己の欲せざるキスは人に施す勿れ

それから順平は何も言わずに車を運転して、部屋に荷物を運ぶのを手伝ってくれた。


荷物を運び終えて、私は大きく息をつく。


これで壮介とは、完全に終わったんだな。


順平は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、ソファーに座って水を飲んだ。


「あの…ありがとね。」


「ん?ああ。」


「すごく助かった。」


「なんだよ。珍しく素直じゃん。」


順平は少し意地悪く笑った。


「オマエ、男見る目ないな。」


「そう?…だね。」


確かに順平の言う通りだ。


嘘だって事はわかってるけど、順平が壮介の目の前で言ってくれた言葉は、正直嬉しかった。


壮介は私を綺麗になんてしてくれなかったし、私も壮介のために綺麗になろうなんて、思わなかった。


壮介に愛されていなかったとハッキリわかった事は、私にとっては良かったのかも知れない。


「男も女も、付き合う相手でいくらでも変わるだろ。今度はもっといい男選ぶんだな。」


「うん、そうする。」


「念のため言っとくけど、服買ってやるとか嘘だからな。」


「わかってるよ。嘘でも嬉しかったけどね。」


普段なら言わないような言葉が、自分の口からさらりと出てきて、少し驚いた。


ああ、平気だって思ってたけど、少しは参ってるんだな。


「嘘でも嬉しいって…。相当あいつに大事にされてなかったんだな、オマエ。」


「そうみたいだね。誰でも良かったんなら、我慢しないでもっと早く別れようって言えば良かったって言われた。壮介はね、私には壮介しかいないと思ったから、私を見捨てる事ができなかったんだって。自惚れてるよね。優しさのつもりだったのかな?」


「ふーん…。めんどくせぇ男だな。そんなの優しさじゃねぇじゃん。優しさって言うなら、むしろ早く解放してやるべきだろ。」


「うん、そうだね。」


いつになく順平の口数が多い。


もしかして慰めてくれてるつもりなのかな?


「面倒な事に付き合わせてごめんね。たいした事はできないけど、何かお礼しないとね。」


「ホントにな。じゃあ、腹減ったからなんか飯作れ。」


「そんなんでいいの?」


「まずかったら許さん。」


いつも通り、どこまでも偉そうな順平の態度が少し笑える。


私は冷蔵庫を開けて、思わず吹き出した。


「飯作れはいいけど…冷蔵庫の中、食材が何もないね。」


順平はわかっていたはずだ。


冷蔵庫の中に入っているのはほんの少しの酒のあてと、水とビールと、私が買った牛乳だけ。


「買い物に行かないと料理できないよ。でも今から買い物して料理作ってたら、バイト行くのもっと遅くなるね。どうする?」


順平はソファーから立ち上がり冷蔵庫に水をしまうと、冷蔵庫の前に立っていた私の体を抱き寄せて、今にも触れそうなほど顔を近付けた。


「だったら体で払う?」


「……バカ。」


「イヤって言わないって事は、いいんだな?」


「ちが…!」


違う、と言い掛けた私の言葉を遮り、順平の唇が私の唇を塞いだ。


私の理性を奪い去ろうとするように、順平は舌を絡めて激しく私の唇を貪る。


順平の腕に強く抱き寄せられ逃げ場をなくした私の体は、欲情にかられ抗う事も忘れている。


勘違いしちゃダメだとわかっているのに、順平のキスは、付き合っていたあの頃の順平への気持ちを蘇らせた。


思わず順平の背中に腕をまわしてシャツをギュッと握ると、順平は唇を離した。


「バーカ。冗談に決まってんだろ。その気になってんじゃねぇよ。」


「……ならないよ、バカ。」


やっぱり相当弱ってるな、私。


ハタチやそこらの小娘じゃあるまいし、いい歳して、このままどうなってもいいと思ったなんて恥ずかしい。


私はもう、順平との終わった恋を蒸し返して浸っていられるほど若くない。


「もう、こういう事するのさ…冗談でもやめてよ。」


「本気でして欲しいの?」


「そういう意味じゃなくて…。それに、キスは嫌いなんでしょ?恵梨奈が言ってたよ。」


「別に。あいつとはしたくなかっただけ。」


「何それ。意味わかんないんだけど。とりあえず、私もう行かなきゃ。料理はまた今度。」


少し乱れた髪を手櫛で整え、上着を持って部屋を出た。


私は順平の顔を、まともに見る事ができなかった。





バーでの仕事を終えて、いつものように部屋に帰った。


昼間に運び込んだ荷物を端に寄せて、布団を敷く場所を確保した。


順平はシャワーを浴びている。


私は着替えを用意しながら、ぼんやりと順平の事を考えている。


順平はどうして私にキスをするんだろう?


恵梨奈とはセックスまでしておいて、キスは一度もしなかったって言ってたのに。


ほんの数日前に順平と再会してから、私は何度順平にキスされただろう?


それはいつも突然で、私の意思なんかおかまいなく、強引なキスだった。


順平にとっては深い意味なんかないのだろうけど、これ以上あんな事されたら、私は完全に勘違いして戻れなくなってしまうんじゃないかと不安になる。


あの頃の順平のキスは、いつも優しかった。


私を見つめる目も、抱きしめる手も、愛情に溢れていた。


私も順平の事が本気で好きだった。


好きになるほどそばにいるのが苦しくて、私は順平と離れる事を決めたのに。



“男も女も、付き合う相手でいくらでも変わるだろ。今度はもっといい男選ぶんだな。”



順平の言葉を思い出して、私は思わず苦笑いをした。


順平は私と付き合っていた事で、どう変わったんだろう?


別れてから何があったのかは知らないけれど、今の順平はあの頃とは全然違う。


私も変わったと思う。


私も順平も、あの頃とは違う。


今更もう、元のようには戻れない。


私が昔の話をしないのは、それがわかっているからなのかも知れない。






何事もなかったように夜が明けて、ついにその日はやって来た。


親戚との食事会で、偽壮介に仕立て上げた順平を紹介する日だ。


私は荷物の中から、まだ新しいスーツを選び袖を通した。


今日1日が問題なく終われば、これで私の気持ちも少しはラクになれるはず。


両親や親戚に嘘をつく事は多少良心が痛むけれど、それよりも私は順平を壮介として紹介する事の方が気が重かった。


最初から私が仕組んだ事だし、今をやり過ごすにはこうするしかない。


今日が済んでほとぼりが覚めたら、私はまた、壮介と離婚したと大きな嘘をつかなくてはいけない。


嘘に嘘を重ねて、ありもしなかった結婚と離婚を背負って生きていく。


考えてみたらバカらしい。


正直に事情を話し、壮介とは別れたと言えたらどんなにラクだろう。


だけどもう、今更後には引けない。


ここまで来たからには覚悟を決めなきゃ。


頑張れ、私。


怯むな、私。


絶対に負けちゃダメだ。


どこかで迷っている自分に打ち勝て。



きっちりとスーツを着込み、いつもより念入りに化粧をして、私は戦場へ向かう戦士のような気持ちで部屋のドアを開けた。


そこにはいつもと違うスーツ姿の順平がいた。


いつもは無造作な髪を、小綺麗にセットしている。


今日の順平は偽壮介、私の唯一の味方だ。


大丈夫、なんとかなる。




二人で一緒に部屋を出たのは初めてだった。


駅までの道のりをただ黙って歩く。


順平は電車の中で窓の外を眺めながら、珍しく私に話し掛けた。


「オマエさ…なんであいつと付き合ってた?」


「え?何、急に。」


思わぬ問い掛けに驚き、私は順平の顔を見た。


「いや…。どこが良かったんだ、あんな男。」


「どこが…?」


どこだろう?


私が聞きたい。


「どこかいいと思ったから3年も付き合ってたんだろ?」


「そうだね。強いて言えば、特別いいところがなかったからじゃない?」


「なんだそれ?」


順平は眉間にシワを寄せて怪訝な顔をした。


「胸が痛くなるほど好きだとは思わなかったから、感情が昂るとか、想いを募らせて苦しむとかなくて…。相手もそんな感じだったから、平凡でもこの人ならずっと一緒にいてくれるんじゃないかと思った…かな。」


「ふーん…。わけがわからん。」


「わかんないよね。私もなんでそんな人と幸せな結婚ができると思ったのか、わからない。」


「要するに、平凡な結婚ができそうな男なら良かったって事か。」


「だろうね。結果的にできなかったけど。」


順平がなぜそんな事を聞いたのかはわからなかったけれど、私の答えはことごとく、昔の順平を否定していると思った。


順平はそれをどう受け止めたのだろう?



順平の元から離れて、ほんの数ヶ月で壮介と知り合い、付き合い始めた。


順平と別れてから3年、壮介と付き合い出して3年。


壮介と別れてから、まだ1週間。


恋人ではないけれど、今、私の隣にはなぜか、あの頃とは違う順平がいる。


不思議なものだ。


人生、何が起こるかわからない。


「今日、ウエディングドレス着てバージンロード歩く予定だったのにな。」


口から勝手にそんな言葉がこぼれ落ちた。


順平は窓の外から視線をゆっくりと私に移し、小さく笑った。


「だっせぇ。いつまでもあんなつまらん男引きずってんなよ。ウエディングドレスはいつかもっといい男の横で着たらいいんじゃね?」


口は悪いけど、これは順平なりの励ましの言葉なのかも知れない。


私も少し笑った。


「そうだね。そうする。」


「まぁ…そんないい男がオマエを選べばの話だけどな。」


「相変わらず一言多いよ。私も努力するし。もっと綺麗になりたいって思わせてくれるような人を探すから。」


「ばぁさんになる前に嫁にもらってもらえるように、せいぜい頑張りな。」


「ハイハイ。いつか綺麗になった私に、結婚してくれって泣きついても知らないからね。」


「言ってろ、バーカ。」


私がどんなに綺麗になったところで、順平は目もくれないんだろうな。


絶対に順平よりいい男を見つけてやるから。





食事会の会場になっている寿司懐石の店に着いて、私が親戚に挨拶しているうちに、順平はいつの間にか姿を消していた。


トイレにでも行ったのかな。


そう思っていたのだけれど、時間になっても順平は戻って来ない。


どうしよう。


両親も親戚も、“壮介”がなかなか姿を見せない事を、さすがに不審に思い始めている。


「緊張してるのかな…。ちょっと、様子見てきます。せっかくだからお料理が温かいうちに、皆さんは先にお食事始めてて下さい。」


そう言って私が席を立って個室の外に出ようとドアを開けた時。


そこには偽壮介ではなく、本物の壮介が立っていた。


「遅くなってすみません。」


え……?


なんで?どういう事?!


壮介は個室の中に入ると、両親と親戚に深々と頭を下げた。


「申し訳ありません。僕の父の病気のために結婚を先送りにすると言うのは、嘘なんです。」


両親も親戚も、呆気に取られている。


なんで壮介が、私がこの嘘をつくために親戚を集めた事を知っているのだろう?


頭の中が真っ白になり、私は呆然と立ち尽くしたまま壮介の背中を見つめていた。


「僕の口から、本当の事をお話しします。」




それから壮介は、私との結婚が決まっていたのに別の女性を好きになってしまい、その人が自分の子を身籠ったので、責任を取るため私との結婚はできなくなったと言った。


挙式予定日の直前に彼女の妊娠がわかり、このまま私と結婚する事はできないと、私との婚約を解消したけれど、壮介をかばうために私が両親や親戚に嘘をつく事にしたのだとも言った。


そして、私や両親に本当に申し訳ない事をしたと深々と頭を下げた。


親戚はみんな、何か言いたそうではあったけれど、何度も頭を下げる壮介を、ただ黙って見つめていた。


「今回の責任はすべて僕にあります。本当に申し訳ありませんでした。」


壮介はそう言って両親に頭を下げてから、私の方をむいた。


「朱里…勝手な事してごめんな。でも、朱里だけに嘘をつかせて責任を押し付けるのはイヤだったんだ。」


私は我に帰って、壮介の腕を掴み個室の外に引っ張り出した。


「どういう事?!なんでこの事を壮介が知ってるの?」


「昨日…朱里が荷物取りに来てしばらく経ってから、朱里の彼氏が部屋に来た。」


彼氏?


…って、順平の事か!!


「えっ?!なんで?」


「今日、朱里がしようとしてた事、教えてくれた。それで、男なら筋を通せって。朱里は嘘をついてまで、一人で俺の投げ出した責任を背負おうとしてるんだって言われた。」


「そんな事言ったの…。」


「一度嘘ついてやり過ごしても、またその上に嘘を重ねて苦しむのは朱里だって。俺は自分の事でいっぱいになって、まさか朱里がそこまで思い詰めてるとは思ってなかったから…。」


私は壮介をかばおうとしたわけじゃない。


ただ、私自身を守りたかった。


そのために嘘をつこうとした。


「私は別に、壮介をかばおうとしたわけじゃないよ。結婚式を目前にして捨てられたなんて恥ずかしくて言えなかったの。それだけ。」


「朱里らしいな。でも、俺が悪かった。」


壮介が初めて私に対して、自分の非を認め謝罪の言葉を口にした。


「もういいや…。計画台無し…。どっちにしてもしばらくは陰でこそこそ言われるけど…親に大きな嘘をつかなくて済んだ。」


私は肩の荷がおりたような、ほんの少しラクになれた気がした。


「あ、そうだ。これ…。」


壮介はズボンのポケットを探り、何かを取り出して私の目の前にかざした。


それはいつか順平がくれたネックレスだった。


「クローゼットの隅の方に落ちてた。」


壮介は私の手にそれを握らせた。


「大事なもの?」


「うん…どうかな。でも、届けてくれてありがとう。これどうしたっけと思ってた。」


壮介とこうして普通に会話をしている事を不思議に思いながら、私はネックレスをジャケットのポケットに入れた。


「ここの支払いは俺がするから。」


「お金ないんでしょ?」


「なんとかする。それくらいはしないとな。」


今頃になって男気見せられてもな。


思わず苦笑いすると、壮介も笑った。


「今更なんだけど…壮介は、私の事、好きだった?」


「好きだったとは思う。けど、なんか家族に近かった気がする。」


壮介の“家族に近かった”という言葉は、私の中にストンと落ちてきた。


家族みたいだったから、ドキドキとかしなかったのかな。


「ああ…なるほどね。私もそうなのかも。もう家族にはなれないけどね。」


「うん…。ごめんな、長い間縛り付けて。」


「もういいや。これからまた、ちゃんと好きになって、家族になりたいって思える人探す。」


「彼氏は?」


ああ、そうか。


壮介は順平の事、私の彼氏だと思ってるんだった。


「そうだね。それも考えとく。」


「じゃあ…俺、行くよ。」


「うん。ありがとう。元気でね。」


その言葉は、私の口から自然に飛び出した。


結婚式直前に他の女を選んで私を捨てた婚約者にお礼を言うのもおかしな話だ。


だけどなぜだか、そう言いたかった。


「ありがとう。元気でな。」


壮介もそう言って、笑って手を振った。


壮介とは結婚して幸せにはなれなかったけど、私はやっと、順平を忘れるために壮介と一緒に過ごした日々も、全く無駄ではなかったと思えた。




私が一人で個室に戻ると、みんな黙々と食事をしていた。


気まずい。


食事会が終わるまで、この場の空気に耐えられるかな。


私が静かに席に着くと、父方の親戚の中でも一番の発言力を持つ伯父さんが、箸を止める事なくポツリと呟いた。


「できちまったもんは仕方ねぇな。結婚する前にわかって良かったんじゃないか?」


「う…うん…。」


他の親戚もうなずいている。


「またいい人見つけなさい。今度はちゃんと結婚式に招待してね。」


母方の伯母さんが、笑ってそう言った。


「頑張ります…。」


それ以上は、誰も何も言わなかった。


結婚すると嘘をつかずに、最初から本当の事を話していれば良かったのかなと思う。


だけどきっと、壮介が来て本当の事を話し頭を下げたから、これ以上は何も言えなかったんじゃないかとも思う。


そう考えると、順平のお節介は結果的に良い方へ転んだという事だ。


それにしても、順平はどこに行ったんだろう?


壮介が来るとわかっていたから、ここに来て姿を消したのかな。


もし壮介が来なかった時は、きっと偽壮介を演じるつもりで、きちんとした格好をしていたのだろう。


もしかしたら順平は、偽壮介になって本当の事を話すつもりだったのかも知れない。


サクラの依頼の内容とは違うけど、順平は順平なりに私の事を思ってくれているんだなと、それは素直に嬉しかった。



それからしばらくして、食事会は無事に終わった。





私は一人で電車に乗り、ぼんやりと窓の外を眺めている。



親戚を送り出し、両親にも改めて嘘をついた事を謝って、会計を済ませようとレジに行くと、順平は伝言を残して帰った後だった。



“バイトあるから先に帰る。”



私はその走り書きのようなメモをジッと見て、ポケットにくしゃりと押し込んだ。



順平と付き合い出してまだ間もない頃、私の誕生日にプレゼントを買うお金がないからと、ケーキと一緒に短い手紙をくれた事を思い出す。


丁寧に書かれた、順平の少しクセのある文字。


あの手紙はどこにやったかな。


それを見ると順平を忘れられなくなりそうで、でも捨てられなくて、何かに入れて封印したような気がする。


封印したとは言え、その内容は覚えている。



“朱里、誕生日おめでとう。

これからもずっと一緒にいよう。

愛してる。”



月並みだけど、その手紙をもらった時は本当に嬉しかった。



今の順平からは、きっとそんな言葉は出てこないと思う。


ましてや相手は、何も言わずに順平の前から姿を消した私。


順平も私も、あの頃はまだ若かった。


一緒にいると嬉しくて、一緒にいない時も順平の事ばかり考えていた。


目の前に愛する人がいる事がすべてだった。


それなのに私はいつの間に、まだ見ぬ未来の幸せばかりを追い求めるようになったんだろう?


私には、順平との“ずっと一緒にいよう”という不確かな約束を信じる勇気はなかった。




バーに着くと、マスターが笑顔で出迎えてくれた。


バイトの時間までまだ少し時間がある。


マスターがコーヒーを淹れてくれた。


「朱里ちゃん、お疲れ様。」


「ありがとうございます。」


「うまくいった?」


うーん、どっちだろう?


計画は大失敗。


なのにこの清々しさはなんだろう?


「どこかの誰かさんのおかげで、私の計画は台無しです。」


マスター、笑ってる。


ここにいない誰かさんの仏頂面でも想像したのかな。


「それでも朱里ちゃん、いい顔してる。」


「嘘をつく必要がなくなりましたからね…。肩の荷がおりたというか、ラクになりました。」


「それは良かった。」


後で順平に会ったら、依頼の内容と全然違うって文句言ってやろう。





12時半を過ぎた頃。



土曜日の割に来客が少なかったので、マスターは私と順平に、今日は疲れただろうから、もう上がっていいよと言った。


私と順平はきりの良いところで仕事を終え、1時頃にバーを出た。


いつものように順平はスタスタと私の前を歩いていく。


私は小走りにその背中を追いかけ、順平の横に並んだ。


「今日はありがとう。」


私がお礼を言うと、順平は右の口角を上げて笑った。


「おー、今日は素直だな。明日は槍でも降るんじゃねぇのか?」


順平の憎まれ口も、今日だけはイヤな気がしない。


「なんか今日は飲みたい気分なんだけど、付き合ってくれる?」


「オマエ、酒弱いだろ。つぶれても店から引きずって帰んのイヤだからな。」


順平に心底イヤそうな顔をされた。


「えー…。」


「リビングから部屋までくらいの距離なら引きずってやらなくもない。」


引きずるって…。


私、一応女なんだけど…。


「引きずらずに抱えて欲しいんだけど。」


「重たいからイヤ。」


口が減らないな、順平は。


「まぁいいや…。じゃあ、家飲みにしよ。ビールおごるよ。」


「当たり前。」


「じゃあ、コンビニ行こう。」


「めんどくせぇな。」


「おつまみもおごるから、ね?」


「しょうがねぇなぁ…。」


順平と軽口を叩きながら並んで歩く。


なんだかとても楽しい。


順平とは恋人でも友達でもないけれど、これはこれでいいんじゃないか。


私たちにはこれがちょうどいい距離感なのかも知れない。




とりあえずシャワーを済ませてから、二人で飲み会を始めた。


私はいつもより多目にお酒を飲んだ。


なんだかとってもいい気分になり、いつもよりたくさん話したと思う。


順平もお酒を飲みながら、いつもは話さないようなどうでもいい話をした。


酔いが回って来ると、何が面白いのか二人でお腹を抱えて笑ってばかりいた。


とにかく楽しい。


明日になればきっと、何がそんなにおかしかったのかと首をかしげるだろう。


私と順平は、これでもかと言うくらい笑った。


私は酔いの回った頭の中で考える。


あの頃、順平とはこんなふうにお酒なんて飲んだ事はなかった。


順平はあまりお酒が強くなくて、劇団の飲み会でも先輩たちのオーダーを店員に伝えたり、散らかったテーブルを片付けたり、とにかくあまり飲みすぎないように自分でセーブしていた。


ジョッキ一杯ほどビールを飲んだら耳や首筋まで真っ赤になって、いつも先輩たちにからかわれていたっけ。


だけど今目の前にいる順平は、もう何本も缶ビールを空けている。


ついでに言うと、順平は私の事を、“オマエ”なんて一度も呼んだ事はなかった。


いつも優しい声で“朱里”と呼んでくれた。


乱暴で強引なキスもしなかった。


私を宝物のように大事にしてくれた。


そして私は知っていた。


順平が大きな爆弾を抱えていた事を。


いつそれが爆発しても悔いが残らないように、必死で夢を追い掛けていた事も。


“たとえそれが原因で残りの時間を縮める事になってもかまわない。”


順平は他のみんなには隠していた大きな秘密を私にだけは教えてくれた。


私はいつ来るか知れないその時を恐れて、私の中の順平との時間をこのまま止めてしまおうと逃げ出した。



最初からわかってる。


今、目の前にいる順平は、私の好きだった優しい順平ではない。


けれど彼が順平を名乗る以上、私はそれに気付かないふりをしていよう。



「みんな、何かしら人に言えない秘密があるもんだね。」


思わずポツリと呟くと、順平は缶ビールをテーブルの上に置いて私を見た。


「オマエにもそんな秘密があんのか?」


「どうかな。なくはないよ、多分。」


「曖昧だな。」


「そんなもんでしょ?言ったら秘密にはならないもんね。」


順平は私と秘密を共有した。


順平の前では笑っていたけど、知らずにいた方が幸せだったかも知れないと何度も一人で泣いた。


きっと順平はわかっていたんだと思う。


だから私が急にいなくなっても、電話のひとつもよこさなかった。


「知らずに済んだ方が幸せな事もあるよ。」


「ホントにそう思うか…?」


「どうかな…。秘密。」


私が答えると、順平は私の体を引き寄せた。


「しゃべりたくなるようにしてやろうか?」


「ならないよ。」


「これでも?」


順平は私を床に押し倒し唇を塞いだ。


噛みつくようなキスをしながら乱暴に服をたくしあげ、その手で私の体に触れる。


順平の舌が私の肌を這う。


やめて。


順平と同じ顔で、そんな事しないで。


「お願い…やめて…。」


「しゃべったらやめてやる。」


どんなに抵抗しても、順平は私を押さえ付けて離してくれない。


はだけた胸を舌と指で執拗に弄ばれ、私の中のあの頃の私が悲鳴をあげた。


「やめて!!順平は私が嫌がる事はしない!!」


思わずそう叫んだ。


無意識のうちに涙が溢れていた。


順平はほんの一瞬目を見開き、私の体から手を離して目をそらした。


「……ちょっと飲みすぎた。もう寝る。」


黙って立ち上がり部屋に戻って行く順平の後ろ姿が、涙でにじんでぼやけて見えた。


私はゆっくりと起き上がり、乱れた着衣を整えて両手で顔を覆った。



きっともう、私が好きだった順平はどこを探してもいないのだろう。


あたたかかった大きな手で、優しかった唇で、私に触れる事は二度とない。


できれば知りたくなかった。


どうせ騙すなら、せめてもっと上手に騙して。


私の好きだった優しい順平に抱かれているんだと、錯覚するくらいに。


今も私たちは愛し合っているんだと、勘違いするくらいに。


それならばきっと、騙されているとわかっていても、少しは幸せだと思えたのかも知れない。


































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