捨てる男在れば拾う神と悪魔のような男在り
なぜこういう事になってしまったんだろう。
私は今、昔の男が住んでいるという見知らぬマンションの玄関で、呆然と立ち尽くしている。
「そんなとこ突っ立ってねーで入れば?」
順平はこっちも向かずに、めんどくさそうにそう言った。
順平が事務所を出ようとした時、私は無意識のうちに、その背中にしがみついていた。
とにかく一人になるのが怖くて、恥も外聞もなく叫んだ。
「お願い、一人にしないで!!」
今思えば、なんて恥ずかしい言葉を吐いてしまったんだろう。
まるで去っていく恋人に必死ですがり付く女のようだ。
いくらオバケが怖いからって、いい歳した大人がみっともない。
そんな私を見て、順平は悪魔のように意地悪な笑みを浮かべた。
「あれ?もしかしてビビってんの?」
私がオバケ苦手な事、知ってるくせに。
「ビビってなんか…!!」
思わず言い返したものの、本当は怖くて怖くて仕方がなかった。
「じゃあ、いい加減離せよ。早く帰りたい。」
「うっ…。」
この手を離すと順平は帰ってしまう。
私はこの部屋で一人震えながら朝を待つんだ。
そう思うと、手を離す事ができなかった。
順平にしがみつく手に、更に力が入る。
順平はニヤニヤしながら、泣きそうになっている情けない私の顔を、楽しげに見ていた。
「やっぱビビってんじゃん。正直に“私はオバケが怖いです、助けて下さい”って言ってみな。そうすればなんとかしてやらなくもない。」
「え…。」
いい歳して、しかも昔自分が捨てた年下の男にそんな事言うのはカッコ悪過ぎる。
「言えねぇの?じゃ、俺帰るわ。」
しがみつく私を振り切って、順平は事務所を出ようとした。
その時私の中で、頑丈な糸のような物がバツンと激しく音をたてて切れた気がした。
「オバケ怖いです!!すっごく怖いの!!助けて下さい!!お願いだからここに一人にしないで!!」
順平は満足げにニンマリ笑った。
ああ。
終わった。
もしかしたら、オバケより順平の方が遥かに怖いかも知れない。
結局私は大きな荷物を持って、順平と一緒に事務所を出た。
順平はちっとも優しくない。
歩く速さを合わせてもくれない。
昔はあんなに優しかったのに。
重い荷物を持って必死で追い掛ける私の事を気にもとめない様子で、どんどん前を歩いた。
そんな調子で歩くこと、およそ10分。
ここに連れて来られ…いや、必死で順平を追い掛けてここにたどり着き、今に至る。
背に腹は替えられぬとはいえ、私は私の意思でついて来てしまった。
こうなったらもう開き直るしかない。
私は荷物を抱えてリビングに足を踏み入れた。
2LDKのその部屋は、殺風景で適当に散らかっていて、間違いなくそこで営まれている生活の匂いがした。
「鬱陶しいから、そこにボサッと突っ立ってんな。あっちの部屋使え。」
順平は私の方を見もしないで、その部屋を指差した。
部屋の中には何もなくがらんとしていて、暗闇だけが広がっている。
同居人を探していたという事は、前に別の同居人がここに住んでいたのだろう。
もしかして別れた彼女だったりして。
「絶対俺の部屋には入るな。キッチンは好きに使っていいけど、片付けだけはちゃんとしろ。あと、風呂はあっち。あんま好き勝手にゴチャゴチャ物増やすなよ。」
「うん…。あの…ここの家賃とか共益費はいくら?私は月いくら払えばいいかな…。」
私が尋ねると、順平はやっと私の方を見た。
「家賃12万、共益費7千円。とりあえず5万でいい。」
「えっ…でも…。」
「どうせ金ねぇんだろ?その代わり掃除とか洗濯とか、家事はオマエがやれ。」
「食事は?」
「朝は適当に買ってきて食うし、昼と晩はほとんど外で済ませるから、俺の分は作らなくていい。」
「わかった。」
なんだ、この不可思議なやり取りは。
だけど成り行きとはいえ一緒に暮らす事になったんだから、ルールは必要だ。
最初にきっちりしておかないと。
「あ…あと、男連れ込むなよ。そういう事は外でやれ。」
「つ、連れ込まないよ!!」
「どうだかな…。いくら寂しくても、俺の寝込み襲うなよ。」
「んなっ…!!」
襲うかー!!それはこっちの台詞だ!
順平はニヤリと笑って、シャツを脱ぎながら自分の部屋に入って行った。
悔しいけど、ここにしばらく厄介になる以上、順平に従うしかない。
しかも酔っていたとは言え、見知らぬ男に連れて行かれそうになっていたところを助けられたわけだから、何も言い返せない。
ここにいる間、順平にボロカスに言われるのだろう。
早くお金を貯めてここを出て行こう。
与えられた部屋の電気をつけて、荷物を運び込んだ。
そうだ、布団がない。
私はどうやって寝ればいいの?
固くて冷たい床に転がって、コートか何かを被って寝るしかないのか。
悲しすぎる。
厳しいな、現実は。
だからといって事務所に戻る勇気もない。
「オイ。」
引き戸の向こうで、順平が大声を上げている。
「ここ開けろ。」
何事かとドアを開けると、順平が布団を抱えて立っていた。
「仕方ねぇから貸してやる。汚すなよ。」
「いいの?」
「いいのも何も、今から布団買いには行けないだろ。要らねぇなら貸さねぇぞ。」
順平は布団を抱えて部屋に戻ろうとした。
「かっ、貸して下さい!!」
私は悪魔に支配された子羊か。
素直に従う私の態度に、順平は満足そうだ。
「わかってきたじゃん。」
部屋の隅に布団を運び入れると、順平はさっさと部屋に戻って行った。
頼んでもいないのに、順平が布団を貸してくれるなんて思ってもみなかった。
それは純粋な優しさなのか?
まさか後で何か、無茶な要求とか…。
有り得ないとは言い切れないけど、順平のおかげで今夜はあたたかい布団で安心して眠れる。
とりあえず今日は順平のシャンプーやボディーソープを借りてシャワーを済ませた。
パジャマに着替えて布団に入り、目を閉じる。
明日、必要な物を買いに行こう。
残りの荷物も取りに行かなくちゃ。
派遣会社に電話して仕事を紹介してもらわなくちゃ。
それから…。
明日こそ“壮介との結婚を延期します”と、両親や親戚、友人に報告しなくちゃ。
…嘘だけど。
ぐっすりと眠り、気持ちよく目が覚めた。
身支度を済ませ出掛けようとすると、リビングのテーブルの上に走り書きのメモと鍵が置いてあった。
“戸締まり忘れるな。絶対なくすなよ。”
なるほど、この部屋の合鍵だ。
合鍵を渡されたとは言え、そこにまったく色気はない。
私も荷物を運び出したら、合鍵返すのを忘れないようにしなきゃ。
それが済めば私は、壮介と2年間一緒に暮らしたあの部屋に、二度と戻る事はない。
壮介だって同じだ。
彼女との新居を見つけたら、嬉々としてあの部屋を出て行くんだろう。
私との日々などなかった事にして。
マスターの店に行って、モーニングでも食べながら今日の計画を立てる事にした。
あの店はマスターのものだけど、カフェの時間帯はマスターの弟が店を任されているそうだ。
私は大好きなこのカフェのモーニングの玉子サンドにかぶり付く。
うん、やっぱり美味しい。
よく考えたら、壮介に別の女の存在を知らされ一方的に別れを告げられたのは、たった3日前の事だ。
結婚式の直前に捨てられ、部屋を追い出されたと言うのに、どうして私はこんなにも平然としていられるんだろう。
嘆き悲しんで命を絶とうとしたりしないし、泣いてすがったりもしない。
いつものように朝が来て、当たり前のようにお腹が空いていて、大好きな玉子サンドを頬張っている。
こんな状況下でも、私は生きてる。
この先ずっと、壮介と過ごした3年間も、突然結婚を破談にされた事実も、私の中から消える事はない。
だから私は少しだけ足掻いてみる。
壮介に別の女がいて捨てられたのではなく、私が捨てたと、事実をねじ曲げてみようと思う。
それくらいの嘘をついたって、きっと誰も咎めない。
壮介の罪の方が、きっと重いに決まってる。
この先の人生を生きていくのは私。
誰にも邪魔なんかさせない。
私はカフェの片隅で、カフェラテのおかわりを飲みながらぼんやりとしていた。
カップを持つ手が少し震えている。
とうとう私は、この手で舟を漕ぎ出したのだ。
嘘という名のいつ沈むかも知れない泥舟で、私は世間という荒れた大海原を進む。
どこを目指し、どこへたどり着こうとしているのかもわからない。
ひとつだけ言えるのは、今よりも心穏やかに暮らせる静かな場所に落ち着けたら、この航海は間違いではないという事だ。
モーニングを食べて腹ごしらえした後、私は母親に電話をした。
娘の突然の結婚延期に驚いていたが、壮介の父親が大病を患い、今はこれが一番の選択だと二人で決めたと言うと、母親は不服そうではあったが、そういう事なら仕方ないと、その嘘をあっさり信じた。
そしてその代わりと言ってはなんだけれど、挙式を予定していた日に親戚を招き、食事会を開いて挨拶とお詫びだけでもしようと思う、と話した。
親戚の目を気にする母親は、一応それで面目が保たれると思ったのか、後の事は二人に任せると言った。
母親はどこまでも世間体を気にする。
そんな母親に育てられた私も同じ穴のムジナ。
人からどう思われているのか、どんな目で見られているのか、気になって仕方がない。
だから私は、壮介みたいに周りの目も気にせず自分勝手に幸せを追い求める事ができない。
それから私は食事会の会場に都合のいい店を調べ、挙式日だった日に人数分の予約をした。
料理も安っぽいコースではなく、真ん中よりひとつ上のランクの、それなりの物を選んだ。
痛い出費。
壮介に払ってもらいたいくらいだ。
仕方がないからカードで分割払いにした。
そして招待していた親戚に電話をして、その都度母親に話したのと同じ事を何度も話した。
惨めだった。
だけど“婚約者に捨てられたから結婚話はなくなりました”と言うよりはましだと思う。
ようやくすべての親戚に電話を終えた時には、お昼を過ぎていた。
道理で賑やかなはずだ。
私もランチを注文しようかと思ったけれど、テーブルの下でコソッと財布の中を覗き、とりあえずカフェラテのおかわりを注文した。
私は震える手でカップを持って、カフェラテを飲む。
思っていたより現実は厳しい。
親戚はみんな何か言いたげだった。
だけどそれを口には出さず、私や壮介の父親の心配をしているふりをした。
“結婚を延期するなんて言って、本当は別れるから、このままなかった事にするつもりじゃないの?”
うわべだけの優しい言葉の裏で、そんな冷ややかな言葉が聞こえた気がした。
それは私の心にある後ろめたさから来る物なのかも知れない。
こんな事で怯んでどうする。
絶対にこの嘘をつき通すって決めたんだ。
もっと強い心で、毅然としていなくちゃ。
責めるなら壮介を責めて。
私は何も悪くないんだから。
カフェを出た私は、生活に必要な最低限の物だけを買って、順平のマンションに戻った。
とてもじゃないけど、布団を買う余裕はなかった。
順平にお願いして、しばらくの間貸してもらうしかない。
カフェを出る前に派遣会社に電話してみたけれど、私の条件に合う職種の仕事は、今は紹介してあげられる会社がないと言われた。
とりあえず営業の人が仕事を見つけてくるまで待つしかないようだ。
だけどぼんやり待っているわけにもいかない。
なんでもいいから仕事を探さなくちゃ。
時給の高い仕事を求めて、シャンプーなどを買ったドラッグストアで見つけて持ち帰った、無料のアルバイト情報誌のページをめくる。
できれば交通費のかからない近場がいい。
深夜の飲食店とか、閉店後の大型スーパーの清掃とか、早朝のスーパーの品出しとか…。
結構な肉体労働ばかりだ。
体力的にもつかな、とも思うけど、やらなきゃどうにもならない。
どこから電話していこうかとページをめくった時、いつものカフェの名前を見つけた。
カフェだけでなくバーのアルバイトも募集している。
後光が差して見える!!
私は慌ててスマホを手に取り、早速電話を掛けた。
その晩私は、マスターのバーのキッチンに立っていた。
アルバイトの応募の電話をした時、応対したのが運良くマスターだった。
事情を説明してアルバイトさせて下さいと懇願する私を、マスターは快く雇ってくれた。
最初から朱里ちゃんに頼もうと思ってんだ、とマスターは言っていた。
早速今夜から頼むよと言われ、指定された時間にバーに足を運んだ。
仕事の内容や調理器具と食器類の場所、メニューの説明などをしてもらい、マスターに言われた通り実際に料理を作ってみる。
こういう店で働くのは初めてだけど、ずっと家事をしていたから料理も洗い物もまったく苦にはならない。
マスターの弟だというカフェの店長に、私の作ったオムライスを賄いで出した。
店のオーナーでもあるマスターが店長に、私をカフェでも雇うと言ってくれたおかげで、どうにか昼の仕事も確保する事ができた。
カフェのキッチンの人手が足りないそうで、私はキッチンで調理を担当する事になった。
おまけに昼も夜も、賄いが付くそうだ。
その賄いは私が作る事になるんだけど、そんなのお安い御用だ。
料理には少し自信がある。
あっという間に、しかもこんなに条件の良い仕事が決まるなんて、なんだか信じられない。
捨てる神在れば拾う神在りって、この事だ。
とは言え私を捨てたのは神なんかではなく、浮気した挙げ句彼女を孕ませた壮介だったけど。
「あ゛ぁ?!」
8時前、バーのキッチンでオレンジを切っていると、後ろで妙な声がした。
振り返るとそこには、この上なくイヤそうな顔をした順平がいた。
「なんでオマエがいるんだよ?!」
「なんでって…。」
私が答えようとすると、カウンターからマスターが顔をのぞかせた。
「今日からバイトに来てもらう事になったんだよ。カフェのキッチンにも入ってもらう。」
「はぁっ?!なんでそうなるわけ?」
マスターは不服そうな順平に向かって、ニッコリと笑った。
「オーナーの俺が決めた。文句ある?」
笑ってるけど…目が笑ってない…。
順平は目をそらして、小さく舌打ちをした。
「…ねぇよ!!」
マスターって一体…?
逆らうと実はものすごく怖いとか…?
「朱里ちゃんが気にする事はないよ。朱里ちゃんをバイトに選んだのは、オーナーの俺だからね。」
「ありがとうございます…。」
「アイツ口は悪いけど、根っからの悪いやつではないから、仲良くしてやって。」
「ハイ。」
とは言ったものの、順平は私と仲良くなんてしたくないだろう。
仕事中、順平は私とは必要な事以外は話さず、目も合わせようとしなかった。
その夜は1時半頃に最後の客を送り出し閉店になった。
「順平、朱里ちゃんに閉店作業教えて。」
「なんで俺が…。」
順平は小声でブツブツ文句を言いながらも、閉店作業の仕方を教えてくれた。
…かなりめんどくさそうではあったけど。
閉店作業が終わり、3人で店出た。
仕事が終わっても、帰る家まで同じ。
順平は仏頂面で足早に家路を急ぐ。
私は小走りで順平を追い掛けた。
「ちょっと待ってよ。歩くの速すぎる。」
「なんで俺が待たなきゃいけないんだよ。」
「なんでって…。」
同じ家に帰るんだからと言いかけて、やめる。
「やっぱいい。私は私のペースで歩くから。」
「朝にならないように気を付けるんだな。」
口を開けば憎まれ口ばかり。
…憎まれてるんだな、私。
順平は昔の事は何一つ話そうとしないけど、きっとそれでいいんだ。
今更、昔の話をしたってなんにもならない。
懐かしさで昔の恋愛感情とか思い出して、勘違いして妙な関係になっても困る。
私たちの間には、少し距離があるくらいがちょうどいいのかも知れない。
前を向いてどんどん進む順平は、もう随分先の方を歩いている。
順平を追う事をやめた私は、自分のペースで歩く。
引き離した私を振り返りもしない。
順平はいつだってそうだった。
まっすぐ夢を追い掛けて、劇団の活動に夢中になると、私はいつもほったらかし。
何週間も放っておいて、舞台が終わると悪びれもせず当たり前のように私に会いに来た。
順平の夢も、そのために努力していた事も知っていたから、順平を責める事ができなかった。
少しだけでいいから私を安心させて欲しかったのに、順平は私の気持ちになんか気付いてくれなかった。
順平の夢が叶う頃には、もう私なんか必要ないというだろう。
もし夢をあきらめる日が来たら、私は順平になんと言えばいいのだろう。
順平には言わなかったけれど、私にだって夢はあった。
でもそれは順平とはきっと叶わない夢だと思ったから、手遅れになる前に、私は順平の前から消えたんだ。
舞台を控え劇団の活動に夢中になっていた順平は、私がいなくなった事になんて、しばらく気付かなかっただろうな。
気付いたところで、順平が髪を振り乱し必死になって探してくれたりはしなかったのだろう。
今となっては昔の話。
順平の後ろ姿はもう、見失いそうなほど小さくなっている。
私は明日の朝食を買おうと、通り掛かったコンビニに立ち寄った。
牛乳とパンでも買って帰ろう。
安いバターロールと牛乳を買ってコンビニを出ると、店の前に順平がいた。
さっきあんなに遠くにいたはずなのに、どうして戻って来たんだろう?
「買い物?」
「…ああ。」
コンビニに入った順平は、手にした買い物かごにパンやペットボトル入りのコーヒーなどを適当に放り込む。
なんだ。
明日の朝食を買い忘れて戻って来たんだな。
やっぱり順平は順平だ。
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