この作品は私には大きなチャレンジでした。私は男性で、ホモでもなく当然腐女子でもない。いわゆる多数派ということになります。またそういう特徴を持つ方もあまり身近ではありません。そのため、きっと一部の人には面白いんだろうけど私にはわからないだろうな、と漠然と思っていました。
しかし読んでみると、主人公とヒロインの描写が丁寧で、すんなり話についていけました。なるほど私にこういう性質があればこういう悩みが出てくるだろうな、と納得感もありました。そして、この作品は1つの大きな社会への問題提起なのだと思うに至りました。
多数派の少数派に対する蔑視というのは基本的には生来の性分に根ざしたものであり、同性愛者であっても例外ではないと思います。だからこそ人間は発達した大脳新皮質を活かして動物的な部分を律するべきだ、という倫理を持つべきであるとなります。
しかし社会に十分なルールが確立されていない場合、どう律するのが良いのか、は個人の裁量に任されます。法律には抽象的なことしか書いてないですし、学校ではあまり教えてくれないし。
この作品はそうした問題が顕在化するとどうなるのか、という思考実験であり、かつドラマとしての起伏もかなりはっきり用意されています。この両立はかなり難しかったのではないでしょうか。
同性愛というテーマに対して経験的に全くなじみがない私にとって、本作は単にドラマとして感動できただけでなく、同性愛という世界に対する非常に良い入門書でもありました。古いキャッチですが、面白くて為になる、と感じました。
単に同性愛をテーマにした作品は色々目にはしましたが、そうした世界を異性愛者の目線にまで降りて説明してくれたなと感じたのは初めてでした。
作者様へ深く感謝します。また、異性愛者を含むより多くの方へ読んでいただきたいと思います。
セクシャルマイノリティーという言葉がいくらか浸透してきたにせよ、日本社会においては同性愛者に向けられる視線はまだまだ冷ややかなものであると思います。
この作品ではその生きづらさ・息づらさが、主人公の現実問題として赤裸々に語られます。
流行りのラノベ的なタイトルとは裏腹に、その内容は非常に真摯かつヘビー。
主人公の純が直面する懊悩と葛藤に、何回も何回も心がずたずたになりました。
前半は淡々とした語り口の中に、時おり切れ味鋭い一文が現れてハッとさせられます。
綺麗な海の映像を観ていたら、急にザザッとノイズが走るような(例えが悪いかもしれない…)。
後半は主人公のある行動により、取り巻く事情が大きく動きます。
ネタバレになるのであまり多くは書けませんが、題材も洒落た文体も伏線も構成も素晴らしかったです。
あと個人的な好き嫌いで言うと、自分は三浦さんが一番好き。明るくて大胆で可愛いです。
とにかくこの作品を読めて良かった、の一言です。
同性愛についてどんな思いを持っている人でも、最後まで読んでほしい。
そして、考えてほしいです。
——言葉にすることができない。
どうしても。
どこがよかった、ここがよかった——そう、シンプルに説明できる作品ではありません。
ただ——ものすごい威力を持ったボールを全身で受け止めた時の、あの感覚が残っています。
胸も、腕も、足の指先まで。全身が痺れるような、あの感覚。
そして——何も説明ができないまま、涙が溢れます。
ひとを愛するとは、何か。
この作品には、そんなこの上なく難しい問いかけと、私達が目を逸らしてはいけないメッセージが、ぎっしりと詰まっています。
一人でも多くの人に、読んでほしい。
LGBTについて、知っている人、知らない人。
苦しい思いを抱える人たちを応援したい人、敬遠してしまう人。
全ての人に、読んでほしい。そして、読まれなければいけない作品だと思います。
この作品が、本になって、全国の書店に並んで。
社会の現状を多くの人が知り、深く見つめるきっかけになったら——
この国が、少しずつでも、多様な愛に寛容な国に生まれ変わっていくならば。
これ以上、私にとって嬉しいことはない。
そんなことを、ひたすら思い、願います。
この『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』という作品は、同性愛に対して、不平等な世界に対して、人間に対して、ものすごく真剣です。
そして、まさに真剣の如く、読者の心をズタズタに切り刻んでいきます。
主人公の純が抱く、普通という言葉に対する疑問、男が好きだけど幸せな家庭を築きたいという矛盾に対する苛立ち、自分自身に対する嫌悪。
それら一つひとつが刃であり、私たちの"当たり前"を覆しながら、同性愛について深く考えさせるのです。
世界が孕んでいる偏見と、性的マイノリティの方々(本作ではゲイ)が隠している苦悩が、いっさい偽られることなく書かれています。
その真剣さと切れ味に終始圧倒され、ハッピーで笑える話が好きなはずの私が、断言します。
これは、人類全員が読むべき作品である、と。
男も女も、ホモも腐女子も、全員が。
面白いので読んでみて!と作品をすすめてきたことは何度もありましたが、ここまで『読むべきだ』と言わせる作品はあまり他にないです。
とまあ、偉そうに言いましたが、私の世間に対する影響力など微々たるものです……。
そのことがこんなにも悔しかった瞬間はありません。
そもそも、面白い、楽しいという感想は、この作品には似合わない気がします。
局所的に笑える表現は出てくるものの、全体的にはものすごくシリアス。
シリアスで、ハッピーエンドとは行かないまでも、読後感は最高。
それは、純をはじめとした、リアリティのあるキャラクターたちのおかげでもあります。
純を好きになったのが三浦さんでよかった。
純の親友が亮平でよかった。
純と対立するのが小野でよかった。
そして読み終わったあと、読者は思うのです。
この作品に出会えてよかった、と。
タイトルからは想像もできなくらい、テーマ性の強い骨太な物語。ラノベ的な、いわゆる軽いのノリの作品かと思って読み進めると――ガツンと後頭部を殴られたような感覚に陥ってしまう、そんな物語。
この物語の中で扱っているテーマは『性』と『愛』。『LGBT』という難しいテーマーを軸に据えて、それをじっくりと真正面から描いている。
主人公の安藤純は同性愛者――つまりホモ(ゲイ)であり、付き合っている男性(既婚者)がいる。彼と親密になっていく女の子、三浦さんは腐女子で、二人関係が進展していくに連れてその関係は複雑になっていくのだが、その複雑さを誤魔化すことなく書き切っているところにものすごく好感を覚えた。
また、個人的なことを言わせてもらうと文章がものすごく好みで、最初の数行を読んだだけで「ああ、この文章はおもしろいし上手いなあ」と感じさせてくれる。上手いだけでなく、くすりと笑わせる文章も多く、男性器を『ペニス』と書かずに『ちんぽこ』と書いた点は最高に笑ってしまった。他にBL星やマジックミラー号など、きつい内容を和ませる際どい下ネタの数々が、物語に良い意味での彩りを与えていたように思う。
各章のタイトルには伝説の海外バンド『QUEEN』曲名が引かれているのだが、これがバッチリと決まり過ぎている! 物語の内容ともしっかりとリンクしており、お見事の一言。
テーマ性もあり、文章も巧みで、物語を引き立てる小道具や演出もハマっている素晴らしい一作。ぜひ、多くの人に読んでもらいたいと思う!!
こんな風に物語を書いてみたい。そう思わせる作品でした。
いきなり自分語りになりますが、語らせてください。
『物語の冒頭でインパクトのある話をする』
『主人公にとことん困ったちゃんをぶつける』
『必要ないキャラを出さない』
『主人公が殻をやぶり、未来に目を向ける』
ニール・D・ヒックスのハリウッド脚本術や、浅田直亮のシナリオパラダイス、三宅隆太のスクリプトドクターの脚本教室などなど。小説・シナリオの教本ばかり集めて作品なんか全然作ってない自分にとって、本作品と出会えた事はとてつもない衝撃でした。
主人公・安藤純は作中でよく「思考の先読み」を行います。
読者として読み進めている途中、純の思考の先読みによって要点がまとめられストレスなく読み進められました。思考の先読みをされることで純への共感性が強くなり、純の心境が大きく変化する佳境での彼の振る舞いにとても心を動かされました。
とても丁寧に作ったんだと感じます。
まず作者として書き進め、読者として読み返して場面場面で読者はどう思うだろうかを検証していったのでしょうか。その配慮が思考の先読みとなり、純の物語への読者を引っぱる力がとても強まっています。
物語のアクセントとなる小物を使い方も上手く、インパクトのある題材の世界観を強く広げています。本当に上手い。
文句なしの星3です。
タイトルに騙されて(悪い意味ではありません)巷に溢れるBL小説だと思って読み始めると、怪我をします。
少しネタバレになるかもしれません。
ご容赦ください。
作中で三浦さんが語る「BL星」の甘やかな恋愛劇はここにはありません。
あるのは、普通の高校生の等身大の悩み。
高校生が抱えるには些か重すぎる悩みです。
彼の悩みの根底は、世間に許されないことではなく、自身が許せないことではないかと思います。
そんな彼が、ホモが好きで、彼が好きで、決して逃げない、彼女に出会えた奇跡。
逃げずに向き合うことを選んだ勇気。
彼の未来が温かいものであることを祈ります。
素晴らしい作品です。
タイトルに騙されて若干怪我をしましたが(笑)気持ちの好い痛みです。
ありがとうございました。
普遍性のあるレビューを求められている場でいかにもカクヨム的な表現を用いるのは気が引けますし、大事な冒頭をこのような話からはじめるのもいささか気後れはしますが、私はもともと「この作品は★が3個では足りない」といった言葉から開始された、しかし(超主観的には)中身の薄いレビュー文にあまり良い印象を抱いていませんでした。もちろんその作品への強い想いがこちらまで伝わってくるようなレビューは話が別ではありますが、兎角私は個人的にそのような表現を好いていませんでしたし、従って自分自身が使うことは決してないだろうと半ば約束事のように思っていました。
しかし私は、やはり超主観的に断言します。
この作品を評価するには、★3個などでは到底足りません、と。
もともと私は本作がカクヨム内で注目を集めだしていた時期に一度手に取り、しかし途中離脱した経緯があります。それは主人公の特性、物語の中でしかるべくして与えられた彼の苦悩が、気軽に読むには重すぎたということが原因でした。といっても本作の文体は変に固く気取らない一人称視点であり、地の文にも心情が適度に染み出している平易な文章です。決して読みにくかったというわけではなく、むしろこれほど読みやすい文章は他にあまり例を見ないほど、私にとっては可読性の高い文章でした。
しかし私は主人公の抱える悩みと物語の伝えんとしていることを、真正面から受け止めるだけの覚悟と心構えを持つことができず、離脱していました。
彼らに、作者に、失礼な行いだと思ったからでした。
時を経て二度目に本作を手に取ったのが今回のことです。この頃になると本作はすでにカクヨム内のビッグコンテンツの仲間入りを十二分に果たしており(それは作者様の当時の近況ノートからも明らかでしょう)、今度は前回とはまったく異なる理由で、手に取ることすら躊躇われる状況でした。
私は必要とされる覚悟のハードルが嫌が上にも高まってしまったような感覚を覚え、気後れしていたのだと思います。
しかしもう一度断言します。この作品を評価するには、★3個などでは到底足りないと。
一気読みでした。心を掴んで離さない言葉や表現が、やはり心を掴んで離さない人々の心情とともに立ち現れて、私のことをまったく逃がしてくれませんでした。実は私があまり好んでいない表現にはもうひとつ「この作品を読んで泣きました」という系統があります。しかし私は数話を読んだ時点で「これは泣くかもしれない」と直感しました。いや、それはもはや確信でした。
私はここカクヨムで初めて、作品を拝読する中で実際に涙を流しました。
涙の情動を直感したとき、私は同時に胸にやりきれないわだかまり、より言葉を砕けば正直なところ吐き気のするようなもやもやをも同時に胸に抱えていました。私は素直に困惑し、感情を言語化しようと試み、そして挫折しました。読み進めれば何か明確化するための手がかりが得られるかもしれないと期待し、実際に自分が泣いてしまうか、あるいは読書体力が完全に底を尽きるかのどちらかの時が訪れるまで、ページをめくることを決意しました。それはもうほとんど意地でした。そうさせるほどの力が、魅力が、引力が、この作品にはありました。
そして先に述べたように自分が泣いていることを理解したとき、ああ、これが自分が求めていた瞬間だったんだな、と漠然と思いました。
それは主人公を愛してくれる等身大の女性が、誰もが納得できる形で彼への愛を示し切った瞬間で――その行動は物語の中で感動し暴動を起こすことが設定されたその他大勢の心だけではなくて、モニターの向こう側にいるまったく関係のない生身の、読者の心をも揺さぶる力を持っていたのだと思います。
愛と言えば一言で片付く感情を誰にでも納得できる形で描き出すのは本当はとても難しいのに――彼女はそれを、やってのけました。愛を人前で発露するのは難しいだとか、人前で問題行動とみなされる大きなアクションを起こすのは難しいだとか、そういったこととはまったく別次元の難しさを持つ「純粋な愛を証明する」という行いが、そこには克明に刻まれていたのだと思います。少なくとも私にはそう映りました。
これだけで、このシーンに辿り着いただけで、私は本作を読んだ甲斐があったと心底感じました。
その女性、あるいは主人公の彼女が、どこまでも純真に主人公を想い続ける人間だったこと。その愛を、主人公も痛いほど理解していたこと。しかし主人公は、その想いに応えてあげられないこと――タイトルにもある通り、主人公が同性愛というものに向き合っていくことが当然本作の主題、主軸でしょう。しかし彼女が貫いた愛は、決してその主題を装飾し、彩り、深みを持たせるためだけの舞台装置ではありませんでした。彼女の心は主人公の目からも痛いくらいに伝わってくるほど鮮烈です。そしてその愛情の在り方それ自体が、本作が「同性愛」だけではなくより普遍的な「愛」を語るための物語になる必要条件の主翼の大部分を、これでもかというほど担っていたのだと思います。
同性愛は愛のひとつの形にすぎない。
言葉で表せば至極当然に見えるこのステートメント――これを本当に血の通った信条に引き上げるとき、あるいはその信条を獲得するための心情のカケラを探し求めるとき、彼が彼女から受けたような一途で一心な愛なくしては、その試みは十中八九失敗に終わるでしょう。
彼女が主人公に向けた愛はもちろん異性愛ではありますが、心の底から誰かを愛するという心の揺れ動きそのものを間近で知り、そして実感させられるためには、彼女の存在は必要不可欠でした。
彼女の存在は偉大でした。
と、私は思います。
私の胸に響いた本作の大きな魅力は(小さな魅力まで語りだしたらきりがありません)もうひとつあります。満を辞して、主人公「僕」の登場です。
本作を読む上で避けては通れない要素ですが、彼は自身の性趣向に関して深く暗い悩みを抱えていました。悩みと呼ぶにはあまりに大きい苦悩かもしれません。彼はそれを中身の見える透明なガラスケースに閉じ込めながら、しかし毎日欠かさず眺めて日々を過ごしています。いつ何時もそれに思索を巡らせ、苦しみ、向き合い、ある意味では逃げ、自己嫌悪と他者嫌悪の境をブランコのように往復し、しかし肝心なところで自身が立ち行かなくならないよう、距離を置いて眺め、部分的に割り切るように。
彼の抱える問題と苦悩は主張としてはいたってシンプルですが、しかしまた現実世界に投影すると途端に複雑になります。悩みというものは得てしてそうだとはいえ彼の場合はそれが顕著で、内包しているのは簡単なレッテル貼りで単純化できない、してはいけない、噎せ返るような生々しさです。しかし実社会では、簡単なレッテル貼りが横行した果ての本質捨象祭りで組み上げられた世間のイメージ、その無理解さが彼の内心を搔き乱し続けます。そしてその苦悩というのは、物語で終始ぶれることなく一貫しています。
異性愛者が夢見る幸せの形は自分だって同じように夢見ている。できることならこの手に実際に叶えたい。妥協でも偽りの顔でも社会的体裁でもなくそうした「普通」と見倣される未来を築きたい。ただシンプルに、同性とは違い異性には体が反応してくれない。ただそれだけのことを、人は理解してくれない。
彼はそれを作中で何度も何度も、誰と接するときもどこにいるときも、どんな状況でも、折に触れて痛感することになります。そして徹頭徹尾、主人公は自身の性趣向が生む問題の根源を、その責任の所在を、愛せないという気持ちではなく反応しない体に見ていたように思います。そういうふうに体ができているからどうしようもない。結果心までもが影響されている(とはいえ、そのさらに根元には成長途中における父親の不在という精神的欠損が尾を引いているのかもしれないと述べられてはいます)。主人公は実際に彼の彼女を好きだと認知し、そこに偽りはないと何度も繰り返し確かめ(あるいは言い聞かせ)ていますが、それは恋愛感情の好きなのか。自分は心の底から異性を愛せるのか。答えは出るようで出ないまま、ただひとつ明らかに明らかなことは、体は一切反応しないということだと。
ただ彼の苦悩する内容、その文面は変わらずとも、彼の周囲は目まぐるしく変化していきます。その中でこの苦悩は部分的に解消されることもステップを経ることもないまま、多面的な切り口で分解と観察だけがなされてゆきます。主人公と同じ世界を共有する者たちの三者三様の心のあり方、主人公の世界を感覚的に理解できない悲しいかなこの世界のマジョリティたちの十人十色の意見、想い。それらに触れ、ときに深く関わり、深く傷つき、深く傷つけ、深く知り、深く理解し、深く理解させ、失い、失い、失い――主人公は結局ハッピーエンドやバッドエンドと簡単に区切ることのできはしない、極めて個人的なひとりの同性愛者の、ひとりの男子高校生の、ひとりの異性を愛そうとした男の、未来を紡ぎます。彼の選択です。分かりやすい幸せを迎える幕引きでもなければ、不必要かつ無意味に絶望に叩き落とされる終結でもありません。彼は決して短くはない期間に得たたくさんの経験を確かに骨身に脳に受け止めて、階段を踏み外すことなく、踏み落とされることもなく、未来に手を伸ばそうとあがきもがき、決別し、しかし確かに前進の一歩を踏み出したのだと思います。
彼の悩みはシンプルです。そして誰も理解してはくれません。しかし彼の周囲の何人かはある一件から本気で理解しようと努力し、その過程で彼の彼女はより一段と、ますます煌々と彼への思慕を輝かせ、真っ直ぐに深め、彼の心に結果的に計り知れない影響を与えました。それらすべてが彼の未来をほのかに、けれど確かに明るくしました。
彼の中に通された芯はより太さと強度を増し、彼は彼を愛せるようになりました。
本作の拝読中に涙を流したことに気付いてから、どのように最終話まで読了したのかもう覚えていません。ただ読みはじめる前は明らかに空腹だった体が飢えを訴えなくなり、その後取り込んだ食事が実際に喉を通らなかったことだけは事実です。かつ引き絞られるような辛さに胃が悲鳴をあげ、口から入ってきたすべてのもの(間違って入ってきた空気さえも)を拒絶し、同時にどうしても本作に対して何か言葉を残したいという気持ちが逸りすぎて気持ちの悪さに拍車がかかったこともまた、本作の訴える力がいかに強大だったかを如実に表す(私にとってはまああまり好ましくない)事実でした。
心をこえて体にまで深い抉り傷と感動を残した本作は、私の中では間違いなく傑作かつ名作であり続けるでしょう。ああ、本当に★3個などでは到底足りません。というか(もちろん他作について語るという行為が烏滸がましいのは重々承知の上で)この程度では全然語り足りません。切実に1日48時間欲しい。
主人公の門出が(本作では徹底的に意地悪でもある)神様方に祝福された、前途の明るいものであることを祈っています。
語り足りない。
もどかしくて悔しい。
焼け付くようなこの思いを、これほど強烈に追体験する読書は久しぶりだ。
同性愛者である純は「普通」とは何かを問い、探し続ける。
たどり着く答えは、自己否定。
自分が属さないもの、自分に属さないものが「普通」である、と。
半ば諦めながらも「普通」になろうと試み、何度も事実を突き付けられる。
僕は「普通」になり得ない。
ねえ、待ってよ。
何で君は「普通」でありたい?
何で押しつぶされてるの?
マジョリティがそんなに偉い?
私は同性愛者ではなく、異性愛者であるとも断言できない。
全ての人を憎んだ時期があって、求めてくれるなら誰でもいい時期があった。
確信していることがある。
私も「普通」にはなり得ない。
同性愛者を気持ち悪いと言う風潮が理解できない。
子どもを作りたいという「普通」の願望を持てない。
人前でプレゼンするのは得意なのに、会話ができない。
饒舌な小説を書けても、コミュニケーションの言葉が出てこない。
マイノリティという括り方をするなら、私も純と同じ側にいる。
でも、同性愛者という種類のマイノリティ特有の悩みはないし、
それに基づく偏見に晒された経験も無論ないから、
彼に共感できるところはあっても、彼と同調したとは言えない。
妻子ある男性を彼氏にし、同級生の女子と付き合う。
同性愛者として不倫をし、異性愛者という嘘をつく。
どんどん捻じれて追い詰められていく純を、
「ホモはキモイ」「BLは崇高」、周囲の声が更に混乱させる。
畳みかけるように、信頼するネット越しの友人から悲報が届く。
親に、友達に、世間に、純は全て隠し通さなければならないのに。
もどかしくて悔しい。
「普通」じゃなかったら、生まれてきた意味がないのか。
生きている価値がないのか。
死へと追い立てられねばならないほど、存在すること自体が罪悪なのか。
私も、「普通」になれないことを悩み続けて生きてきた。
「普通」のことを当たり前にできない苦しみは、説明できない。
だってそんなふうに生まれついたんだから。
理解してもらいたくて言葉を尽くしても尽くしても尽くしても、
「何でできないの?」
その一言で、全部の努力が無意味だったと悟る。
自分の存在を丸ごと否定されて、どうでもよくなる。
いずれ強かになれるかと、時間の流れに望みをかけていたけど、
案外そういうものでもないらしい。
マイノリティの葛藤を描く本作に対して「勉強になりました」とか、
そんなお上品でごもっともな感想を口にするつもりはない。
マイノリティへの保護や同調こそ「カッコいい」という、
最近流行りのマジョリティの風潮があんまり好きじゃない。
「普通」になれないひねくれ者らしく、
変な方向から、本作を拝読した感想をまとめてみる。
歴史小説の編集者に力説された。
「史実は真実を伝えない。小説こそが真実を描き出す」
点として残された史料だけで研究を進めても、
かつて生きて死んだ人間の人生を描くことはできないが、
彼がなぜ生きて戦って命を捧げたかを想像し、創造して書かれた
小説の中にならば、彼の人生の真実を描き出すことができる。
歴史研究と歴史小説は違う。
命の真実、人生の真実は、主観的な信念と感情のある場所にしか描けない。
同じことを、舞台を現代に敷衍して述べよう。
同性愛者を始めとするマイノリティが己を押し殺して生きる事実は、
そのあたりにだって転がっていて、暴き立てることは容易だろう。
ただし、それを為したところで、彼らの真実が誰に届くだろうか。
本作『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』の中には、
もどかしくて苦しい日々を生きる同性愛者の少年の真実が、
痛々しくも確かに、克明に描き出されている。
再読、再再読を終えてからレビューを書きたいと思った作品は、カクヨム上では初めてでした。
小説の内容についてはあらすじがすべてだと思います。
というより、まずはそれだけに目を通してから読んでいただきたい。
そして作品の感想についても、自分の感じたことを長々とここに書こうとはなかなか思えません。
作品の魅力を伝えるためのレビューで何を言っておるのかとも思えますが、とにかく、まず読んでいただきたい。前情報なしに読んで、それから自分の中でいろいろと考えてみて欲しいです。
「普通」とは何か、現実におけるこうした問題(問題、というのもしっくりはこないのですが)での「当事者」とは誰なのか。
読む前と読み終わった後では、思うものが違うのではないでしょうか。
思い切った題材を、ずしりと重いだけじゃなく、どこかふわりとしたコミカルさを交えて綴られるのは、作者様の真骨頂だと個人的に思っています。
今回の作品もそれに違わず、目と心で真剣に文字を追いつつも、箇所箇所で笑ったり、じんわりと感じたりするものがありました。
私の人生に影響を与えた小説は、いままで2冊だった。それが、今日、3冊になった。
1冊目は、J・K・ローリングの「ハリーポッター・シリーズ」だ。これがなければ、今の私は多分小説を読んでいないし、ここにこれを書き込むことも、2冊目の本と出会うこともなかった。このシリーズは全世界で3億冊を超えるベストセラーだ。
2冊目は、ヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」だ。これがなければ、今の私は別の私だったと思う。この小説は、読者を分解し、再構築する力を持っている。こちらも全世界で2500万部を超えるベストセラーだ。
そして、3作目となったこの小説は、書籍にすらなっていない。世に出てもベストセラーになるかは分からない。それでも、私に与えた影響は世界的にどれだけ評価されている小説よりも、大きい物だと思う。
この小説が取り扱っているのは、性的マイノリティと腐女子だ。しかし、この物語は私たち一人一人になる。作者がこの題材を選んだ理由は知らないが、結果的にこの題材のチョイスは、極端な例を読み進めて行くうちに、共感し、身近に考えさせる効果を生み出している。だから、この物語の主人公の属性をゲイではなく、例えばアニオタと呼ばれる人だったり、もっと細かく言えば学校教師、小説家、企業戦士などに変えることもできる。プロットは変わるだろうが、それでもゆくつく先は同じだろう。無論、この物語の主人公を私に置き換えることだって出来てしまう。
それは、綺麗事の代名詞とも考えられている「みんな違って、みんな良い」をこれ以上なく丁寧に表現した作品になっているからだ。そして、その結果、綺麗事は煤汚れてしまったけれど、確かに読者の心を掴むことが出来たのだと思う。道徳の教科書に載っている、綺麗事だけとは違う、だけど綺麗事に染まっていて、読者を綺麗事に染めることができるこの物語は、小説の持つ本来の力を、再確認させてくれた。
ところで、私にとってクィーンというバンドは、ジョジョのスタンド名の元ネタに使われているという程度の認識でしかなかったが、これから聞いてみようかなと思う。
最後に、このレビューは書きたいことをまとめずに書いたから、すごく読みにくいと思う。だけど、これを読んだ人が、この小説を読んでくれることを祈ってる。