第2話 真夏のマボロシ。
唸る洗濯機。叫ぶ掃除機。鼻を鳴らし、だらしなく腹を突き出し横になる愛犬。
嗚呼、暑い。夏は暑い。とにかく暑い。
ベランダに出て煙草に火をつける。手すりに顎を乗せ、当たり前のように遠くを見つめる。遠くで聞こえる子供の声。暑い。
休みだと言ってもやる事はたくさんある。洗濯、掃除、買い出し。世の中のお母様たちに俺は大声で言いたい! ありがとうございます! と。
子供を抱っこしてスーパーで、すれ違うママさんや公園でベビーカーを押す人、本当に尊敬する。俺ときたら家事だけでノックダウン寸前だった。風に揺られるベランダのシーツが太陽の光で目をくらくらとさせる。
「ホント向いてねえな……」
そう小声で呟いて部屋へ戻る。幸い、本日は家で仕事をするだけで学校へ出向くこともない。溜まった汚れ物を片す事が、とにかく今日の最大の敵! ベランダに干せる限界を超える前に考えなくてはいけない夜の献立。ホント……情けない。やるせない。
ピーピーと鳴る洗濯機から三度目の洗濯物を取り出し干す。最後はタオル等を廻す。これが廻り終わるまで少しの休息を考えた俺は財布を尻ポケに差し込みリードを持つ。その音にうちの野獣は激しく反応し俺の横でジャンプする。「さあ! 連れていけ! 付き合ってやるから! お前ひとりじゃ寂しいだろう?」 と、言いたげな野獣(犬)の目は俺をロックオンした。
「ああ! 分かってるよ! そういうイノセントな顔つきで俺を見るな! 連れていくからリードを持ってきたんだろうが! っても側のコンビニまでだぞ?」
その言葉に「了解だ! 相棒!」と、言いたげに後ろ脚をダラリと右にずらし、おすわりをする。コイツも爺さんになりつつあるな。もう6年半か、そりゃ俺もジジイになるわな……苦笑いをして野獣(犬)のカラダにハーネスを付けて玄関に向かった。野獣(犬)は無い尻尾を無駄な動きをつけ加え、一心不乱に振り続ける。靴を履き玄関の鍵を外し扉を開ける。風が扉から廊下を通りベランダまで駆け抜けていく。俺は手でその風を受け目を細めた。
マンションを出て振り返り上を見上げる。高級高層マンションとは言い難い外観のお年寄り一歩手前の古いが渋みだけを増していくマンション。嫌いじゃないぜ? と、思ったかそうじゃないかは別として。分譲だから逃げる程の覚悟がない限り、出ることはないだろう。
歩いて三分で某有名コンビニの前に着く。「オマエはここで待ってろ!」と、店の外のポールに野獣(犬)をくくりつけ中に入る。心地いい風とエアコンの冷たさが入り混じり、ずっとここに居たいと思った。アイスコーヒーとチーズの練りこんだパンを手に取り、野獣(犬)のオヤツをひとつ選びレジで会計を済ます。店から出る俺をちょこんと座り待つ野獣。買ったオヤツを袋からガサガサと出すと、いつもにも増して凛々しい顔でおすわりをする。
「ほら! おりこうでしょ! ほら! ほら!
こんなにもマテが出来ますよ? ほら! 御主人んん!」
口の横からヨダレが溢れ落ちそうだった。そこに店から出てきた小さな男の子と若い母親が野獣(犬)を触っていいかを確認する。『大丈夫ですよ』そう言って俺は笑ってアイスコーヒーにストローを指し口に含むと、コーヒーの香りが鼻を抜ける。野獣(犬)は撫でられて嬉しそうに目を細めてアタマを男の子にゆっくりと下げる。愛想は人(犬)一倍いい。
野獣のナマエは『エドワード』なんて立派な名がついていた。息子が当時流行っていたアニメの主人公のナマエからつけた。キチンと世話するから飼ってもいい? と、ホームセンターでねだる息子に根負けして衝動買いしてしまったエドワードさん。結局俺が面倒見てる気もしない事もないが、こいつのお陰で考え過ぎるという事から何度か逃れられたくらいだ。感謝はしている。
男の子は千切れるかと思えるほどに『バイバーイ!』と、手を振り、若い母親が頭を丁寧に下げ帰っていく。
さてと、俺らも帰るか。マンションに戻り、玄関ポーチでエドワードの脚を丁寧に洗ってやる。タオルで脚を拭き終わると玄関を開ける。エドワードは当たり前のようにベッドルームに入りベッドの上で腹を天に向け、だらしなく寝る。洗濯機を見ると後「15」の表示が見え俺もベッドにゴロンと横になる。この部屋はうちの家で一番涼しい部屋で風が良く通るエアコン要らずの快適な場所だった。
朝が早かった俺はその数分でうとうとしてしまう。静かな部屋にエドワードの鼻がスピスピと寝息を立てる。心地良さの海に俺も落ちていく。嗚呼、暑かったのが嘘のようだ。
しばらくすると、廊下をとおして洗濯機の音が聞こえる。もうすぐ止まると察した俺は起き上がろうとする。が、身体がビクともしない。金縛り? いやああああああ! こういうのって怖いアレでしょ? やめてよおおお! 俺は根っからの怖いモノが苦手で夏でもタオルケットにくるまって寝るほどなのだ。
耳が痛いくらいに音を遮断する。エドワードの気配もしない。目はかろうじて動くようで辺りを見ることが出来る。と、いっても顔が動かせる訳ではないから見える範囲も限られている。って、さっきから心の中で俺何言ってんの?
廊下に何かの気配がする。足元からゆっくりナニカが近付く感じがする。エドワードさんでしょ? ああああああ~俺死んじゃうの? いや! ないないないない! 試行錯誤! 理解不能! このままなんでしたら気を失いたい!
冷たいナニカの指先が俺の足首を触る。と思った途端に跨り乗る重みが腹にダイレクトに伝わった。柔らかい太股が両脇にあたる。夏服に淡い栗色の長い髪、それと甘い香りが鼻を擽った。
『カズちゃん!』
彼女は俺を見てそう呼んだ。垂れ下がる髪の隙間から見える白い肌に色素の薄い瞳の色。血の滲んだような赤い唇。儚げな表情。なんて綺麗なんだろう…と俺は彼女を下から見上げた。
『カズちゃん……じゃない! 誰よ、オッサン? なんでアタシの下に居んのよ!』
そう言い放つと、彼女は慌てて俺から下りると廊下に急いで飛び出ていった。
「だ…… 誰がカズちゃんだあああ! 誰だ! お前はあああああ!」
そう叫んで俺は廊下に出て驚いた。動けてる。って、誰も居ねえ。廊下は薄暗く、どのドアもキチンと閉まっている。ベッドルームをもう一度見るが、エドワードが転がり寝ているだけで何も変わらない、いつもの風景がそこにはあった。
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