第10話 傘をさして雫に写る恋心

 今でもはっきりと覚えているのは、キラキラと夕焼けに照らされた夕立ち。狐の嫁入り。小さな頃、おばあちゃんに教えてもらった言葉。意味なんてよく知らないけれど、好きな言葉と好きな現象だった。


 夕焼けの橙色に染まった、照れ臭そうな貴方の笑顔。紺色の折りたたみ傘をぶっきらぼうに差し出す手。雨宿りで立ち寄った小さな商店の前。短い髪と長い睫毛から雫がゆっくりと落ちる。自分だって濡れてるじゃない。前から傘のさし方が乱暴なのは知ってるけど。前に学校の図書室から見えた菅原くん。部活帰りの数人の中からでも見つけられたのは肩に担ぐ傘のさし方が特徴だったから、だからすぐに見つけられた。くるくると廻す傘から飛び散る雫に、大声で騒ぐ友達に無邪気に笑い返す菅原くんがとても眩しかったのも覚えているよ。だって好きだったから。ずっと好きだったから。

 

 それからね、私に傘を手渡して笑ってこう言ったの。


「それ…… 制服のシャツ! 透けるから……これ使えよ!」

 

 もうびっくりだし、恥ずかしいし、おかしくて笑えてくるし。心が嵐を起こすほどに乱れたのよ。いきなりでずるいのよ。菅原くんは。本当に息が止まるかと思ったの。

 

 もう、人の気持ちも知らないで。

 本当にずるいんだから。


 *****


『その着ぐるみのウサギちゃん。私の提案なんですよ! なかなかでしょう?』

「ウサギちゃんって…… って、あんたまだ居たのか……」

『ええ、居ましたよ。ずーっと、此処にね……』

「ああ、そういう顔して、そういう怖い言い方しないで下さいよ!」

 あのスーツのサラリーマン幽霊だ。辛気臭い表情に銀縁の分厚い眼鏡。オールバックにテカテカのおでこ。どこをどう取っても五十過ぎのサラリーマン。いや、もっと上かも知れない。

 仕事はすごく出来そうだが、家庭では蔑ろにされていそうな佇まいが、寧ろ哀れにすら思えてくる。嫁はどこぞの国の俳優に夢中で。息子、娘は親父の顔を見たら部屋にこもるか、リビングから出ていく始末。口を開けば「金ちょうだいよ!」とかな。

 なんだろうな? 変な映画や変なドラマのワンシーンが目に浮かぶんだよ。あ、これはナイショな?


『息子さん今日はどうしちゃったんですか? お帰りが遅いようですが?』

「ああ~ 今夜は爺さんと婆さんの所に泊まりに行くそうだ…… さっきメールに入ってたよ」

 俺は携帯電話をポケットから出し、それをサラリーマンに見せつけるように半笑いをした。


『おや、だからさっきから寂しそうな顔をなさっているのですね?』

「いやいや…… 貴方がたが此処にずーっといらっしゃるので寂しくはないですよ…… 寂しくはね……」

『じゃあ、どうしてそんな表情をなさってるんです?』

「……なに? 今日は俺にヤケに優しいじゃない! 俺になんか頼みとかあるの?」

『まさか…… ご冗談を!』

 そう言ってサラリーマンは卑屈な顔を見せ、当たり前のように背を丸め、扉をすり抜け廊下に出て行く。ユウは何かを言いたそうにサラリーマンの背を見送った。


『あーあー、行っちゃった…… なんなんだろう……』

「うん? どうした?」

『今日ね? このうさぎの着ぐるみを指さして、コレ着たら敷地から出る事が出来るかもですよ! って長谷部さんが教えてくれたのよ!』

「へえ~…… って、あのオッサン長谷部っていうのか!」

『今そこを言う? それよりナマエ知らなかったの? ってなんかあった? 変な顔……』

「いや…… 変な顔はもともと…… って何言わせんだよ! そうじゃなくて、あの人なんか何処かで見覚えがある気がしてな…… 何処で会ったことあるんだろうな〜 思い出せないんだよ。……何処だっけな~」

『ふ~ん…… で、なんか不思議な感じがしてるんだ?』

「ん~ ……なんかな〜 なんだろな〜 ここまで出かかってるのにな…… まあいいか! それよりもさ~……」

『ん?』

「おまえさ…… プリンって食える?」

『……へ?』

 鞄とコンビニの買い物袋をゆさゆさと上下に軽く揺さぶると、俺は笑みをこぼした。シュウと一緒に食べるつもりだった手土産のプリン。いつもの癖で帰りにコンビニに寄って買ってきてしまった甘味物。シュウが帰るのは明後日の夜。残念なことに賞味期限は明日だ。甘いモノが元来苦手な俺にはふたつも食べることは苦行に近い行為だ。そしてユウの顔をのぞき込むと、歯をむきだして笑ってベランダを指さした。


「なあ、今夜は土曜の夜だろ?」

『そうなの?』

「うん! って、おまえは曜日感覚までないのか? まあ、それはいいんだ! 今日はベランダから、すげえもん見れるぞ!」

『すげえもん? なにそれ?』

「とにかく来いよ! 見たら分かるよ!」

 俺はユウの肩に手を伸ばし、あと一歩のところで触れる瞬間に指先が躊躇した。触れば泡のように消えてしまうんじゃないか? 一時の幸せなの時間は泡沫になってしまうんじゃないか?

 俺は怖くなったんだ。また彼女を失うのかと。真夏の夜の夢であっても、もう少しだけ傍に居たかったのは本当のことだ。ユウの笑顔を忘れたことなんて、一度もなかった。ずっと、ずっと忘れることなんてなかった。ここに居るユウが例え、幻でも。その幻に酔っていたかったんだ。本当だよ。

 ウォーターサーバーのタンクの水がコポコポと音を立て大きな泡が上がっていく。まるで何かを暗示するように。そして、何も無かったように消えていく。

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