略奪で得た幸せは格別に甘い蜜の味?
食事会の日から2週間が過ぎた。
あれから順平とは家の中でもほとんど顔を合わさず、必要以上の事は話さないし、バーで仕事をしている時も、目を合わせようともしない。
突然キスしたりもしない。
元に戻ったと言えば元に戻ったんだと思う。
ほんの少し縮まっていた二人の距離を、お互いに引き離そうとしている気がする。
サクラの役目も終わったし、今はただのバイト仲間で、同居人。
いつかまた離れる日が来るんだから、深入りしないのが一番だ。
相変わらず恵梨奈は順平の事を私の彼氏だと勘違いしたままだけど、新しい彼氏とラブラブで順平の事なんかすっかり忘れているから都合がいい。
面倒だからこのまま触れないでおこう。
今日はカフェのバイトが休み。
家事は済んだし、夕方まで時間もある。
昨日給料が入ったから、どこかでランチを食べて、買い物にでもいこうかな。
洗面所の鏡の前で身支度を整えていると、スマホの着信音が鳴った。
画面に写る名前を確認して、私は慌ててスマホを手に取る。
「志穂!!」
思いのほか大きな声だったらしく、電話の向こうで志穂が大笑いしている。
「久しぶりー、元気?」
「まあまあかな。もう戻ってるの?」
「先週戻って来た。これから会わない?」
「会いたい!!」
駅前のカフェで待ち合わせて、久しぶりに志穂と会った。
ランチを食べながら志穂の仕事の話を聞いて、食後のコーヒーを飲みながら、話は私の近況に移った。
志穂はコーヒーを一口飲んで、カップをソーサーの上に置いた。
「ごめんね、結婚式に出席できなくて。」
「ああ、うん。その事なんだけど…。」
志穂にはまだ壮介との事は話していない。
黙っておくわけにもいかないので、壮介との結婚が破談になった理由を話した。
志穂は何度か壮介に会った事があるので、かなり驚いたようだ。
取り立てて目立つわけでも特別男前でもない、平凡でどこにでもいそうな、あの壮介が?!と。
「まぁ、あれだね。結婚する前にわかって良かったんじゃない?」
「そう…なのかな…。」
「うん、結婚してから隠し子発覚!なんて事になるより絶対いいよ。」
「志穂が私の立場だったらどうしてた?」
「ん?とりあえず、相手の女を呼ぶね。それから二人並べて土下座させる。もちろん慰謝料も請求する。」
なかなか志穂らしい答えだ。
もしその場に志穂がいたら、きっと私の代わりにそうしていただろう。
「朱里はその女に会わなかったの?」
「会ったけど…。会ったと言うか、壮介に別れてくれって言われた次の日に、マンションに帰ったらいたの。壮介、デレデレしながらその女と一緒に料理なんかしてた。新しい部屋が見つかるまでここで一緒に暮らすから、部屋が決まったら早く出て行けって私に言ったんだよ。」
「最低ね…。私だったらキレて掴み掛かってるわ。」
やっぱり。
志穂がいたら大変な事になっていただろうな。
想像すると少し気持ちいいかも。
「ホントに壮介のやつ、一発くらい殴ってやれば良かったかな。」
私が笑いながらそう言うと、志穂は不機嫌そうに眉間にシワを寄せた。
「それで朱里はそのまま泣き寝入りなの?」
「泣き寝入り…と言えばそうなのかも知れないけど…下らない事で争うの面倒だったから。」
「下らなくないでしょ?」
「うーん…。どうかな。」
私は志穂に、壮介との結婚が破談になった事を両親や親戚に隠し、偽壮介を用意して嘘をつこうとした事を話した。
志穂は私の話を聞きながら、時々首をかしげ険しい顔をした。
「朱里、その考え方おかしいよ。朱里には何も非はないのに、なんで嘘ついてまでそうしようと思ったの?」
「そうかもね。でもね…“あの子は結婚式の直前に男に逃げられたんだよ”って陰で言われるの、私には耐えられなかったんだ。だから私は自分を守ろうとしたの。壮介は私のそういう、世間体を気にしすぎるところがイヤだったみたいよ。」
自分で改めて話してみると、私ってバカだなぁと苦笑いがこぼれる。
「それで…結果的にどうなったの?」
「偽壮介のおかげで両親や親戚に嘘をつかずに済んで、丸く収まった。」
「ん…?どういう事?」
志穂はさっぱりわけがわからないと言いたげな顔をしている。
私は食事会の日にあった出来事を話した。
「結果的には二人で幸せにはなれなかったけどね。別れてようやく、壮介とわかり合えた気がするよ。」
「別れてからわかり合えてもねぇ。それにしても…家族に近いってのはどうよ。」
「まぁ…私も同じような感じだったんだと思うんだよね。壮介に別れてくれって言われた時、理由聞くより、この時期になって何言ってるんだって事しか頭になかった。」
「ふーん…。無駄な3年間だったね。」
「そうとも言えるけど…それだけじゃなかったかも知れない。誰が相手でも、あの時は同じような感情しか持てなかったかも。」
順平の元から離れたばかりだった私は一人で立っていられるほど強くなかったから、きっと居場所を求めていたんだと思う。
だから壮介がちょうど良かった。
志穂はコーヒーを飲みながら私の顔を見た。
カップをソーサーに置く音がカチャリと響く。
「…順平くんの事、まだ引きずってる?」
驚いたな。
志穂、覚えてるんだ。
「どうだろう。引きずってる…のかな?」
「別れるって決めたのは朱里でしょ?」
私は志穂に、順平と別れる決意をした理由を半分しか話していない。
「うん、そうだよ。好きすぎてね。」
「それも私にはわからないけど。」
志穂にとって私の考えは、きっと理解できない事ばかりなんだろうな。
それから少しして、ケーキの美味しい店に行こうと志穂が言い出し、その店に移動してケーキセットをオーダーした。
志穂は最近、この店のニューヨークチーズケーキが大のお気に入りなんだそうだ。
志穂がそこまで言うならと、私も同じものを頼んだ。
濃厚なチーズの風味が口いっぱいに広がる。
甘くて美味しいものを食べると、ほんの少し幸せな気分になれるから不思議だ。
夢中になってケーキを食べた後、コーヒーを飲みながら、気になっていた事を志穂に聞いてみた。
「最近、紗耶香と連絡取れてる?」
「たまーに電話とかメールとかするよ。」
「え?そうなの?」
志穂とは連絡を取っているのに、紗耶香はなぜ私とは連絡を取らないんだろう?
私、紗耶香に嫌われてるのかなぁ…。
「そう言えば少し前に電話で話したよ。」
「紗耶香、元気だった?」
「結婚したってよ。子供ができたって。」
「えっ?!」
紗耶香からは結婚どころか恋人がいるって話も聞いてないけど…。
「もしかして志穂は、紗耶香から恋人がいるとか聞いてたの?」
「うん。朱里は聞いてなかったの?」
「聞いてない…って言うか、最近ずっと電話しても繋がらないし、メールしても返信ないし、全然連絡取れなかったよ。」
「そうなの?朱里が会社辞めて少ししてからかなぁ。たまに紗耶香の恋愛相談に乗ったりしてたんだ。」
なんか疎外感…。
確かに私は一番先に会社辞めて離れたけど…。
私はヘコみながらコーヒーをすする。
「ここだけの話、紗耶香ってね…大人しそうに見えて、結構怖いよ。」
志穂は小声でそう言った。
「怖いって…どういう事?」
「略奪だよ。友達の彼氏奪ったんだってさ。」
「略奪…?紗耶香が?」
「彼氏は友達とも紗耶香とも…まぁ、二股ってやつ?紗耶香、彼氏の子を妊娠しても彼氏にはすぐに言わないで、中絶できない時期になってから言ったらしいよ。」
「ええっ?!」
おっとりしていて、いつも穏やかに笑っていた紗耶香に、そんな恐ろしい一面があったとは!
人間って見掛けじゃわからないもんだな。
紗耶香に恋人を奪われた友達が、あまりにも気の毒過ぎる。
似たような話ってあるもんだと、その友達に変な親近感を覚えた。
「なんか…紗耶香のイメージ変わったよ…。」
「だよね。さすがの私もドン引きした。女の執念って言うか…。その友達が彼氏と付き合う前から、ずっと好きだったらしいから。」
「ふーん…。」
日が傾いて、窓の外が暗くなってきた。
オフィス街は仕事を終えた人たちの姿が目立ち始める。
カフェの壁に掛けられたレトロな時計の針は、5時15分を少し過ぎたところを指している。
「もうそろそろ行こうかな。6時からバイトなんだ。」
「なんのバイトしてんの?」
「昼も夜もキッチンで調理してるよ。その店、昼はカフェなんだけど、夜はバーになるの。」
「へぇ。朱里、料理好きだもんね。行ってみたいな。今度場所教えて。」
「うん。」
席を立ってレジに向かう。
志穂がバッグから財布を出して振り返った。
「ここは出しとく。」
「えっ?私、出すよ?」
「その代わり、今度久しぶりに朱里の手料理食べさせて。」
もしかして志穂なりに慰めてくれてるのかな?
ここは素直にその気持ちを受け取っておこう。
「そんなんでいいの?じゃあ、お言葉に甘えてご馳走になります。」
会計が済んで、店の外に出ようと通りに面したドアの方を向いた時。
信じられない光景が私の目に飛び込んできた。
見慣れたスーツ姿の横に、お腹の大きな女性の姿。
「壮介…と……紗耶香…?」
幸せそうに笑って、手を繋いで歩く壮介と紗耶香。
「どういう事…?壮介の相手…あの時会った人と違う…?」
呆然とその姿を見送る私の肩を、志穂が強く揺すった。
「朱里、これどういう事?!」
「私にもわからないよ…。」
「もしかして…紗耶香の言ってた友達って、朱里だったって事…?」
「………。」
混乱する頭の中でかき集めた情報が、パズルのピースのようにカチカチと音をたてて繋がっていく。
ああ、そうなんだ。
今目の前で見たものがすべてを物語っている。
私は、親友だと思っていた紗耶香に、婚約者を奪われた。
それが動かざる真実だ。
私はうつむいて唇を噛みしめた。
志穂は心配そうに私の背中に手を添えた。
「朱里…大丈夫?」
「……うん。今更何言ったって、どうにもならないしね…。」
「あのさ…もうちょっとだけ時間いいかな?」
「うん…。」
「じゃあ…とりあえず、ここ出ようか。」
店を出て広場のベンチに座ると、志穂は神妙な面持ちで私の方を見た。
「こんな時に酷かも知れないけど…紗耶香から前に聞いてた事、全部話すね。勝手に話すのもどうかと思ったから詳しく話さなかったけど、朱里にはそれを知る権利があると思うから。」
志穂は紗耶香から聞いていた話を、順を追って話してくれた。
紗耶香には大学時代から好きだった人がいて、ひとつ歳上のその人とは特に親しくもなく、ほんの顔見知り程度の関係だったらしい。
その人が大学を卒業してからは顔を合わせる機会がなかったが、会社に勤め始めてから、仕事で何度か訪れた取引先で、その人と再会したそうだ。
しかし皮肉な事に、前から好きだったその人が紗耶香の友達と偶然知り合い付き合い始めた。
友達の彼氏になったとわかっているけれど、どうしてもその人をあきらめられないと紗耶香は言っていたらしい。
そしてしばらくはそう言っていた紗耶香が、ある時、行動に出た。
彼の仕事が終わる時間を見計らって、仕事と見せ掛けて取引先でもある彼の勤め先を何度か訪れたのだと言う。
彼も紗耶香の事が気になっていたようで、深い仲になるのに時間はかからなかった。
それからも紗耶香は友達の目を盗んで彼と付き合っていたのだが、彼が友達と結婚する事になったから別れようと言い出したそうだ。
紗耶香はその時、既に妊娠していたのだが、確実に彼をモノにするために隠していたらしい。
一度は身を引いたと見せかけて、紗耶香は中絶が不可能な時期になってから、彼に妊娠の事実を伝えたと言う。
志穂はその話を紗耶香から聞いていた時は、その友達が私で、彼が壮介だとは思っていなかったと言った。
さっきのお店の窓から、壮介とお腹の大きな紗耶香が手を繋いで楽しそうに歩いているのを見て初めて、“紗耶香は朱里から壮介さんを奪い取ったんだ”と思ったそうだ。
「壮介さん、朱里との結婚が決まってすぐに彼女と付き合い出して、挙式予定日の直前に妊娠がわかったって言ったよね?」
「そう。1週間前に別れてくれって。その3日前に妊娠がわかったから式場はキャンセルしたって聞いた。」
確かに壮介はそう言っていた。
「紗耶香が彼と付き合い始めたの…朱里と壮介さんが同棲始めてすぐの頃だよ。」
「そんなに…?私、壮介に別の人がいたって、2年も気付かなかったの…?」
壮介は私と一緒に暮らしていながら、2年もの間、紗耶香とも付き合って、何食わぬ顔をし続けていたんだ。
「それに…妊娠がわかってすぐにあんなにお腹が大きいわけないよ。よく十月十日って言うじゃない?でも実際は妊娠がわかってから出産まで、だいたい8ヶ月くらい。わかる?」
「うん。同じ職場にいた人も、夏に妊娠がわかって、確か春先には出産してた。」
「紗耶香…来月出産だって…。」
私と壮介が別れてから、まだ1ヶ月も経っていない。
道理で私の引っ越しを急かしたはずだ。
「子供が生まれる前に、私を完全に整理したかったんだね、壮介は…。」
「それにね、朱里…。私が紗耶香から結婚したって聞いたの…もう3ヶ月も前だよ。」
「……え?」
寝耳に水とはまさにこの事だ。
私はまだ散らかった頭の中で、志穂から聞いた話を反芻してうなだれた。
結局、壮介の話は嘘だったんだと今更ショックを受けた。
行き着いた結論は、壮介は私と一緒に暮らしていた2年間ずっと紗耶香と付き合っていただけでなく、私と別れる2ヶ月前には既に紗耶香と入籍までしていたと言う衝撃の事実。
私は一体、壮介のなんだったんだろう?
今となってはどうでもいい話かも知れない。
部屋で一度だけ会った“みいな”とか言う女はなんだったの?
私に嘘をついて、偽嫁を用意して芝居を打ってまで、紗耶香と自分を守りたかったんだな、壮介は。
ああ、それは私も同じか。
私も順平を偽壮介に仕立て上げようとしたんだから。
だけどやっぱり、恋人と友達にずっと裏切られていたんだと思うとショックだった。
男女の仲もどうなるかわからないけど、女の友情も脆いものだ。
道理で紗耶香と連絡が取れなかったわけだよ。
紗耶香は私の事を友達なんて思っていなかったんだろう。
親友だと思ってたのに。
もう文句を言う気力もない。
今更何を言ったところで時間が戻るわけでも、私と壮介の仲が元通りになるわけでもない。
もちろん、私と紗耶香も友達には戻れない。
私が何も聞かなかった事にしておけば、すべてが丸く収まるのかな。
こんな真実なら知りたくなかった。
壮介に別れようと言われてから、なんで私がこんな目に遭うのかと思ってたけど、奪った側の気持ちを考えた事はなかった。
壮介に選ばれた紗耶香は、どんな事を考えていただろう?
私という婚約者のいた壮介を自分だけのものにできて、紗耶香はきっと幸せだと思ってるんだよね。
他人を不幸にして手に入れた幸せは、どんな味がするんだろう?
人の不幸は蜜の味って言うくらいだから、やっぱりその甘さは格別なのかな。
苦い汁を吸わされた私には、どんなに考えてもわからない。
誰かを傷付けてまで幸せになりたいとは思わない、と思ったけれど。
ごく普通の恋愛をして、ごく普通の結婚をしたくて、いつ消えてしまうかわからない順平との恋愛に終止符を打ったのは私。
何も言わずに急にいなくなった私を、順平はどう思っていたんだろう?
まっすぐに愛してくれた順平から目をそむけて逃げ出した私は、きっと順平を傷付けた。
そうしてまで別の幸せを求めた私も、同じかも知れない。
そこに確かな愛情がなかったからなのか、見せ掛けだけの幸せは、すぐにメッキが剥がれ落ちて、ちっとも甘くなんかなかったけれど。
こう言うの、何て言うんだっけ?
都合の悪い事やつらい事は、全部忘れてしまえたらいいのに。
そうすればきっと、私の中には順平と過ごした楽しかった頃の記憶しか残らない。
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