思うに別れて泣き、思わぬに添うて愁う

あれから2週間。


早苗さんと会うのを避けるために店を辞めようと思ったけれど、店長に頼み込まれカフェでのバイトは続ける事になった。


バーでのバイトも続けて欲しいと言われたけれど、早苗さんと会うのがつらくて断った。


順平もバーのバイトを辞めてしまったので、新しいバイトの男性を雇ったらしい。


カフェでの仕事が終わる時間、たまに早苗さんが事務所に来ている時があるけれど、できるだけ顔を合わせないようにしている。


今はまだ早苗さんと会うのはつらい。


“嘘つき”と言った早苗さんの声が、あの日からずっと耳の奥で私を責める。



あんなに好きだった順平とまた恋人同士に戻れたのに、私の中の違和感は拭いきれない。


相変わらず順平はバイトで忙しいのか、朝早く出て行って、夜遅くまで帰らない。


なんのバイトをしているとか、どこで働いているとか、順平の事は今もよく知らない。


部屋も別々だし、一緒にいる時間も少ない。


順平が時々、眠っている私の体を求めて布団に潜り込んでくる以外は、以前とあまり変わらないように思う。


順平は私が寝ていても体を弄って起こし、割と強引にセックスをして、その後はさっさと自分の部屋に戻って寝る。


そんな時、この人は本当に順平なのかと思う。


昔はそんな事は絶対しなかったのに。


そこに愛情は感じられず、性欲を満たすためだけにそうされているようで、なんだか虚しい。



バーを辞めてから、夜のバイトを探して何度か面接に行き、やっとファミレスのキッチンで雇ってもらえる事になった。


夜の7時から閉店時間の2時までキッチンで調理の仕事をして、閉店作業を終えると、だいたい2時半頃に店を出る。


10日ほども経つと仕事にも職場の人たちにも随分慣れてきた。


ディナータイムのラッシュ時は目が回るような忙しさだけれど、それも慣れてくると楽しい。


仕事が終わって部屋に帰ると、順平は既に寝ている事が多い。


そんな日は順平とセックスをしなくて済むので少しホッとする。


いつの間にか、順平に求められる事が苦痛になっていると気付いた。


一緒に暮らしていてもほとんど顔を合わさず、たいした会話もしない。


そのうえ求められるのが体だけなんて、私は一体なんのために順平と一緒にいるんだろう?


順平は本当に私が好きなのかさえ疑わしい。


あんなに必死で私を取り戻そうとしていたのはなんだったんだろう?


順平はもう、優しかった昔の順平じゃない。


一緒にいれば昔みたいに幸せな気持ちになれるかもと思っていたけれど、私の心はもう冷えきってしまって、順平を選んだ事を後悔し始めている。


せめてもう少し、昔みたいに優しくしてくれたら、私もまた順平が好きだと心から言えるかも知れないのに。



それでも順平を選んだのは私。



今更早苗さんに甘えるわけにはいかない。




私がバーのバイトを辞めてから、あっという間に1ヶ月が過ぎた。


順平とは相変わらずだし、早苗さんとも会っていない。


カフェとファミレスのバイトだけで一日が過ぎて行く。


丸一日バイトが休みの日なんてないし、どちらかのバイトが休みでも、だいたいは掃除や洗濯を済ませて部屋でぼんやりしている。


順平がどこかに行こうと誘ってくれる事もないし、部屋でゆっくり二人で過ごす事もない。


壮介と暮らしている時もこんな感じだった。


…いや、壮介との方が一緒に過ごす時間は多かったし、会話もそれなりにしていたと思う。


そういえば、壮介と紗耶香の子供はもう生まれたのかな。


どうでもいいと言えばどうでもいいけど。





カフェのランチタイムのピークを過ぎて賄いを食べた後、新しいランチメニューの考案と試作をしたいから残ってくれないかと店長に言われた。


今日はファミレスのバイトが休みだし、時間ならいくらでもある。


ファミレスのバイトがない分、カフェで時給を稼いで帰ろう。



賄いを食べた後、店長と一緒に新しいメニューをいくつか考えた。


前のメニューにあった揚げ物のソースを変えたり、一度にたくさんできる煮込み料理や、新しいパスタのメニューを考えたり。


家で料理をしない分、カフェであれこれ考えるのは楽しい。


家で料理をしても、外で食事を済ませてくる順平は食べてくれないから、自分一人のためだけに作るのは簡単な物ばかりだ。


一緒に暮らしていても、手料理も食べてもらえないなんて寂しい。



新しいメニューに必要な、足りない食材を買いに行く事になった。


もうすぐ仕入れ業者が来るので、店長は店を空けられないそうだ。


店長からお金を預かり、裏口から外に出ようとドアを開けると、目の前に早苗さんがいた。


お互いに黙って顔を見合わせた後、私は目をそらして軽く頭を下げた。


「久しぶり。元気だった?」


久しぶりに聞く、早苗さんの優しい声。


私は顔を上げる事もできず、黙って小さくうなずいた。


「どこに行くの?買い物?」


「…ハイ…。」


うつむいたまま返事をするので精一杯だった。


「朱里…顔上げて。」


胸が苦しくて、早苗さんの顔が見られない。


私が首を横に振ると、早苗さんは小さく笑って私の顎をクイッと持ち上げた。


「ここ、ソースついてる。」


「あ…。」


指先で頬を拭われ、恥ずかしくて顔がカーッと熱くなる。


「ハイ、取れた。」


「すみません…。」


ソースは取れたはずなのに、早苗さんは私の顎に手を添えたまま、ジッと見つめている。


「あの…。」


その眼差しに耐えきれず、もう大丈夫だから離してと言おうとすると、早苗さんは私の頬に指を滑らせ、その指先で唇に触れた。


「そんな無防備な顔されると…キスしたくなる。」


「えっ…。」


早苗さんに抱かれ、何度もキスされたあの日の記憶が脳裏をかすめ、心臓が壊れそうなくらい大きな音をたてた。


早苗さんの顔がゆっくりと近付いてくる。


「ダメ…です…。」


そのまま流されてしまいたい気持ちを必死で抑えて、やっとの思いで声を絞り出した。


「イヤじゃないの?」


「……イヤ…」


イヤです、と言おうとした私の言葉を遮って、早苗さんは私を引き寄せ唇を塞いだ。


「んっ…!」


突然のキスに思わず声がもれた。


早苗さんの腕の中で、柔らかい唇を重ねられ、湿った舌先を絡められて、他の事はもう何も考えられなくなってしまう。


「…嘘つき。」


長いキスの後、早苗さんは私を抱きしめてポツリと呟いた。


「嘘じゃない…。」


「俺の事がイヤなら…順平といて幸せなら、俺の前でそんな顔しないだろ。」


早苗さんは意地悪だ。


私の気持ちを見透かして、ヘタな嘘もつかせてくれない。


「…離して下さい。買い物に行かないと…。」


「そうだったな…。」


早苗さんの手が離れると、さっきまでその手に触れられていた場所が、急激に早苗さんの温度を失っていく。


これ以上一緒にいると涙が溢れそうで、私は慌ててその場から逃げるように駆け出した。


「朱里、俺は待ってるから!!」


背中越しに早苗さんの声が聞こえた。




私は早苗さんが好きだ。


切なくて、苦しくて、泣きたくなるほど。





買い物を済ませてカフェに戻ると、店長は新作メニューの試作に必要な食材を並べて、玉ねぎのみじん切りをしていた。


玉ねぎ特有の匂いが、普段より敏感な私の涙腺を刺激して涙を誘う。


じんわりと涙がにじんで、何度か瞬きをした。


「おかえり、遅かったね。」


「すみません、ちょっと…。」


「気になる店でもあった?」


「…そんなとこです。」


買ってきた食材をビニール袋から取り出し、私も早速試作を始める。


私の考案した梅風味の和風ハンバーグソースを作る事にした。


「ハンバーグに梅風味って美味しいのかな?」


「どうでしょう。好みは別れるのかも…。ソースを選べるようにしたらどうですか?ハンバーグに合わなければ、チキンカツとかパスタとかサラダとか…女性はさっぱりした和風の洋食、割と好きだと思います。しそとか柚子なんかも好きですよね。」


「女性客多いから試してみる価値あるね。」


店長がハンバーグのタネを捏ねている間に、私はランチプレートに盛る水菜と大根のサラダを作る。


「サラダは青じそドレッシングとマヨネーズを合わせたものにしましょう。」


「いいね。」


焼けたハンバーグに梅風味ソースをかけ、その横にコロッケ、水菜と大根のサラダを盛る。


「こんな感じかな?」


「肝心の味の方はどうでしょうね。」


店長と二人で試食をしてみた。


「サラダはこれでいいかも。ソースはちょっと梅の味が強いかな。」


「そうですか?私はちょうどいいかと。」


「個人の好みもあるからな。明日の賄いでこれ作って。みんなにも聞いてみよう。」


「そうですね。わかりました。」


「オーナーにも試食してもらわないとね。朱里ちゃん、事務所に持って行ってくれる?」


「えっ…私がですか?」


さっきあんな事があったばかりなのに、どんな顔をすればいいのかと焦る。


「うん、オーナーお腹空かせて待ってるはずだから。俺はその間に次の試作の準備してるよ。よろしくね。」


「…わかりました。」


イヤとも言えず、仕方なくトレイに乗せた試作ランチを手に事務所に向かった。


事務所のドアの前で深呼吸をして、ドキドキしながらノックした。


「ハイ。」


ドア越しに早苗さんの声が聞こえた。


ゆっくりとドアが開く。


「あ…早速来てくれた。」


「えっ?」


「さっき、待ってるって言っただろ。」


「あ…。」


確かに早苗さんはそう言った。


ちょっと違うんじゃない?と、少しおかしくなって、思わず笑みがこぼれた。


「あの…新作ランチメニューの試作をしたので…。」


「うん、そこに置いてくれる?」


中に入ってテーブルの上にトレイを置いた。


そのまま事務所を出ようとすると、早苗さんに腕を掴まれ引き寄せられる。


「ちょっと待って。メニューの説明してよ。」


「え?あ…ハイ…。」


早苗さんに後ろから抱えられるようにしてソファーに座らされ、鼓動がどんどん速くなる。


「あの…この体勢はちょっと…。」


「ダメだった?」


「仕事中です…。」


「ああ、そうだった。」


早苗さんはイタズラっぽく笑いながら、私の耳元に唇を寄せた。


「仕事中じゃなかったら良かったかな?」


「そういう問題じゃ…。」


更にドキドキして、身体中が熱くなる。


きっと私、耳まで真っ赤だ。


熱くなった私の耳に柔らかい物が触れた。


「朱里、耳まで真っ赤。首も、顔も。」


早苗さんは私の耳から首筋にゆっくりと唇を這わせる。


「やっ…ダメ…早苗さん!」


慌てて身をよじると、早苗さんは少し笑って私の頬に軽く口付けた。


「ごめん、仕事中だったね。」


早苗さんは私から手を離して、向かいのソファーに座った。


私はホッとして、大きく息を吸って吐いた。


「じゃあ、メニューの説明して。」


「あ、ハイ…。このハンバーグソースは…。」


それからなんとかメニューの説明をして、早苗さんの感想と評価を聞いた。


「じゃあ…私はこれで。あとはゆっくり召し上がって下さい。」


ソファーから立ち上がってドアに向かおうとすると、早苗さんは私を見て優しく笑った。


「朱里の作った料理、毎日食べたいな。」


「え?」


「店の賄いじゃなくて…俺のためだけに朱里が作ってくれた料理、毎日食べたい。」


「…っ。し、失礼します!!」



急いでドアを開けて事務所を出た。


心臓がドキドキして、息が苦しい。


あれじゃまるでプロポーズだよ…。


急にあんな事言われるとは思わなかった。


そんな事、壮介は一緒に暮らしていても一度も言ってくれなかった。


順平だって今はそんな事言ってくれないし、私の作った料理を食べてもくれない。


だけど昔は順平も、私の作った料理を美味しいと言ってたくさん食べてくれた。


“朱里の作った料理は全部好き”って、いつも言ってくれた。


特に好きだったのは塩唐揚げだった。


アスパラとニンジンを牛肉で巻いて焼き肉のタレを絡めて焼いたのも好きだったっけ。



今度、順平が昔好きだった料理を作ってみようか。


昔みたいに優しく笑ってくれたら、私の迷いも断ち切れるのかも知れない。


そうすれば、こんなふうに早苗さんにドキドキしたりしなくなるはず。


順平以外の人を好きでいていいわけがない。


今の私は、壮介のした事を責められない。


このままじゃ順平の顔もまともに見られない。


早苗さんへの気持ちは捨てなくちゃ。



私は順平と一緒にいるって決めたんだ。




夕方になり、ようやく今日の仕事を終えて着替えを済ませた。


そろそろバーのお客さんがやって来る時間だ。


更衣室を出て帰ろうとすると、早苗さんが事務所から顔を出した。


「あ…いいところに女神が…。」


「…女神?」


「バイトくんが熱で休むんだって。暇な日なら俺一人でもなんとかなるんだけどさぁ…今日は団体の予約が一組入ってるんだ。朱里ちゃん、手伝ってもらえないかな?」


「えっ…。」


これ以上早苗さんと一緒にいたくない。


一緒にいると、私の中でどんどん早苗さんの存在が大きくなってしまう。


「店長じゃダメなんですか?」


「あー…あいつんちは奥さんが妊娠中でね。さっき、ちょっと体調が良くないって奥さんから電話があったから頼めなくて。朱里ちゃん、今日だけお願い!」


いつの間にか呼び方が“朱里ちゃん”だ。


店長が事務所の奥から私に手を合わせている。


仕方ないなぁ…。


「今日だけなら…。」


「ありがとう!給料ははずんどくよ。」


「じゃあ…制服、貸してください。」



制服を借りて、また更衣室に戻った。


久しぶりにバーの制服に袖を通しながら、今日だけ、今日だけ…と自分に言い聞かせる。


仕方ないと言いながら、私は早苗さんと少しでも長く一緒にいられる事を喜んでいる。


早苗さんへの気持ちはもう捨てようって思ったところなのに。


本当は捨てられないとわかっているから、できるだけ早苗さんとは一緒にいたくない。




……嘘つき。


ホントは一緒にいたいくせに。


また、早苗さんに見透かされそうで、怖い。




若い男女の6人組が、誰かの誕生パーティーだとかで随分盛り上がっている。


今日の主役にプレゼントを渡したり、一緒に写真を撮ったり、何度も乾杯して楽しそうだ。


お酒もたくさん出たし、料理のオーダーが多かったので、早苗さん一人だと大変だったに違いない。


その他の客もいつもより少し多かった。


少しは早苗さんの役に立てたかな。


余計な事を考えずに早苗さんのそばにいられたから、忙しくてホントに良かった。




2時前にやっと最後の客が帰り、看板の灯りを消した。


早苗さんと二人で閉店作業を終えて、店を出たのは2時半前だった。


「今日は助かったよ、ありがとう。」


「お役に立てて良かったです。」


「遅くなったし送るよ。」


一人で帰るより早苗さんと一緒の方が夜道は安全だけど…私の気持ちがもう限界だ。


「いえ…大丈夫です。」


「送るよ。なんかあったら大変だから。」


こんな時の早苗さんは有無を言わせない。


仕方ないので大人しく従うことにした。


早苗さんと二人で並んで歩くのは久しぶりだ。


なんだか歩くペースが遅いような…。


以前のように、早苗さんが私の手を握った。


「手は繋がなくていいです…。」


「また、ダメって言う?」


「…ダメです…。」


早苗さんは一度ギュッと私の手を握ってから、ゆっくりと手を離した。


それから二人で黙ったままゆっくりと歩いた。


いつも寄り道した公園を通り過ぎ、まっすぐマンションにたどり着いた。


マンションの前で立ち止まり、私は早苗さんに頭を下げた。


「ありがとうございました。」


「今日は朱里に会えて嬉しかった。」


早苗さんがポツリと呟いた。


「ずっと会いたかった。」


私は何も言えず、ただ黙ってその言葉を聞いていた。


ほんの少しの沈黙が流れた。


冷たい冬の夜風が吹き付け、私は乱れた髪を押さえて、早苗さんの顔を見ないようにもう一度頭を下げた。


「……おやすみなさい。」


「朱里…。」


早苗さんの手が、私を引き寄せ抱きしめた。


「帰したくない。」


「…ダメです…。私は…順平と一緒にいるって決めたんです…。だからもう…。」


涙が溢れそうになるのを必死で堪え、早苗さんの体を強く押し返した。


「おやすみなさい…マスター。…さよなら。」


「朱里!!」



急いで早苗さんに背を向け、エントランスに駆け込んだ。


エレベーターの中で、行き先ボタンも押さずに一人で泣いた。


早苗さんの事はもう忘れよう。


優しく抱きしめて頭を撫でてくれた事も、優しいキスも、忘れてしまおう。


これ以上、順平を悲しませる事はしたくない。


私は順平と、もうどこにも行かないと約束したんだから。























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