早苗さんは私の肩を抱き寄せて頭を撫でた。
「もう…。そういう事、言われ慣れてないからすごく恥ずかしいんです…。」
「そうなんだ。すごくかわいいのに。じゃあ、これからは俺が言ってあげるよ?」
甘い…甘すぎて萌え死にそう…。
手に持ったぬいぐるみを、思わずギュッと握りしめた。
「あんまりかわいいから、このまま連れて帰ろうかな。俺も朱里を抱きしめたい。」
「えぇっ?!」
いくらなんでもそれはまずいでしょう?!
そんな事されたら私、きっと抵抗するのも忘れてされるがままになっちゃう!!
一人あわてふためく私を見て、早苗さんが吹き出した。
「冗談だよ。」
ホッとして肩の力が抜けた…と思ったら、早苗さんは、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そう思ったのはホントなんだけどね。」
恥ずかしくて、早苗さんの顔が見られない。
ああもう…!!
やっぱり大人って…早苗さんって…ズルイ!!
もし早苗さんの恋人になったら、毎日ずっとこんな感じなのかな?
低くて優しい声で甘い言葉を囁かれて、あたたかい胸に抱かれて、私の中の空洞を愛情でいっぱいに満たされて…。
もしそうだとしたら、私はきっと、愛されてるって毎日実感するんだろう。
壮介とは3年も一緒にいたのに、甘い言葉にドキドキした事も、抱きしめられて安心した事もなかったし、愛されてるなんて実感した事は一度もなかった。
愛されてるって毎日実感できたら…私は幸せ…なのかな?
日が暮れて風が冷たくなり始めた。
ライトアップされた観覧車が宵闇の中に佇んでいる。
「あれ、乗ってみようか。」
早苗さんは私の手を引いて、観覧車へと急ぐ。
「朱里、早く!!」
観覧車の前でチケットを買い、ゴンドラに乗り込んだ。
少し走ったので軽く息が上がっている。
「早苗さんったら…そんなに急がなくても、観覧車は逃げませんよ。」
「ごめんね、急かして。」
少しずつ上昇していくゴンドラの窓から、明かりの灯る街並みを眺めた。
「綺麗…。観覧車なんて久しぶりです。早苗さんは観覧車好きなんですか?」
「うん?観覧車が好きって言うか…。昔、好きな女の子と観覧車に乗るのが夢だったんだけどね…。内気だったから、勇気がなくて一度も誘えなかったんだ。」
「ふふ、かわいい。早苗さんにもそんな頃があったんですね。」
「だから今日は…朱里とその夢を叶えようかなーって。」
「私と…?」
早苗さんが私の方を向いた。
その瞳には私が映っている。
「ベタなんだけど…観覧車のてっぺんで、好きな女の子と…キス、したかったんだ。」
「え…。」
心臓がうるさいくらいドキドキと音をたてる。
「朱里…好きだよ。」
「……!」
早苗さんは私の肩を抱いて、ゆっくりと顔を近付けた。
私は思わずギュッと目を閉じた。
やや間があって、私の唇に何かが触れた。
ん…?何これ…?
ゆっくり目を開くと、早苗さんがクスクス笑いながら人指し指を私の唇に押し当てている。
「好きでもない男の前で、無防備に目なんか閉じたらダメだよ。」
「っ…!!」
恥ずかしい…!!
絶対キスされるんだと思ってた…!!
「俺はしたいんだけどね…朱里の気持ちが俺に向くまで待つって約束したし…キスなんかしたら朱里の全部を俺のものにしたくなって…キスだけじゃ済まなくなる。」
早苗さんはいつものように私を抱きしめて、おでこにほんの少し触れるだけのキスをした。
「今日のキスはこれで。もしいつか朱里が俺を好きになってくれたら…その時はまた誘ってもいいかな?」
早苗さんの腕の中で、私は小さくうなずいた。
「そんな日が来るの待ってる。」
私の髪を撫でながら、早苗さんは優しい声で囁いた。
ゴンドラが地上に近付いて来ると、早苗さんは私を抱きしめる腕をほどき、もう一度手を繋ぎ直した。
「半分くらいは長年の夢が叶ったかな。」
少し嬉しそうな早苗さんの横顔を、私はドキドキしながら見つめていた。
好きになりそう…。
もっと早く出会っていたら、なんの迷いもなく好きになっていたかも知れない。
きっと私は、早苗さんにキスされても、イヤじゃなかったと思う。
だけど心のどこかでホッとしていた。
早苗さんは順平みたいに無理やりキスしたり押し倒したりしない。
私の気持ちを一番に考えてくれるし、早苗さん自身の気持ちを素直に伝えてくれる。
大人だから?
それだけじゃない。
きっとこれが早苗さんの優しさだけでなく、私に対する真剣な気持ちの表れなんだと思う。
私にもいつか、順平を好きだったあの頃の私よりも強く、早苗さんをまっすぐに愛せる日が来るのかな?
そうなればいいと願う私と、それを恐れている私がいる。
今、私の手を引いているあたたかい手は、順平の手じゃない。
早苗さんに大切にされている事を嬉しいと思うのに、その手に身を委ね守られる事を不安に思う。
もし私が本気で別の誰かを好きになったら、私の中のあの頃の順平が消えてしまいそうな気がした。
私自身の手で、心の中から順平を消してしまうなんて…他の誰が許しても、私はきっと私を許せないだろう。
動物園を出た後、夜景の綺麗に見える湾岸道路をドライブした。
カーステレオからは往年の洋楽の名作と言われるスローナンバーが流れている。
早苗さんはハンドルを握りながら、時折その歌を口ずさんだ。
低くて優しい甘い歌声が私の耳に流れ込む。
「歌…上手なんですね。」
「ん?昔、音楽やってた頃があるよ。」
「歌ってたんですか?」
「うん。いつの間にか現実の厳しさに流されてやめちゃったけどね。」
当たり前だけど、早苗さんには早苗さんの過去がある。
早苗さんが私の過去を知らないように、私も早苗さんの過去はよく知らない。
でも今は、それでいいと思う。
早苗さんをもっと知りたいと思った時は、きっと私が早苗さんを好きになった時だろう。
しばらくしてから、夕食をどうしようかという話になり、昼はイタリアンだったから夜は和食にしようという事になった。
少し敷居の高そうな上品な佇まいの和食の店に入り、季節感溢れる色彩の鮮やかな懐石料理をご馳走になった。
こんな高級感の漂う店に入ったのは初めて。
壮介とはいつもファーストフードとかファミレスとか、気軽に入れる手頃な店ばかりだった。
同棲を始めてからは外食なんてほとんどしなかったと思う。
その分、紗耶香につぎ込んでいたんだろう。
別にお金をかけて欲しいというわけではないけれど、早苗さんといると、私が壮介にいかにぞんざいに扱われていたかに気付く。
不思議な事に、順平と過ごした日々の事は何一つ不満とは思わない。
お金がなくても私に奢られる事は嫌いで、プレゼントも買えなかったとか、外食らしい外食なんてできなかったとか、デートはいつも公園とか私の部屋だったり、映画なんかにも行けなかったけれど、それでも私は幸せだった。
他に何もなくてもいいと思うくらいに、順平の事が好きだった。
好きだった、と言うと過去の話になってしまうけど、今も私の中では順平はあの頃のまま笑っている。
順平の癖も、声も、負けず嫌いな性格も、何もかもあの頃のまま。
私だけが歳を重ね、変わってゆく。
時の流れは無情だ。
あの頃の順平が今の私を見たら、なんと言うだろう?
食事が済んで、あたたかいお茶を飲みながらしばらく話をした。
早苗さんは腕時計をチラッと見て、湯飲みに残っていたお茶を飲み干した。
「もうこんな時間だ。そろそろ出ようか。」
車に乗って、マンションが近付いて来ると、早苗さんは小さくため息をついた。
「一日あっという間だったな…。」
「ホントに早いですよね。」
「それは…朱里も楽しかったと思ってくれてるからって事でいいのかな?」
「楽しかったですよ、すごく。」
「それなら良かった。」
早苗さんの嬉しそうな笑顔を見て、ほんの少し罪悪感を感じた。
同じ時を過ごしている間も、目の前にいる私が壮介や順平の事を考えていたと知ったら、早苗さんはどう思うだろう?
マンションの前で車を停めて、早苗さんは私を抱きしめた。
いつもよりその手に力がこもっている。
「早苗さん…?」
「急かさないで待つって決めたけど…ホントは早く俺だけの朱里にしたいって思ってる。好きな子を他の男の部屋になんか帰したくない。」
早苗さんが珍しく感情を強く表した。
それは…嫉妬…なのかな?
確かに私と順平が一緒に暮らしている事は、早苗さんにとっては穏やかではないだろう。
私にとったって普通なら考えられない状況だ。
「最初に部屋を貸してやれって順平に言ったのは俺だし、今更言うのもなんだけど…朱里さえ良ければ、俺の部屋に来たっていいんだよ?」
「…それはそれでどうかと…。」
どちらにしても、私が恋人でも夫でもない男の人と暮らす事には変わりない。
「できるだけ早くお金を貯めて、新しい部屋を借りようと思ってます。」
「…貸そうか?返すのはいつでもいいし…。」
「いえ、お金の貸し借りはちょっと…。」
順平の女癖の悪さを知っているからなのか、早苗さんはよほど私を順平から引き離したいんだなぁと、笑っちゃいけないけど少しおかしくなる。
「順平…朱里に何もしない?」
されますよ、とは口が避けても言えない!!
「あの…大丈夫ですから。」
「心配なんだよ。順平は悪いやつじゃないけど男だから。女癖も良くないし。」
わかってますよ。
好きでもない女の子を食い散らかすようなやつですからね。
私を抱きしめながら少し考え込んでいた早苗さんが、耳元に唇を寄せた。
「やっぱりうちに連れて帰ろうかな…。ぬいぐるみみたいに朱里を抱きしめて寝たい。抱きしめるだけじゃ済まなくなるけど…。」
「いや…あの…早苗さん?」
「いい歳して嫉妬なんかしてみっともないけどね…俺は朱里が思ってるほど大人じゃないよ。朱里の事になると余裕なくなるみたいだ。今だって気持ちを抑えるの必死。」
早苗さんは少し苦笑いを浮かべて、私から手を離した。
「送り狼にならないうちに帰ろうかな…。部屋にいる狼にも気を付けるんだよ。」
「ハイ。あの…今日は楽しかったです。ありがとうございました。」
「また…誘ってもいいかな?」
私がうなずくと、早苗さんは私の頭を撫で、おでこに軽くキスをした。
「じゃあ…また明日。」
「…おやすみなさい。」
車を降りて軽く手を振り、見えなくなるまで見送った。
指先でおでこにそっと触れてみる。
まだ早苗さんの唇の感触が残ってる…。
強引に唇にキスされるより、ずっとドキドキする。
あの唇が、私の唇に…肌に触れたら…どんな気持ちになるんだろう?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます