恋は嘘と無情の種
部屋に戻ると、順平は私を抱きしめた。
その腕が小刻みに震えている。
「どこにでも行けなんて行ったけど…やっぱ朱里を誰にも渡したくない…。」
「順平…。私がいなくなってからの事、ちゃんと話して。私も話すから。」
あたたかいコーヒーをカップに注ぎ、テーブルに置いた。
二人でしばらく黙ってコーヒーを飲んだ後、先に口を開いたのは順平だった。
「あの時さ…朱里はなんで俺に黙っていなくなったの?」
「……不安だったの。」
「…不安?」
「順平は役者を目指してたでしょ。その夢が叶うのは何年先かわからないし…その時には私の手なんか届かないところに行っちゃうだろうし必要ないって言われるかも知れないって。」
「そんなふうに思ってたのか…。」
「一緒にいると幸せなはずなのに、つらくなったの。好きになるほどね。だから、もう終わりにしようと思ったんだ。順平は若かったけど、私の方が歳上だから…現実的に先の事が不安だった。」
「…結婚とか?」
「うん…。それだけじゃなくて…順平が突然いなくなっちゃうのはもっと怖かった。」
「病気の事?」
「そう…もし病気が再発したらって考えると怖くて…順平についていく覚悟が、私にはできなかった。順平の顔見たら離れられなくなると思ったから、舞台稽古で忙しいうちに黙って消えたの。」
私の話を黙って聞いていた順平が、コーヒーを飲んでため息をついた。
「そうか…。朱里は知らなくて当然だな。」
「何を?」
「俺はその稽古中に体調が悪くなって…もしかしたらと思って病院に行ったら、再発してたんだ。すぐ入院って事になって…でも良くなるどころかどんどん悪くなって…。今度こそもうダメかもって親が医者に言われたって。」
「そうだったの…?」
「ああもうダメかもって自分でも思ってさ…俺の事なんか忘れてくれてもいいから、最後にもう一度だけ朱里に会いたいって毎日思ってた。そしたら骨髄移植のドナーが見つかって…。」
「病気…治ったの…?」
「やっと元気になって退院して…真っ先に朱里に会いに行ったら、もう朱里はいなかった。劇団の人にも病気の事は話してなかったし、朱里は俺が入院してたの知らなくて、俺が急にいなくなったと思ったのかもとか…。」
「劇団は…?」
「やめたよ。俺は主役で舞台に立つのを朱里に見てもらいたかったから頑張ってたんだ。朱里がいなかったら意味ない。」
「そう…。」
一生懸命お芝居の稽古をしていた順平の姿を思い出す。
不安になるほど大好きだったあの姿はもう見られないんだと思うと、悲しい。
夢に向かって頑張っている順平が好きだった。
それなのに夢を追う順平に手が届かなくなりそうで不安になった。
だから私は、ずっと一緒にいてくれる人を求めて、順平と離れてまだ間もないうちに知り合った壮介と付き合い始めた。
「ねぇ…順平が私を見つけたのはいつ?私はどうしてた?」
「1年半くらい前。朱里の事、ずっと探して…やっと見つけた時には朱里はあいつと一緒に暮らしてた。朱里は俺と付き合ってる時からあいつとも付き合ってたんだろ?」
「え?」
「だから歳下で定職も金もなくて、将来も考えられない頼りない俺を捨てたんだって…。」
そこまで聞いて疑問を抱いた。
順平に会わないようにと、会社を辞めて順平の生活圏外に引っ越したのに、一体どうやって見つけたんだろう?
もちろん劇団の人たちにもそれを話した事はないし、やみくもに探して見つかるものなんだろうか?
順平を捨てた事に変わりはないかも知れないけれど、壮介と知り合ったのはその後だ。
なぜ順平はそう思ったんだろう?
「違うよ。順平と付き合ってる時は順平だけだったよ。壮介と知り合ったのは、順平と離れて新しい職場で勤め始めてから。」
「え?」
順平は首をかしげて何かを考えている。
「俺とはただの遊びで、他にもいっぱい男がいたんじゃなかったの?」
「はぁ?何それ?!」
「朱里がそんなつもりだったんなら、俺ももうどうでもいいやって見た目も変えて…女を取っ替え引っ替えして手当たり次第に遊んだ。もし朱里と顔合わせて声掛けられても、オマエなんか知らないって言ってやろうって思ってた。」
「遊びとか他にもいっぱい男がいたとか…そんな事あるわけないよ!!なんでそうなるわけ?!」
順平の中の私のイメージは最悪だ。
でも本当にそれを信じていたのだとしたら、順平のひどい態度や女癖の悪さにも納得する。
「バーで絡まれてたのを助けてくれたのは順平なんでしょ?」
「あの時は朱里酔ってたし何されても痛くもないだろ。…無理やりやっちゃおうかとも思ったけどマスターもいたからやめた。どうせなら意識ある時にしようと…。」
「そこでホントにやってたら鬼畜だよ…?」
何もされなくて良かった。
「でも朱里があいつの身代わり探しに事務所に来たのは偶然。仕返ししてやるチャンスだって思った。」
「だからあんな態度…?でも…壮介に親戚の前で謝るように言ってくれたのは順平でしょ?」
「朱里の計画をぶっ壊してやろうと思ったんだよ。ついでに言うと、あんなやつの身代わりすんのがイヤだった。」
「あんなやつ?」
「朱里を騙してた二股男だろ。」
それを言うなら順平だって…と思ったけれど、言わないでおこう。
「そうなんだよね…。完璧に騙されてた。壮介から聞いた話は全部嘘だったの。私と同棲してた2年間ずっと、私の友達と付き合ってたらしいんだ。」
「ああ…だからか。」
急に順平が納得したような顔をした。
「だからか、って…どういう事?」
「いや…。なんでもない。」
さっきから順平の言葉がやけに引っ掛かる。
順平は何を知っているんだろう?
冷めきったコーヒーを飲みながら、順平の言った言葉を思い出してみる。
有りもしない事を信じるには、必ず何かきっかけがあったはずだ。
それがなんなのかはわからないけれど、私は嘘をついていないし、順平も嘘をついているようには見えない。
私が黙り込んでいると、順平がテーブルの上で私の手を握った。
「それで朱里は…俺の事なんかもうどうでもいいって思ってる?」
どうでもいいとは思っていない。
だけど今は、どうしていいかわからないというのが本音だ。
昔のままで元に戻れるとは思えない。
「……ホントに好きだった。ずっと忘れた事なんてないよ。だけど…。」
「俺のところに戻って来て欲しい。もう朱里がいやがるような事はしない。浮気もしない。大事にする。だからもう一度、俺だけを見て。」
私はもう一度、順平とやり直せる?
順平といれば、あの頃みたいに幸せな気持ちになれるのかな?
ハッキリと答えられない。
「……少し考えさせて。いろんな事がありすぎて…気持ちの整理がつかない…。」
引っ込めようとした手を、順平は逃がさないとでも言うように強く握り直した。
「俺よりマスターが好き?」
真剣な目で見つめられ、私はうつむいた。
「……わからないよ…。」
「自分の気持ちなのにわからないの?」
「ごめん…。」
ずっと順平を忘れたくなくて、もう本気で誰も好きになったりはしないと思っていた。
もう会う事はないと思っていた順平が、目の前にいる。
好きなら何も迷う事なんてないはずなのに、私は順平の手を取る事を躊躇している。
自分の気持ちがわからない。
順平は立ち上がって私の隣に座り、私をギュッと抱きしめた。
「俺は今も朱里が好きだ。もういつ病気で倒れる心配もない。ずっと朱里のそばにいる。どうすればあの頃みたいに俺だけを見てくれる?こうすれば…あの頃と同じ気持ちになる?」
順平は私の顎を持ち上げて突然唇を塞いだ。
あの頃とは違う少し強引なキスに、順平の焦りを感じる。
私が顎を引いて唇を離すと、順平は私の頭を引き寄せて更に唇を貪った。
息をするのも忘れそうなほどの激しいキスで、順平は私を追い詰める。
あまりの息苦しさに耐えかねた私は握りしめた両手で順平の胸をドンドン叩いた。
やっと解放された唇から空気を吸い込み、手の甲で唇を押さえた。
「俺がキスしたいのは朱里だけなんだ。だから他の女にはしないし、させない。朱里も…俺にだけして欲しい。」
順平が必死で私を取り戻そうとしているのがわかった。
思い詰めたその目にたじろいでしまう。
「順平…私…。」
どうしていいかわからず、言葉にならない。
順平は、何も答えられない私を悲しそうに見つめた。
「また…俺を捨てて、他の男のところに行くつもり?」
鋭い刃物で斬りつけられたように、胸が激しく痛んだ。
私は私自身を守るために順平を捨てた。
その過去は変えられない。
自分の命が残りわずかだと悟った時に、順平はもう一度私に会いたいと思ってくれた。
いなくなった私をずっと探してくれていた。
順平を傷付けてしまったのは弱かった私。
何度も交わした約束をやぶってしまった罪を、私は償わなければいけない。
今なら何も恐れず、順平と一緒に同じ未来を目指す事ができるだろうか?
ずっと好きだった順平ともう一度一緒にいられるんだから、きっと幸せなはずだ。
二人ともあの頃とは違うけど、それでもきっとまた、昔みたいに…。
あの頃よりも幸せな気持ちでそばにいられるのなら…。
「…行かないよ…。順平と…一緒にいる…。」
無意識のうちに、そう言っていた。
「ホントに…?」
「…うん。」
「マスターの事は?」
「ちゃんと話して断るよ。マスターとは付き合ってたわけじゃないし…好きとか…そういうんじゃなかったから…。」
「じゃあ…俺の事、好き?」
「うん…好きだよ。」
順平は嬉しそうに笑って、包み込むように優しく私を抱きしめた。
「朱里…おかえり、やっと俺んとこ帰ってきてくれた…。もう絶対離さない。」
その夜私は、3年ぶりに順平に抱かれた。
優しいキスも、広くてあたたかい胸も、身体中に感じるすべては順平のはずなのに、どこか違和感を感じた。
あの頃の順平は、いつも宝物を扱うように優しく私の体に触れて、何度も好きだよと言いながら抱いてくれた。
誰だって3年も経つと、何かしら変わるのだろう。
離れている間、たくさんの女の子を手当たり次第に抱いた順平と、壮介に抱かれていた私。
あの頃とまったく同じなはずがない。
同じどころか、本当に順平なのかとふと思う。
何度も求められ激しく揺さぶられて、からっぽだった心と体を順平で満たされたはずなのに、なぜかまだ心のどこかにあいた穴が、埋め尽くされていないような気がした。
疲れきっているはずなのに眠れない。
眠っている順平の隣に体を横たえ、順平の寝顔を見ながら考えている。
昔は腕枕してくれたのにな。
腕枕をされて、順平の胸に頬をすり寄せて、甘い余韻に浸って眠るのが幸せだった。
順平はすぐ隣にいるのに、別人といるような、ひとりぼっちのような気がする。
これからまた一緒に過ごしていくうちに、その違和感はなくなるだろうか?
あの頃のように、順平が好きだと心から言えるだろうか?
明日、早苗さんに順平との事を話さなきゃ…。
目が覚めると、隣に順平の姿はなかった。
バイトに行ったのかな。
身支度を整えながら、夕べの事を思い出す。
早苗さんに順平の事を話すのは正直気が重い。
私の気持ちが早苗さんに向くまで待つと言ってくれたのに、それに応える事はできない。
きっと私の心は早苗さんに傾きかけていた。
完全に早苗さんを好きになっていない今ならまだ、なかった事にできるだろう。
順平を選んだのは私だ。
もう後戻りはできない。
いつものようにカフェのバイトを終えると、早苗さんが事務所から顔を出した。
気まずくて、息が苦しい。
「朱里…この後、時間ある?」
「ハイ…。」
着替えを済ませて事務所に行くと、場所を変えようと早苗さんが言った。
店から少し離れたカフェに入り、コーヒーをオーダーした。
少しの間、二人とも黙ってコーヒーを飲んだ。
話さなきゃと思うほど、言葉が出てこない。
「昨日あれから…順平にひどい事されなかった?」
早苗さんの顔を見られない。
私はうつむいたままうなずいた。
ひどい事はされていない。
けれど、私は…。
「順平と何があったのか、話してくれる?」
早苗さんがためらいがちに尋ねた。
早苗さんに隠しているわけにはいかない。
覚悟を決めて、正直に全部話そう。
「私…順平と付き合ってました。」
順平と付き合っていた事や、不安に耐えきれなくなり黙って順平の前から姿を消した事。
それから間もないうちに知り合った壮介と付き合い始めた事。
そして昨日順平から聞いた、私がいなくなってからの事を話した。
早苗さんは驚いていたけれど、何も言わず真剣に話を聞いてくれた。
これまでの順平との経緯をすべて話すと、早苗さんは私の顔をじっと見た。
「それで朱里は…どうするの?」
「……ごめんなさい…。」
私は早苗さんから目をそらし、自然とそう言っていた。
「順平が好き?」
「……ハイ…。」
「無理してない?」
無理なんてしていないと言いたいのに、これ以上何か話すと泣いてしまいそうで、ただ黙ってうなずいた。
「ホントは迷ってるだろ。朱里は嘘つくのヘタだから、なんにも言わなくてもわかるよ。」
見透かされてる…。
でもそれを認めるわけにはいかない。
「朱里が本当に順平の事が好きで、一緒にいて幸せなら俺がとやかく言う事じゃないと思ってる。でも、今の朱里は全然幸せそうには見えない。朱里の迷う理由が俺なら…黙って身を引くわけにはいかないよ。」
「迷ってなんかない…。もう、決めたんです。順平と一緒にいるって…。」
早苗さんは大きなため息をついた。
「俺はただ朱里の気持ちを大事にしたかったんだけどな…。こんな事なら大人ぶって待つなんて言うんじゃなかった。あのまま連れて帰れば良かったな。」
早苗さんはこんな時まで優しい。
これ以上一緒にいると、またその優しさに甘えてしまいそうになる。
「早苗さんと会うのはこれで終わりにします。申し訳ないんですけど…お店も…辞めさせて下さい…。」
私が頭を下げると、早苗さんはまた大きなため息をついた。
「……とりあえず…ここ出ようか。」
カフェを出ると、早苗さんは何も言わず私の手を引いて歩き出した。
いつもより強いその力に私は戸惑う。
「早苗さん…?」
「俺だって朱里が好きだ。ハイそうですかって簡単に引き下がれないよ。」
私は早苗さんに手を引かれ、見知らぬマンションに連れて行かれた。
「あの…ここは…?」
「俺の部屋。」
「えっ?!」
早苗さんは驚く私を抱き上げて靴を脱がせ、大きなソファーの上で私を強く抱きしめた。
「もっと早くこうしてれば良かった。」
「あっ…あの…早苗さん…私…。」
「前も言ったけど、俺は朱里が思ってるほど大人じゃないし余裕もない。もう大人ぶるのやめる。」
「えっ…。」
ソファーの上に押し倒され、唇を塞がれた。
早苗さんは強引なのに優しいキスを何度もくりかえし、私のブラウスのボタンをはずして、指先と唇で胸に触れた。
「…抵抗しないの?イヤだって言わないと、やめないよ。」
やっぱり大人は…早苗さんはずるい。
私が抵抗できないのをわかっているくせに。
こんなのダメだとわかっているのに、私は早苗さんの腕の中で抗う事も忘れ、それを受け入れた。
早苗さんは、夕べ順平に何度抱かれても埋らなかった私の心と体の空洞を、いっぱいに満たしてくれた。
早苗さんに抱かれながら、満たされたはずの心が痛んで、あとからあとから涙が溢れた。
私はまた順平を裏切ってしまった。
本当はわかっていた。
いつの間にか私は早苗さんの優しさに溺れ、順平との想い出よりも、早苗さんと一緒の未来を歩きたいと思っていた。
私は早苗さんにこうして欲しかったんだ。
何も考えられなくなるくらいに。
順平を忘れるのが怖くて必死で目をそらしていたのに、なぜ今頃になって気付いてしまったんだろう。
早苗さんと会うのはもうこれきりにしよう。
早苗さんは泣き続ける私を抱きしめながら、優しく髪を撫で、流れる涙を指先で拭って、濡れた頬に何度も口付けた。
「弱味につけこんで、泣かせてまで朱里を自分のものにしたいなんて…卑怯だな、俺は…。」
「早苗さん…。」
「朱里、順平と別れて俺のところにおいで。一緒に暮らそう。」
私は首を横に振った。
一緒にいると約束したのに、また順平を捨てる事はできない。
「ごめんなさい…。早苗さんとはもう…。」
「朱里はそれで幸せ?」
「……ハイ…。」
「…わかった。」
別れ際、早苗さんは私を抱きしめて、嘘つき、と耳元で呟いた。
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