第11話 涙の味と気の抜けた炭酸水

 どうしても知らないフリは出来なかったの。

 

 好きってことは、罪ね。好きにならなければこんなにも苦しい想いはしなかっただろうって? それは嫌。アナタを好きになってないなんてもったいないでしょ? だって、一緒に居ると暖かい気持ちになれるのよ。そりゃ人だもの、喧嘩もするよ? それでも、それでまたひとつアナタを知れるから大事なことなのよ。些細なことでも発見できたらそれだけで幸せな気持ちになれたのよ。って、今はもう何を言っても同じなのよね…… 

 


 ベランダに出ると、顔にあたる風が少し涼しい。所々に空蝉が転がり、それを風が煽る様に吹くと、ころころと渇いた音が鳴る。遠くまで街の明かりが見える。この街は人がたくさん住んでいると気が付く瞬間だ。派手な街ではないが温かな商店街があって、少し大きな本屋がある。パン屋の焼きたてパンの香ばしさが鼻をくすぐり、ゆっくりと出来るカフェの焙煎機が朝から忙しげに稼働する。軒並み様々な店が立ち並ぶこの街は居心地がいい。それが遠からず、このベランダから見えた。隣町に差しかかる大きな川と少し遠くに見える高台の病院。それから天気のいい日は遠くに富士山が見えた。此処は俺たちの思い出の場所だ。遠くには行けない。此処を離れることは決して出来ないだろう。


 ユウは目をキラキラさせ、手すりに顎を乗せ嬉しそうに俺を見る。こちらを見たことにより髪がさらさらと風にのる。甘くユリの香りが鼻の奥を擽ると、ツンと鼻が痛くなった。


『アタシここの景色だけは本当に好き!』

「「だけは」ってなんか引っかかるな! なんかあるんだな! 隠さずに言え!」

『良いの! ナイショ! あと言っても分かんないよ?』

「ふーん…… まあいいけど。お、もうそろそろか? よし! あと数分かな?」

『ねえ? 何? なんなの?』

「まあ、黙って待ってなさい!」

『変な言い方! まるで学校の先生みたいなの!』

 手すりに両手を付き、ベランダからの小さな世界を見渡す彼女はこちらを見て呆れた顔をした。そうか、彼女は俺が学校の先生になったこと知らないのか。

 

 彼女の心は何処で止まっているのだろうか? ここ最近どんどん、しがらみ増えていく。慣れていく楽しさは、離れていく恐怖も作る。新しく植え付けられていく膨大な思い出。

 いつから彼女はこの環境に慣れだしたのだろうか。――それを知ることは罪になるのだろうか? そんなことを、ふと思った。


「学校の先生ですが、問題でもあるかね?」

『へえ……』

「興味無さそうだな?」

『別に……』

 そうユウが言いかけた時、大きな音が鳴った。辺りを包むように遠くの空が赤く染まった。


『わあ! 花火!』

「そ! 花火!」

『大きいな花みたい! 凄いね! 凄いね! とってもきれいだよ! あっちはみどり色、こっちはきいろ!』

 きらきらと目を輝かせ彼女は空に咲く大輪の花に夢中になった。あの時と変わらぬ瞳で無邪気に両手を上げる。


「一個目はクリアだな! 河川敷ってわけにはいかなかったけどな!」

『ううん! じゅうぶんだよ! まさか見れると思わなかった……』

 その言葉をユウから聞けて、俺もほっと胸をなでおろした。


「ユウ……」

『ん?』

「神社の…… 夏祭りいこうか?」

 その言葉に身動きが出来ずに俯くユウは何かをつぶやいく。その言葉と同時に涙の雫が床に、音もなくひとつぶ落ちる。そして小さな身体が小刻みに震えだした。


『やだよ……』

「え?」

『嬉しいこと、楽しいこと、全部消えちゃう…… カズちゃん! アタシ消えたくない! もっとカズちゃんと一緒に此処に居たいよ…… 消えたくなんてないよ! やだよ、いやだよ…… だって、アタシ……もう死んでるんでしょ!』

 着ぐるみに身を包んだ彼女は間違いなくそこに居た。思わず抱きしめた彼女は夢でも幻でもなくて、確かにそこに居て、小さな身体が震えていた。

 床に幾度も涙の雫が落ちていく。淡く煌めきながら消えていく涙は美しかった。今まで見た、なによりも美しかった。


 


 夕暮れ時の蜩の声。どこか切なく、どこか懐かしい。部活帰りの公園の隅を俺は思い出す。


 俺は花火の煙に覆われた今にも泣き出しそうな空を見上げ、息を殺して溜め息をついた。


 


 ――もうすぐ、夏は終わる。

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