第13話 ghost triangle

 アタシは、あなたの遠くを見る目が好きだったの。


 それから、筋張った大きな手も大好きだった。優しく撫でるその手が、包み込む両手がとても好きだった。アタシはあなたと貴方を取り巻く柔らかな空間が好きだったの。

 それだけで幸せだった。


 本当にそれだけだったのよ。



 だからね、お願いだから、アタシの中のあなたを嘘つきにしないで……

 

 



 ―――たとえば、僕がこの世に生まれてこなければ未来は変わっていたの? ねえ、教えてよ! お父さん!


 中学一年生の息子が泣きながら部屋で呟いた事があった。こんな言葉を言わせる俺は親失格だ。あの時、自分を責めたよ。何も変わりゃしないのに、自分を責めずにはいられなかった。ずっと渡せずにいる誕生日プレゼントも、キラキラと眩しい笑顔も、バスから降りてくる息子も。俺はあの時、息子を抱きとめてやることが出来なかったんだ。腕の中の幸せが砂のようにこぼれていくばかりで、悲しみ方も泣き方さえも忘れてしまったから、情けないなんて言葉じゃ追いつかなかった。


 ―――傷はついても、また研けば綺麗になる? 僕が綺麗に研くから、お願いだから笑ってよ…… お父さん。


 


 望んだ全ては叶わなくても、あの時は願わずにはいられなかった。いられなかったんだ。



 



 おかしなものね。もう死んでるっていうのに息をすると胸が少し苦しい。心とは裏腹に砕けたパーツをひとつ、またひとつを拾っては、記憶の片隅にそっと片していく。氷のように、たとえそれがすべて溶けてしまっても、それは間違うことなく私のモノになっていく。


 ……だからね。もう、平気。



「夏祭り…… やっぱり浴衣か? いや、作務衣ってのもアリか? 爽やかな開襟シャツはどうだ」

 クローゼットを開けて、既に三十分が経とうとしていた。開襟シャツ、バミューダパンツ、甚平に浴衣、作務衣。頭を抱えるが、いくら考えても彼女に合わせることが出来ない。ユウは薄い黄色のウサギの着ぐるみ……よりによって何故そのチョイス? 合わせるの難しいよ?


『ねえ、カズちゃん…… 本当に行く気あんの?』

「だからこんなにも迷ってんだろ!」

『どれでもいいじゃん、服なんて……』

「そうはいくか! ささやかながらもデートだぞ!」

『はいはい…… デートね、デート』

「なんだよ、冷たい言い方。行きたくないのか?」

『行きたいけど…… 行きたくないのよ』


 胸の奥がチクリとする。

 吹返す記憶を押し込み、俺は嘘つき男になる。そして、精一杯な足掻きを見せた。


「じゃ行くのやめるか!」の台詞は

「そんなこと言うなよ! 真夏の幻は夏の終わりに消えなきゃ…… だろ?」になる。

 

 歌を唄うように嘘を吐き、これ以上ない不格好な笑顔を浮かべる。天井がやたら高く感じる。目眩を起こしそうだ。頭痛い、気持ちが悪い。そう思った瞬間だ、景色が歪み、頭がぐらりと揺れ、俺は真っ白な景色に包まれてた。


『カズちゃん? やだ、なんの冗談? やだ…… やだ…… カズちゃん!』


 

 窓の開いていない、空調の効いていない部屋に居たんだ。水も飲まずにクローゼットとにらめっこしてたんだ。そりゃ倒れるわ、俺。なあ、頼むからそんな泣きそうな顔すんなよ…… って眼鏡なんてかけてどうしたんだよ…… ユウ…… ユウ?


『貴方は本当に馬鹿ですか?』


「うおおおおぉ! 長谷部さん、顔近いですよ!」

『良い大人が何をなさってるんです…… 呆れましたよ』

「この身を削って生きたっていいだろう……ムキになって悪いかよ……」

『貴方は嫌になる程に馬鹿ですよ』

「もう、ほっといてくれよ」

『ええ、もうこれで終わりです。金輪際こちらが勘弁ですよ』

 俺を囲むように二人は俺の顔を覗き込んでいた。幽霊の二人に心配されるって変だよな。長谷部さんは一瞬にして呆れた表情になり、寝室からスっと消えて居なくなった。



「たださ、手を繋いで歩きたかったんだ……やばいよな、俺」

 溢れる想いは押し殺すつもりだった。でもさ、もう本当に会えなくなるなら最後の言葉くらい伝えたかったんだよ。バカだなって笑ってくれると思ってたんだけどな。


『もう…… だからスキなのよ…… カズちゃん』

 彼女はぽたぽたと涙を落とし、俯き首を横に何度も振る。俺はユウを泣かすつもりはなかったのに。本当に何やってんだろうな。


「祭り…… まだ間に合うかな」

『まだ間に合いますよ』

「ああ……」


 ひとりごとのように言った言葉に長谷部さんの声だけが聞こえた。それを最後に長谷部さんを俺はもう見なくなった。長谷部さんの最後の言葉は呆れたように、笑ったような声だった。


 突然現れて、呆気なく居なくなるんだな。気紛れだな、本当に。


 マンションのエレベーターを降りて、うさぎの着ぐるみ姿の彼女と、あんだけ迷ったのに普通の生成りの開襟シャツに麻のカーキ色のパンツの俺。あの無駄な時間はなんだったのだろうか。そう思い、彼女を見下ろした。そんな俺に気がついた彼女はステップを踏むように小さく跳ねる。


『早くいこう! あたしね、あんず飴と水風船と金魚すくいがしたい!』

「そんなにかよ…… 子供みたいだな」

「こういう時は子供でいいのよ!」

 逆光になる彼女の表情はよく見えなかったが嬉しそうな声に俺の心も弾んだ。


 大きくもなく、小さくもない、ごく普通の神社に、ぎゅっとまとめた露店が見える。先ずは、あんず飴を買う。露店のお兄さんがジャンケンで勝てば、ひとつの値段でふたつめをくれると言い、彼女は張り切る。


 結果は彼女の負け。残念な表情を浮かべたがすぐに笑顔であんず飴を口に含んだ。


『美味しい! とっても美味しい!』

「それはそれは、よろしかったですね〜 お嬢様!」

『えへへへ〜』

 本当に少女のように微笑む彼女に俺の頬も緩む。可愛いじゃねえか! コノヤロウ!


 少し歩くと、金魚すくいと水風船が見える。彼女は目を輝かせ『カズちゃん! どっちにしようかな!』と、満面の笑みを向ける。


「どっちもすりゃいいよ」

『ん〜 ……ダメだよ! どっちか! 選んで!』

「じゃ〜 金魚すくい?」

『分かった! カズちゃんも一緒にやろう!』

「おおお! 負けねえかんな! ユウも、手抜くなよ!」


 おじいさんに二人分の料金を支払い、ポイをふたつ受け取り、二人でその場にしゃがむ。赤や黒や様々な金魚が色鮮やかに水の中を泳ぐ。夕方の陽の光をとりこみ幻想的に水の色をきらきらと光り輝く。


『じゃ〜! よ〜い、ドン!』


 彼女の合図でゲームは始まる。


 そっと水面にポイを浸けると、ゆっくりと水が染みていく。それは水面に幾つもの輪を描く。角に金魚を追い込むと、黒い出目金と赤い尾鰭の琉金が水の中を逃げていく。そこを和金が数匹横切っていく。追い詰めた赤い琉金をユウが優しくすくい上げると見事に碗の中へ滑り入れた。


『あたしの方が上手だし〜』

「俺だって負けねえ!」

 そう言ってから俺は、端で行ったり来たりしている黒い出目金をすっとすくい上げた。


『わああ〜 負けちゃう!』

「ははは! ざんねーん! ユウはたった一匹だ! もう一匹取りゃ、俺の勝ち〜」

『カズちゃんだって一匹でしょ!』

 ふたりのポイは調子に乗って同じ大きな赤と白の琉金に手を出した途端に紙は溶けていくように破れた。


「あーあー…… 破けちゃったな〜」

『引き分けだ〜! カズちゃんもう一回!

 もう一回やろう? 』

「なあ、ユウ…… 嫌になるほど、もっと傍に居てくれよ……」


 彼女にどう思われても良かった。

 ただ、素直に気持ちを伝えたかった。どんな顔で、どんな気持ちにさせるかなんて考えもしなかったんだ。本当に勝手だよな、俺。


『これからもずっと傍に居るよ…… 大丈夫、ちゃんと上から見てるから! カズちゃん! シュウのことをちゃんと大きくしてくれてありがとね。すごくいい子に育ってるの正直びっくりしちゃった! 頼りないカズちゃんに似なくてよかったね! って……へへへ』

「ひとこと多いんだよ! 俺らの子供だもんよ、当たり前だろ!」

 彼女は泣くこともせず、俺を見てふんわりと優しく笑った。


 ふたりで一匹ずつ取れた金魚をひとつの袋に入れてもらった。赤い琉金と黒い出目金。なかよく、ふくろの中で弧を描くように泳いでいる。鮮やかに、ゆっくりと遠くからこちらに向かって付いていく神社の照明の灯りが持ち上げた金魚をライトアップした。とても美しく、とても儚く。ふたりは何も言葉が出なかった。どちらからという訳でもなく家に足が向かう。マンションの下まで来て、段々と足が重くなる。もう夏の幻は終わるのか? 俺はカラカラに渇いた喉に無理に唾を飲み込んだ。エレベーターを待つ時間は呆気なくやってくる。ふたりで乗り込むエレベーター。言葉はなく、強く握った手をもう一度、強く俺は握った。エレベーターを降り、ホールから部屋のある廊下を歩くと人影がゆらゆらと見えた。


「お父さん!」

 紙粘土で作ったあの時の金メダルを片手に握りしめたシュウが、エドと一緒に玄関ポーチに立ち尽くしていた。


『シュウちゃん……』

「シュウ…… お前、それ……」

「ふふふん! 懐かしいでしょ? じいちゃん家にあったの勝手に持ってきちゃった!」


 ユウが俺の手をぐっと力を込めて握ってきた。俺はそれに応えるように優しく握り返した。そして、ユウが小刻みに震えているのも伝わってきた。


「僕には何も見えないよ…… でも、どうしてかな、分かるんだよ! ねえ、ママ! 僕はもう大丈夫だからね! お父さんは僕がちゃんと面倒見るからね!」

「んだよ、シュウおまえは…… って偉そうに!」


 俺は懐かしいメダルをシュウから受け取ると両手でそれをユウに見せようと後ろを振り向いた。ふんわりとユリの香りが鼻腔を擽り、玄関ポーチの散歩用のリードが風に揺れた。俺には、最後に彼女が優しく笑ったように見えたんだ……



 もう、そこには彼女の姿はなかった。


「お父さん、ほら! 何してるの? もう中入るよ!」

「ああ…… そ、そうだな!」





 野獣(犬)を抱き上げて、俺は夏の風と共に、この想い出にナマエをつけようと思う。




 ――これは

 夏のマボロシ。

 ゴースト・トライアングルだ!




「ああ〜 お腹減ったよ〜 お父さん今夜はなに?」

「聞いて驚け! 父さん特製のオリーブオイル麺つゆのそうめんだ!」

「もおおお〜、またああ〜!」




 カーテンを開けたままの窓に大輪の花が上がる音が聞こえる。それはリビングに白く光を入れる、まるで夏の雪が降るようだった。






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ghost triangle 櫛木 亮 @kushi-koma

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