知らぬ顔をやめた順平

ドアを開けると、リビングは真っ暗だった。


順平はバイトかな。


リビングの電気をつけようと手を伸ばした時。


「あっ…んんっ…。」


順平の部屋から声が聞こえる。


「ああん…いいっ…もっと…!」


ん…?もしかしなくてもこれは…。


女の喘ぎ声とベッドの軋む音が漏れ聞こえ、ドア越しにでも部屋の中で何が繰り広げられているのか、簡単に想像がつく。


私は電気をつけるのをやめ、忍び足でリビングを横切り、そっと自分の部屋に入って、音をたてないようにドアを閉めた。


順平のやつ…!!


私には男を連れ込むなとか言っておいて、自分は女連れ込んでしっかりやる事やってるんじゃない!!


そりゃ確かに順平の部屋ではあるけれど…私の留守中だったとは言え、そんな事をされたら気持ちのいいものではない。


結局…誰でもいいんだな、順平は。


“オマエに言われたくない”って言われそうだけど…。


どうでもいいと言えばどうでもいい。


私と順平はなんの関係もないんだから。


やっぱり、少し無理をしてでも早くこの部屋を出よう。


順平にとっても、その方がいいはずだ。


今一緒に暮らしているのは、私の好きだった順平じゃない。


もし同一人物だったとしても、もうあの頃の順平じゃない。


私ももう、あの頃の私じゃない。


過ぎた時間はもう戻らないという事は、イヤというほどわかっている。


思い出は思い出として今の現実を見なければ、私は一歩も前には進めない。



そろそろ現実を見るべきなのかな…。




部屋から出たくても一歩も出られず、なんとなく遠慮して電気も消して、できるだけ物音をたてないように布団の中で息を潜めた。


時折微かに聞こえてくる声に耳を塞ぎ、何も考えないように目を閉じた。


何やってるんだろう、私…。


こんな事なら、もう少し早苗さんと一緒にいれば良かった。




いつの間にかウトウトしていたらしい。


ドアの向こうがやけに騒がしくて目が覚めた。


女の人のがわめいている。


はっきりとは聞こえないけれど、順平を激しくなじっているのは間違いない。


…またひどい事言ったな。


誰彼構わず手当たり次第食い散らかして、おまけに用が済んだら冷たくあしらうんだから。


見た目がいい分、余計にタチが悪い。


フローリングを苛立たしげに歩く大きな足音と

玄関のドアが乱暴に閉まる音がした。


……やっと帰ったか。


これで安心してシャワーでも…と思ったけど、すぐに出て行くのもなんだか気まずい。


やっぱりもう少ししてから…と思って布団から顔を出した時、部屋のドアが勢いよく開いた。


「うひゃあっ!!」


驚いて思わず変な叫び声をあげてしまった。


順平は部屋の入り口で私を見下ろしている。


「こっそり聞き耳たててたのか?」


私は慌てて布団をはね除け起き上がった。


「んなっ…!!そんなわけないでしょ!!聞こえないように布団の中で耳塞いでたのよ!!って言うか勝手にドア開けないで!!それに…!!」


「なんだよ。俺の部屋で俺がやる事に文句あんのか?」


それを言われると…。


「それはそうだけどっ…!どうせならそういう事は私にはわからないようにやってよ!!」


「今夜はマスターの家に泊まるんじゃなかったのか?」


「そんなわけないでしょ?!私、そんな事一言も言ってないじゃない!!」


「ふーん…。今日は帰って来ないと思ってた。一緒に暮らしてる女が急に帰ってきたから帰れって言ったら、あの女怒って帰った。」


「…当たり前だよ…。」


ホントに最低だ、この男…。


「とりあえず、私はお風呂に入りたいの。」


「一緒に?」


「んなわけあるかっ!!出るに出られなくて困ってたの!!もうあっち行って!!」


立ち上がり順平の体を両手でぐいぐい押すと、順平が急に険しい顔をして、私の腕を掴んだ。


「……マスターの香水の匂いがする。」


「えっ?!」


「匂いが移るような事してきたんだ。」


「バカッ!!…って言うか関係ないでしょ?!アンタには言われたくないよ!!」


順平の手が、痛いほど私の腕を強く掴む。


「来い!!」


乱暴に私の手を引いて、順平は浴室に向かう。


「痛いよ、離して!」


順平は私を投げ出すように浴室に押し込んで、シャワーのレバーを捻り、私に頭から冷たい水を浴びせた。


「きゃぁっ…冷たい…!!やめてよ!!」


「うるさい!!」


どんなにやめてと言っても、順平は水の勢いをゆるめない。


どうしてこんな事をするのか、なぜ順平が怒っているのかわからないけれど、冷たくて、悲しくて、涙が溢れた。


「お願い、やめて…。なんで…?なんでこんな事するの…?」


順平はようやく水を止めて、シャワーヘッドから手を離した。


ガタンと大きな音をたててシャワーヘッドが床に転がる。



順平はしゃがみこんで私を抱きしめた。


「なんで…?聞きたいのはこっちだよ…。なんでそうやって…俺から離れて行こうとするんだよ…。」


「えっ…?」


「もう…他の男のところになんか行くな…。」


…何言ってるの…?


「あんなに好きだって…ずっと一緒にいようって言ったじゃん…。なのに急にいなくなって…俺がどんだけ心配したと思ってんだよ…。」


まさかそんなわけない。


でも…もしかしたら…。


「……順平…?」


「俺以外に誰がいるんだよ。顔も名前も同じなのに、なんで俺だってわからないの?」


「嘘でしょ…?だって順平は…。」


「嘘なんかじゃない。」


考えるほどに混乱する。


目の前にいる順平が、私の好きだった順平?


「ずっと朱里を探してた。」


順平の唇がゆっくりと私の唇に重なった。


冷えきった唇を温めるように、順平は優しく唇をついばむ。


あの頃順平と何度も重ねた優しいキスと同じ。


長いキスの後、順平は私のブラウスのボタンを外し、首筋と胸元に何度も唇を押し当て強く吸った。


「やっ…痛い…。」


「朱里は誰にも渡さない。」


濡れたブラウスを脱がされて我に帰り、慌てて両手で自分を抱きしめるように体を隠した。


順平は私の背中に手を回して下着を外した。


「やめて…。」


「なんで俺の前では隠すの?簡単に他の男に抱かれるのに?」


入り交じった思い出と現実の境目で、順平が変わってしまった私を責める。


「もうやめてよ…。」


髪から冷たい滴がポタポタと肩に落ち、冷えきった体が震えた。


冷たい頬をあたたかい滴が伝う。


「……ごめんね、順平…。ごめん…。」


あとからあとから涙が溢れる。


こんな顔を順平に見られたくなくて、両手で顔を覆った。


順平は両手で私の手を握り、涙で濡れた頬に口付けた。


そして冷えきった体を包み込むように抱きしめた。


「朱里…ごめん、冷たかったよな…。とりあえず体あっためないと…風呂入って。」


さっきとは全然違う優しい声でそう言って、順平は浴室を出た。


順平もびしょびしょだったのに。


肌に張り付く濡れた服を脱いで洗面器の中に入れ、熱いシャワーを浴びた。


頭の中はまだ混乱して、うまく事態が飲み込めていない。


順平は私だとわかっていたのに、どうして今まで何も言わなかったんだろう?


ホントに順平なのか、それとも嘘をついているのか、どっちなんだろう?


順平はどうしてあんなに別人のように変わってしまったんだろう?


私がいなくなった後、順平の身に何が起こったんだろう?





お風呂から上がると、着替えも持たずにお風呂に入る羽目になってしまった私は、脱衣所でバスタオルを巻いたまま途方に暮れる。


脱衣所のカーテンの隙間からそっとリビングを覗くと、順平は着替えを済ませソファーに身を沈めていた。


どうしよう…。


着替え、取りに行けないよ…。


このままここにいるわけにもいかないし、せっかく温まったのに湯冷めする…。


カーテンの隙間から順平と目が合ってしまい、私は慌てて目をそらした。


「朱里?どうかした?」


「あの…着替え取りに行きたいんだけど…。」


「あ、そうか…。」


何を思ったか順平は、脱衣所のカーテンを勢いよく開けた。


私は驚いて順平に背中を向けた。


「っ…!!なんで開けるの?!」


「朱里が逃げないように。」


順平は私の体を後ろから抱きしめて、うなじに唇を這わせた。


「やっ…ダメ…。やめて…。」


「やめない。」


順平の唇がうなじから肩、肩から背中へとゆっくり降りていく。


「朱里…。」


順平の唇からもれた吐息が背中にあたり、全身がゾクゾクと痺れた。


「んっ…。」


耐えきれず声をあげてしまう。


順平の腕の中で甘い疼きに抗う事もできず、気が付けばバスタオルを外されていた。


大きな手で胸に触れられビクリと肩が震えた。


「ダメ…やめて…。」


「やめない。朱里が他の男のところになんか二度と行けないように、俺の手でめちゃくちゃにする。」


順平の手が肌を滑り降りて、その指先は私の中へと入り込もうとした。


流されそうになる理性を必死でたぐり寄せ、私は順平の手を掴んだ。


「もうやめてよ…お願いだから…。」


「…なんで?」


「こんなの…あの頃の…私が好きだった順平じゃない…。」


突然首の付け根に痛みが走った。


「いたっ…!!」


順平が私の首の付け根に噛みついたのだ。


「あの頃と違うのは当たり前だろ。勝手にぶっ壊したのは朱里じゃん。俺は…!」


そこまで言って口をつぐんだ順平は、肩を震わせ拳を握りしめている。


「順平…。」


「…もういい。マスターのとこにでも、どこにでも勝手に行けばいいだろ。」


順平は顔を上げずに、私にバスタオルを投げつけて脱衣所から出て行った。


その後すぐに、玄関のドアがバタンと閉まる音がした。


床に落ちたバスタオルを拾い上げようと下を向くと、ポトポトと水滴が床を濡らした。


「順平…。」


拾い上げたバスタオルに、涙でグシャグシャになった顔をうずめた。


冷たくしたり乱暴にしたり、そうかと思えば優しいキスをしたり、突き放したり。


もうどうしていいのかわからない。


「痛…。」


順平が噛みついた首の付け根を押さえた。


首筋と胸元にはいくつもの順平のキスの痕。



“朱里は誰にも渡さない。”



順平の言葉が耳の奥で何度も響いた。





その晩、順平は帰って来なかった。


次の日のバイトの時間になってもバーに現れなかった。


心配したマスターが電話をしても、電源が入っていないと機械の音声が流れるだけで、結局閉店時間になっても連絡がつかなかった。


「朱里ちゃん、順平から何か聞いてない?」


「いえ、何も…。」


夕べの事は、さすがにマスターには言えない。


バイト中に着る制服では順平の残したキスマークが見えてしまうので、首筋の目立つところはコンシーラーで隠した。


店内は薄暗いし、マスターは気付いていないと思う。


順平をあんな風にしたのは私だ。


気になっていた事は何一つ聞けていないのに、どこに行ってしまったんだろう?


今日は帰って来るだろうか?




閉店後、早苗さんはいつものように私を送ってくれた。


「順平はどうしたんだろうね。」


歩きながら早苗さんが心配そうに呟いた。


「わかりません…。」


実際、私にもよくわからない。


順平が行きそうな場所も知らないし、それどころか普段何をしているかもよくわからない。


私は順平の事を何も知らない。


本当に順平なのかさえわからない。


隣を歩いていた早苗さんが手を握った。


後ろめたさからなのか、少し手がこわばる。


私の様子が変だと気付いたかも知れない。


けれど、早苗さんは何も言わずにそのまま歩いて、珍しく寄り道をせずに、まっすぐ送り届けてくれた。


早苗さんはマンションの前で立ち止まって、私の目をじっと見た。


「…朱里、何かあった?」


「……何も…。」


早苗さんの目をまっすぐ見る事ができない。


「朱里は嘘つくのヘタだね。俺には話せないような事でもあったの?」


早苗さんは小さくため息をついて、返事に困って黙り込む私を少し強く引き寄せた。


「ん…?」


怪訝な顔をした早苗さんの指が、私の首の付け根に触れた。


私は咄嗟にそれを手で覆って隠そうとした。


早苗さんはその手を掴んで、私のシャツの襟をめくって首筋を見た。


そして、隠したつもりの首筋のキスマークに気付いた早苗さんは、私の肩を掴んだ。


「朱里…順平と何があった?」


「違う…。」


「だったら誰がこんな事…!」


早苗さんが声を荒げた時、後ろから乾いた笑い声が聞こえた。


「俺だよ。俺がやった。」


意地の悪い笑みを浮かべながら、順平が近付いて来る。


「めちゃくちゃにしてやったんだよ。もう二度と他の男のところに行けないように。もうやめてって泣き叫ぶほど一晩中抱いてやった。」


「やめて!でたらめ言わないで!!」


「ちゃんと証拠があるだろ?首にも、胸にも、オマエの身体中に。」


早苗さんは順平の胸ぐらを掴んで睨み付けた。


今にも殴りかかりそうな勢いだ。


「殴りたいの?殴りたきゃ殴れば?だけどこいつは俺のだ。どうしようが俺の勝手だ。絶対に誰にも渡さない。」


「朱里はものじゃない。傷付けていいわけないだろう!!」


「も…やめてよ…お願いだから…。早苗さんもやめて…。」


一触即発の事態にどうしていいかわからず、怖くて足がすくみ、涙が溢れた。


「早苗さん…。」


とにかく止めなきゃと、震える手で早苗さんの背中にしがみついた。


早苗さんは順平から手を離し、強い力で私を抱き寄せた。


「やっぱり夕べ朱里を順平の部屋に帰すんじゃなかった。朱里、うちにおいで。こんなやつと無理して一緒に暮らす必要なんてない。」


「離せよ。俺のだって言ってんだろ?朱里、こっち来い。」


順平が私の手を強く引っ張る。


こんなの私が好きだった順平じゃない。


順平はもう変わってしまったんだ。


「もうやだ…。順平おかしいよ…。夕べ順平はどっか行っちゃって、帰って来なかったじゃない。ホントの事は何も言わないで、なんで嘘なんかつくの?」


「嘘なんかじゃないだろ。あんなに好きだって言って抱き合ったじゃん。ずっと一緒にいようって。愛してるって言ったじゃん!!嘘ついたのは朱里だろ!!」


目の前にいる順平は、迷子になって泣いている男の子のようだった。


手を離してしまった母親を探し続けて、泣きながらもう離さないでと訴えかけているようだ。


「……朱里、どういう事?」


「早苗さん…。私にはまだ早苗さんに話していない事があります。でも…今は混乱していて、うまく伝えられる自信がありません。少しだけ時間を下さい。」


まっすぐに早苗さんの目を見た。


早苗さんはしばらく私の目をじっと見て、静かにうなずいた。


「気持ちが落ち着いたら…ちゃんと話してくれる?」


「ハイ…必ず話します。とりあえず今日は…自分の部屋に帰ります。」


「ホントに大丈夫?」


「大丈夫です。」


早苗さんはとても心配そうにしていたけれど、私は順平と一緒に部屋に帰った。


きちんと向き合うべき時が来たのだと、私は覚悟を決めた。


もう逃げるのはやめよう。


目の前にいる順平からも、現実からも。























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