嘘も通せば修羅場になる
翌日、カフェで賄いを食べている時、恵梨奈が嬉しそうに昨日のデートの話をした。
なかなか連絡が取れずしばらく会えなかったけど、昨日は久しぶりに会えて嬉しかったとか、いつ見ても本当にカッコいいとか。
家に遊びに行きたいと言っても“同居人がいるから無理”と断られて、まだ一度も家に入れてくれた事がないらしい。
順平の本音を聞いてしまった私としては、かなり複雑な気分だ。
今の同居人は私なの、なんて、口が裂けても言えない。
「久しぶりに会えたのに順平くん忙しいから、昨日はホテル行ってエッチしただけなんです。終わったらすぐに次のバイトがあるって行っちゃった。」
聞きたくない、聞きたくない。
他人にそんな話を聞かせてどうするの?
「順平くん、カッコいいから絶対モテると思うんですよ。だから昨日は、浮気防止にキスマークつけてやりました。」
「…ふーん。」
うん、昨日見たから知ってる。
浮気防止も何も、彼女と思われてないんだよ。
独占欲を剥き出しにして縛り付けようとすればするほど、面倒な女だって言って順平は離れていくのに。
…なんて、絶対言えないけど。
それでも体だけとは言え、順平は恵梨奈を求めたわけだ。
求められているのは体だけとは知らなくても、恵梨奈は順平に求められて喜んでる。
本当の事は知らない方が、恵梨奈にとっては幸せかも知れない。
「店長から聞いたんですけど、朱里さん、バーでもバイトしてるんですよね?」
「え?うん、してるよ。」
猛烈にイヤな予感がする。
「順平くんって、バーでバイトしてる順平くんなんです。」
「あ、そうなんだね。」
ハイ、存じておりますよ。
「今日は順平くんの仕事してる姿、見に行っちゃおうかなぁ。それで、酔ったから今夜泊めてって言っちゃおうかなぁ。」
やめときなって。
何言われるかわかんないから。
…って言うか、順平が断ってくれないと、私が困る。
順平の部屋に居候している事は恵梨奈には知られたくないし、いくら部屋が別々とは言え、リビングの向こうのドア1枚隔てた先で順平と恵梨奈が…とか、絶対無理。
声とか絶対聞こえるよね?
「そうしよ。朱里さんも働いてる事だし?」
えっ?なんでそうなるの?!
私は関係ないのに…。
面倒な事にならなきゃいいけど…。
なんて事だ。
私は今、順平の腕の中にいる。
背後から抱き寄せられ、これでもかと言うくらいに密着されている。
すぐ目の前にはイヤミなほど整った順平の顔。
その大きな手は私の頭を強引に引き寄せ、いつも憎まれ口ばかり叩く口角の上がった自信有りげな唇は、私の唇を塞いでいる。
非常にマズイ事になっている。
どうしてこんな事になってしまったのか?
どうでもいい事に捲き込まれてしまった。
目一杯おしゃれをして予告通り10時過ぎに一人でバーにやって来た恵梨奈は、カウンター席に座り、スクリュードライバーと野菜スティックをオーダーして、時折私やマスターとも会話をしながらお酒を飲んだ。
そしてもうすぐ12時になろうかと言う頃。
キッチンで私が洗い物をして、順平がグラスを拭いていると、恵梨奈は順平目当ての若い女性客の目を盗むように、そこにやって来た。
恵梨奈が酔ったふうを装って、“バイト終わるの待ってるから部屋に泊めて”と、甘えた声で順平にお願いした。
すると美しい顔をした悪魔のようなこの男は、手にしていたグラスを静かに置き、洗い物をしていた私を背後から抱き寄せた。
そしていけしゃあしゃあと言い放ちやがった。
「これ、俺の女。こいつと一緒に暮らしてるから、オマエと部屋でやんの無理だわ。」
恵梨奈だけでなく私も、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「まさか…冗談でしょ?」
「嘘だと思うなら見に来るか?」
順平のやつ、恵梨奈を袖にする口実に私を使いやがった。
呆れて言葉も出ない。
しかしこの体勢で、洗剤の泡だらけの濡れた手をどうしたら良いものか。
私は二人の会話を他人事みたいに聞きながら、オバケのように両手を前に出して、その手から床に泡がポタポタ落ちるのを気にしていた。
おっと、今はそれどころじゃなかった。
恵梨奈とは明日からもカフェのバイトで顔を合わせるのに、気まずくなるのは困る。
顔を上げると、恵梨奈は口をギュッと引き結び目をつり上がらせて、鬼のような形相をしていた。
「朱里さん、黙ってるなんてひどい!!私、順平くんの事本気だったのに!!」
え?なんで私?!
「いや…ちょっと待ってよ、私は…。」
順平とはそんな関係じゃないと否定しようとすると、順平は咄嗟に私の口を塞いだ。
あろうことか、その形の良い色気のある唇で。
恵梨奈は泣きながら客席に戻り、グラスに残っていたお酒を一気に飲み干した。
そして乱暴に掴んだ高そうなブランド物のバッグから派手なブランド物の財布を取り出して、会計をきっちり済ませて店を出て行った。
ほんの数分…いや、数十秒前の出来事だ。
恵梨奈はもういなくなったと言うのに、順平の唇は私の唇を捕らえて離さない。
順平の舌が私の唇をこじ開けようとした。
私は慌てて身をよじり、順平から逃れた。
「いい加減離してよ!」
「なんだ、今日はもう終わり?それとも続きは帰ってからにする?」
「はぁっ?何言ってんのよ、するわけないでしょ!!」
私は濡れた手で順平の体を押し返す。
「だいたいなんであんな嘘つくの?!恵梨奈はアンタの事本気で好きだったんでしょ?!それに私は明日からも恵梨奈と一緒に仕事しなきゃいけないんだからね!!」
「大丈夫だろ。あいつの本気なんてやっすいモンだから。せいぜい俺の顔と体に惚れてたって程度。見ただろ、あいつの持ち物。俺以外にも都合のいい男がいっぱいいるんだよ。」
確かに恵梨奈はモテそうだ。
カフェでのバイトしかしていないと言っていたのに、歳の割に高価な物を身に着けている。
なるほど、お互い様ってとこか。
「だからって…そんな嘘に私を捲き込まないでよ。」
「何?本気で言って欲しかった?」
「…バカじゃないの。」
一体何を考えているんだ、この男は?
顔が良ければすべて許されると思うなよ。
ああ…でも、嘘に順平を捲き込もうとしているのは私も同じだ。
順平より私の嘘の方がタチが悪い。
これも、お互い様ってとこか。
その夜は部屋に帰っても特に何があるわけでもなく、続きどころか会話さえしなかった。
もちろん、続きを期待してたわけじゃない。
文句のひとつでも言ってやりたかったし、なんであんな事する必要があったのかと聞きたかっただけだ。
私はまた、不覚にも隙をつかれてしまった。
なんの前触れもなく、突然キスするのはやめて欲しい。
今更清純ぶるつもりもないし減るもんでもないけれど、その意味のないキスの相手が順平だと思うと複雑な気分になる。
ただからかっているだけなのか、私を困らせて楽しんでいるのか。
わざわざ私に構わなくたって、順平にキスしてもらいたいかわいい女の子なんて、たくさんいるだろうに。
正直言って、順平が何を考えているのかさっぱりわからない。
もしかしたら、実はなんにも考えていないのかも知れない。
なんにも考えなくて済むのなら、私はもっとラクになれるだろう。
世間体とかつまらない見栄とか人目を気にせずに、自分の気持ちに正直に、欲しい物を欲しいと素直に言えたら、きっと楽しく前向きに生きられるだろう。
たかがキスされた程度の事で、順平は今も私を好きなのかも知れないと、勘違いしてしまうくらいに。
翌日。
カフェで顔を合わせた恵梨奈は、いつもとたいして変わりない様子に見えた。
順平の言う通り、本気と言うほど本気でもなかったのかな。
私は余計な事を話さないで済むように、せっせとランチの仕込みをした。
だけど賄いを食べるのは同じ時間だ。
恵梨奈はチキンのクリーム煮をスプーンですくいながら、ジーッと私を見た。
「朱里さん、ホントに順平くんと付き合ってるんですかー?」
やっぱり来たか、この質問。
ここはハッキリと否定した方がいいのか、それとも順平の下らない嘘に付き合ってやった方がいいのか。
付き合ってはいないけど、同じ部屋で暮らしているのは事実。
あれは嘘だとバラすとしても、順平がなぜそんな嘘をついたのかと聞かれるのも面倒だ。
順平の本音をそのまま言う勇気はない。
ここは適当に話を合わせて濁しておくか。
「うん…まぁ。」
「えー、信じられなーい!」
そうでしょうよ。
昔はともかく、今は付き合ってないからね。
「順平くん、今までそんなの一度も言った事なかったのにー。朱里さんも黙ってるなんて、ひどいですー。」
「あ…うん、ごめんね。言いにくくて…。」
なんで私が8つも歳下の子に、ありもしない事を責められて謝らなきゃいけないんだ。
「だけど、なんか納得しちゃいました。」
「…何が?」
「順平くん、私とエッチはしてもキスはしてくれなかったから。」
ブホッ。
なんだそれ?!
危うく口の中の物を思いきり吹き出しそうになったじゃないか!!
「……そうなの?」
「順平くんからもキスしてくれないけど、しようとしてもキスは嫌いだって言って、一度もさせてくれなくて。よく考えたら、たまに会ってもエッチしかしてないし、デートらしいデートも食事もした事なかったです。」
「ふーん…。」
明け透け過ぎる…。
仕返しのつもりではなさそうだけど、私がその男の彼女だって言ってるのに、普通はそんな話しないよね?
「順平くん、めちゃくちゃタイプだったのになぁ。エッチもすごく良かったし…。」
ああ、そう…。
順平の言った通りだったわ。
たいしたダメージなさそう。
私は少しホッとして食事を続けた。
「朱里さんは順平くんと一緒に暮らしてるんですよね?」
「ん?まぁ。」
それは本当。
部屋は別々だし、順平の部屋には一度も入った事ないけど。
「順平くん、いっつもあんな感じですか?」
「…どうかな…。」
「え?」
あ、しまった。
「うん、そうだね。あんな感じ。」
ボロが出るといけないから、当たり障りのない事言っとこう。
恵梨奈は順平のついた嘘を信じているようだ。
私の事を順平の彼女だと思ってる。
面倒な事になった。
付き合ってもいないのに付き合っていると、一人の人に嘘をつくだけでも面倒なのに、私はこれから、順平を偽壮介に仕立て上げて、この人と結婚すると身内を騙そうとしている。
予行演習…?
いやいや、お遊戯会じゃあるまいし。
だんだんその日が迫ってきた。
本当にうまくいくかな。
順平は一応プロのサクラなんだから、普通の人よりは芝居をするのが上手なはずだ。
じゃあ、問題は私だ。
両親や親戚の前で不自然な振る舞いをしないように気を付けなきゃ。
翌日、カフェでランチの仕込みを終えた後、いつもより早めにバイトを上がらせてもらい、明日の食事会のために、佐倉代行サービスの事務所に打ち合わせをしに行った。
順平を偽壮介に仕立て上げるため、細かい設定をする。
「二人は合コンで知り合ったんだね。じゃあそこは友人の紹介とでもしておこうか。」
佐倉社長はメモを取りながら、私に壮介との馴れ初めや付き合っていた頃の事を、事細かに尋ねた。
順平は長い足を投げ出すようにしてソファーに身を預け、つまらなさそうに壮介の写真とプロフィールを眺めている。
「結婚延期の理由は…彼の父親の病気か…。具体的にはなんの病気にする?」
「心臓病…とか?」
「心臓か…。もうちょっと説得力あるのが欲しいな。食道がんとかどうだろう?手術を間近に控えている事にしようか。」
壮介の父親には申し訳ないが、ここは勘弁してもらおう。
「二人はなんて呼び合ってたの?」
「お互いに名前で。」
「壮介と朱里ね。くれぐれも名前だけは間違えないようにね。」
確かに私が間違えて順平の名前を呼んだりしたら大変だ。
気を付けないと。
打ち合わせを終えた私は、食事会に着ていく服を用意するため、残っていた荷物をこれから取りに行くと壮介に電話をした。
壮介は少し慌てた様子で、明日なら休みで家にいるから明日にしてくれないかと言った。
食事会は明日だ。
明日では間に合わない。
私は合鍵を持ってるし、急ぎで必要な物があるから、壮介がいなくてもこれから勝手に取りに行くと言った。
それなら定時で仕事を終わらせて急いで帰るからせめて夕方にしてくれ、夕方なら荷物を車で運んでやると言われ、仕方なくそれに従う事にした。
夕方なら順平は留守のはずだ。
壮介と鉢合わせになる事はないだろう。
カフェに寄るとマスターがいたので、バーの仕込みを手伝いながら、夕方に用があるので来るのが少し遅くなると伝えた。
「用って?」
「元婚約者の部屋に荷物を取りに行くんです。夕方なら車で運んでやるって。」
「そうか…。順平には?」
「言ってません。」
「じゃあさ、順平に頼めば?車貸すよ。」
確かに壮介に頼むのも本当はイヤだけど、順平に頼むのはもっと気が引ける。
「でも、順平は面倒だって言うと思います。」
「いいよ、俺から言ってあげるから大丈夫。」
マスターは早速順平に電話をして、私と一緒に壮介の部屋へ荷物を取りに行けと命じてしまった。
順平はマスターには逆らえないのか?
何か弱味でも握られているんだろうか。
「順平、この店に勤めてもう長いですか?」
「そうでもないよ。まだ1年くらい。」
「そうですか。その割になんと言うか、順平はマスターに対してもタメ口だし、遠慮がないですね。」
「ああ、あいつ最初からあんな感じなんだよ。佐倉社長の紹介でうちの店に来たんだけどね。ちなみにカフェの店長は俺の嫁の弟。」
「義理の弟さんですね。道理で似てないと思いました。」
「嫁って言っても、随分前に離婚してるんだけどね。もう8年になるな。」
別れた奥さんの弟と一緒に仕事してるのか。
なんか複雑。
結婚はゴールじゃないってよく言うけど、それは本当かも知れない。
私と壮介だって、結婚してもすぐに離婚する事になっていたのかも。
そう考えると、結婚って一体なんのためにするんだろうかと思ったりする。
それに向かって必死になっていた私はバカみたいだ。
今度こそは私だけを愛してくれる人を見つけよう。
間違っても浮気なんかしない人を。
できれば、私も一生本気で愛せる人がいい。
義務とか責任とかそんなものだけでなく、ちゃんと心から愛せる人と、いつかは結婚して幸せになりたい。
そんな日が来るのは、一体いつになるだろう?
さっきから順平は、私の隣で不服そうに何度も同じ言葉を呟いている。
「…ったく、なんで俺が…。」
確かに順平にとっては迷惑でしかないだろう。
「めんどくせぇな。」
「ごめん…。」
申し訳なくて、運転席でハンドルを握る順平の横顔をまともに見る事ができない。
そういえば、あの頃順平は車の免許を持っていなかったな。
私と離れてから免許を取ったんだろう。
壮介と2年間一緒に暮らしたマンションの前に着いた。
マンションの外観を窓越しに眺める。
ついこの間までは当たり前のようにここに帰っていたのに、もう随分前の事のように感じる。
私の居場所はもうそこにはない。
荷物を運び出したら二度とここに来る事もないだろう。
順平はエンジンを止めてドアに手を掛けた。
「とりあえずさっさと終わらせるぞ。」
「うん。」
部屋のチャイムを鳴らして、壮介が出てくるのを待った。
鍵を開けて“ただいま”と中に入れた頃とは違うと思い知らされる。
ドアを開けた壮介は、私の後ろに立っている順平の姿に驚いていたようだけど、何も聞かなかった。
だって今更、私が誰とどうなろうと壮介には関係ないから、きっと興味もないはず。
荷物は思っていたほどの量ではなかった。
いくつかの段ボール箱と、大きめのバッグに荷物を詰めた。
もっとたくさんあったと思ったのは、私がいつも二人分の洗濯や衣替えをしていたからなのかも知れない。
思えば壮介と暮らし始めてから、新しい服はあまり買わなかった。
平日は仕事をして帰ったら食事の支度をして、あっという間に1日が終わった。
休みの日はほとんど家の用事をしていて、二人で出掛ける事もあまりなかった。
たまに出掛けても、近所の大型スーパーとか家電量販店とか、生活に必要な物を買うためだったし、おしゃれをする必要なんてなかった。
それとも私は、おしゃれをする必要もないと思うくらい油断してたのかな。
一緒に暮らしてる事で安心して、壮介はどこにも行かないと高を括っていたのかも知れない。
荷物をまとめ終えると、順平がその少なさに唖然としていた。
「なんだ、オマエの荷物、こんだけかよ?」
「そうみたい。」
「2年も住んでたって割に少なくね?」
「うん、私もそう思ってた。」
「服も地味なのばっかだったし…。あいつ、綺麗なカッコもさせてくんなかったのか?」
私は順平の言葉に首をかしげた。
「どういう意味?」
「別にぃ。女はいい男と付き合うと、どんどんいい女になってくんだよ。好きな男に似合う女になりたいからな。」
確かに順平の言う事には一理あると思う。
私だって順平と付き合っていた時は、若くてカッコいい順平に恥をかかせたくなくて、少しでも綺麗でかわいい女になろうと頑張っていた。
「それに男だって好きな女には、着て見せて欲しいって思うような服の一枚くらいはプレゼントするもんだろ。」
「…そうなの?」
壮介から洋服やアクセサリーをプレゼントされた事なんてないなと、今更気付く。
私がどんなに着飾ったとしても、壮介はきっと私になんて、興味がなかったんだろう。
順平からは一度だけ、誕生日でもなんでもない日に、私に似合いそうだったからと、ネックレスをプレゼントされた事があった。
そんなに高いものではなかったかも知れないけど、バイトと劇団の活動を掛け持ちしていつもお金のなかった順平が、私のためにそうしてくれた事が嬉しかったのを覚えている。
そういえばあのネックレス、どうしたっけ。
「さっさと運んで終わらせようぜ。」
「あ、うん。そうだね。」
荷物を運ぼうと立ち上がった時、順平は壮介の目の前で私を抱き寄せた。
不意を突かれて、私は順平のなすがままになっている。
「これが済んだら、服買いに行こう。オマエに似合う服、買ってやる。これからは俺がオマエをいい女にしてやるからな。」
順平は自信たっぷりに笑みを浮かべて、呆気に取られた私の頬に軽くキスをした。
何言ってんの…?!
ってか、恥ずかしいんだけど!!
壮介もポカンとして私と順平を見ている。
順平の彼女のふりって、ここで必要?
むしろ順平が私の彼氏のふりしてるって、なんかおかしくないか?
部屋と車を何度か往復して、最後の荷物を運び出そうとした時、壮介が封筒を差し出した。
「これ…全額は無理だけど、とりあえず…。」
「うん。」
「残りもできるだけ早く返すから。用意できたら連絡する。」
「わかった。」
お金の入った封筒を受け取り、バッグにしまった。
「今日は彼女いないの?」
「出掛けてる。」
夕方なのに食事の用意もしないで?
なんて、余計なお世話か。
「朱里、もう新しい男できたんだ。」
「え?」
「誰でも良かったんだな。だったら我慢なんかしないで、もっと早く別れようって言えば良かった。」
何それ。
「それって、我慢しなきゃいけないほど、私と一緒にいるのは苦痛だったって事?」
「朱里には俺しかいないんだと思ってたから、見捨てられなかった。」
随分とひどい言われよう。
「自惚れてる。」
思わずポツリと呟いた。
それは壮介に対しての言葉だったのか、それとも私自身に対しての言葉なのか。
私だって壮介が他の女を選ぶなんて思っていなかった。
お互いにたいして好きでもなかったのに、なんのために3年も一緒にいたんだろう。
こんなの、恋とも愛とも呼べない。
壮介と過ごした日々を振り返っても、胸が熱くしめつけられるような思い出なんて、ひとつもなかった。
悲しさとか悔しさを通り越して、ただ虚しさだけが心に残った。
私は合鍵を玄関の下駄箱の上に置き、別れの言葉もなく、最後の荷物を手に部屋を出た。
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