第12話 夏の思い出と剥き出しの心と。

 鮮やかに咲く花は、いつかは枯れて儚く散る。幾度となく季節はめぐり、ベランダからの景色を何気なく俺は見る。町を行き交う人が笑い合い、まるで自分だけが取り残された気になった。目を閉じると、ぼやけた景色が見える。あの日のままの止まった笑顔、約束した言葉。情けないほどに目を開けるが怖くなったよ。また失う事を見るのかと。また苦しむことになるのかと。

 もうこんな思いをしないでいいと思ってた。もう見ることもないと思っていたのに。――神様って奴は意地悪だよな?



 姿の見えない蜩の鳴き声は一年に一度。一度聞けたら良いって程に此処はすっかり変わってしまった。緑が減り、マンションが立ち並び、通り沿いの店が幾度も変わった。昔は朝早く聞けることも、夕暮れ時に聞けることも珍しくはなかった。優しく物悲しい歌声のように泣きじゃくる蜩の音。どこか心が痛む音。でも、嫌いじゃなかった。

 雨が降った後の、ほどよい湿度とすこし肌寒い夕暮れにその声は響く。遠く、そして切なく。何かを嘆くように、後悔するように。だれかの心を代弁するかのように。


 昼に鳴いていた蝉は夕暮れ時には静まり返った。代わりに秋の虫が綺麗な音色を奏でる。今年は例年よりも季節の進みが早く感じた。



「やっと…… 泣き止んだか……」

 着ぐるみのままで泣き腫らした瞼と頬を赤く染め、ユウがソファーに横たわる。時折、鼻をすする音としゃくりあげる声が交わる。

 ユウが自分の事をどこまで理解しているかは分からない。だが、現実は辛くて苦しい事には変わらないだろう。誰かに認められたくて存在した真夏の幻。 ――いや、俺の蟠りがカタチとなって現れたのかもな。


『……そんな簡単でしょうかね?』

 その声に俺は怪訝な表情になった。


「ふつうに人の心覗くのやめてくれます?

 長谷部さん……」

『おや……私、貴方に自己紹介しましたか……』

 ちょうど真後ろから、ぼそぼそと小声で俺に声をかけたのは、あのサラリーマンだ。また嫌な演出で、ご登場ですねと、俺は呆れた顔で冷蔵庫の前に立ち、発泡酒を二本取り出す。そして、テーブルに静かに置く。グラスをふたつ食器棚から出し、ことりと渇いた小さな音をたて椅子に座った。


『私が此処に何故来たか…… 菅原さんはもうお分かりのようですね……』

「ああ…… 名字を聞いてやっと思い出したよ…… まさか、こんなカタチで此処に来るとはね…… 正直、驚いたよ……」

『勘違いしないでくださいよ…… 思い詰めて私がそれで自殺したわけじゃないんですよ?』

「そんな事はわかってますよ、まったく何年経ってるんだよ……それに……」

『……それに?』

「長谷部さん、あなたが悪いわけじゃないでしょ……」

 小さな溜息を吐いて俺はグラスを傾け発泡酒を注ぐ。泡がフチぎりぎりまで上がり、まるで自ら驚いたように慌てて沈んでいく。それをゆっくりと、長谷部さんの前に置く。彼はそれに目線を落とすと俺の目にゆっくりと視線を戻した。律儀な雰囲気を全身に感じて背筋が寒くなる。


『おや、そう言ってくださるので?』

「全部タイミング悪かったんだよ……俺が代わりに行ってれば、あの時、ユウに車が突っ込んで来ることもなかったんだよ……結局は俺が悪いんだよ……」

『そういうことは思っても言うもんじゃありませんよ……菅原さん、貴方は何ひとつ悪くは無いですよ……真昼間から酒を飲んで車を運転したうちの従業員のせいです……』

「もういいんだよ……何をいまさら言ったって変わりゃしない……だから、もういいんだよ……」

『菅原さん……』

「それよりも……今こうしてユウに逢えたことが問題だよ」

 俺は眉間に皺を寄せ、無邪気な笑顔を長谷部さんに向けた。いまさら何も変わらないってのは本音だよ。此処に現れたのが偶然じゃないってのは分かってたよ。シュウに着いてきたのは偶然のような必然だったんだろう……自殺の理由は知ったこっちゃないが、ずっと忘れずに生きた事には違いないだろう。こんなふうに思うのもおかしいが哀れだと思うよ……従業員の勝手にやった事のケツをぬぐうなんて……正直、同情するよ。てめえが悪いわけじゃないのにな。まあ、それも偉いさんだからしょうがないとも思うんだが。でも、やっぱ同情はする。受け入れるのが辛いのはどっちもだったと……今なら思えるよ。もしも、生徒が勝手にやったことでも、先生が床に額を擦りつけて謝らないといけない事もないわけじゃない。正直に言うとやっぱり理不尽だと感じる時もあった。描くイメージは鏡に写して思えば、少しは理解出来る。そう……思いたい。


「溢れ出しそうな想いを今、長谷部さんにぶつけたって何も変わんないだろ? それよりも……この現実に頭が着いていかないのよ……」

 そう言って、ソファーで眠るユウに指をさした。ユウを見て長谷部さんは小さな溜息を吐いて眉根を下げた。


『人ゴミに入れば紛れますよ……菅原さん』

「あんたどこまで聞いてたんですか!」

『ずっとです……』

「うわ! 趣味悪! ……盗み聞きだなんて最低……」

『ふふふ……』

 長谷部さんは初めて口元に手をあてがい笑う。優しい笑みは淡い色を生む。あんたが居てくれて救いだったよ。幽霊に何言ってんだって? 俺もそう思うよ。でも、やっぱりそう思っちまう。一人じゃどうにかなってたよ。気が触れてたかも知れない。夏の魔物は泡沫であるべきなんだ。


「ありがとうございます……長谷部さん……」

『菅原さん…… 貴方、まさか……』

「うん?」

『いえ…… なんでも…… 今日は貴方、変ですよ? ほんとに……』

 普通に会話してることには、もう何も違和感もなく、ただ普通に。ありのままで何も変わらないように…… 人に話すように……

 ベランダに出てタバコを吸いながら、もう一度部屋を見るとユウの姿も長谷部さんの姿も消えていた。気まぐれだね、まったく。




『菅原さん…… 我慢しちゃって……』

『しょうがないの! ああいう人なの…… カズちゃんは、いつも自分のことより人のことばっかなの…… ぜーんぜん、変わってない!』

 月の明かりで廊下に長い影が伸びる。消えかかった影がふたつ陽炎のように揺れた。



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