第一話 蜃気楼 その5
窓にさす月の明かり。
穏やかな星々の光。
雲一つない夜空。
澄み切った天を薄目に覗く。
ぼんやりした頭で、俺は辺りを見回した。
椅子と机が乱雑に置かれ、そこをパーティションで一定の距離で区切った場所を部屋一帯に何十もの数で敷き詰められていた。
いつの間にか座っていた椅子からよろめきそうになる足を踏ん張りながら、俺はゆっくりと立った。目の前のガラス張りの壁の外を覗くと、遥か下に幾つものビルが敷き詰めあい、まるで鉄の森のようだった。
再び部屋を見渡す。ビルのオフィスのようだったが、どうやってここまで来たのかまったく記憶がなかった。
耳を澄ませど耳鳴りがひどく、それ以外の音はしない。夜のオフィスの不気味さと、部屋の側面一帯を覆うガラス張りの壁からの月明かりに、神秘的な雰囲気を感じさせた。
窓に片一方の手のひらを押し付ける。ひんやりとした温度を感じながら、ネオンの光を眺めた。
沢山の色が夜の街にあふれ、まるでおもちゃを床に散乱させたようだと俺は思った。
ガラスに額をピタッとつけて、夜景を眺めた。圧倒的な風景。それを見下ろすようにそびえる高いビル。そのビルの一角にあるオフィスにいる事に、俺は言いようのない感情が沸き上がっていることに困惑していた。
「ちょっと・・、なんでここにいるの」
聞きなれた女の声が聞こえた。
俺は振り向くと、水石琉子が散乱した椅子を避けながら近づいてきた。
「あなた、笑ってるの?」
「笑ってる?」
「初めて見たわ。まあいいけど」
水石琉子は頭を掻きながら眉間にしわを寄せた。
「達弘。あなた、ここで何をしているのか答えて」
足がわずかに後ずさりしているのが見えたが、俺は気に留めることはなく、すぐにネオンの方に視線を戻した。
「ちょっと、ちゃんと答えて!」
水石琉子が言うと同時に、窓から僅かな振動が手のひらに伝わる。そして暗かったオフィスが明かりを取り戻した。
物音が聞こえ、俺と水石はオフィスの中心に視線を向けた。そこには白を基調とした黒い模様が彩られたローブに身を包んだマヌエラが、テーブルの上でかがんで座っていた。
マヌエラの姿に水石琉子は天使とボソッとつぶやいた。
天使はつまらなそうに笑顔を作る。
「ちょっと待ってよマヌエラ!今から始めるの!?」
水石の叫びはオフィス中に空しく響き渡る。
「これは神の奇跡」
マヌエラが話す後ろで、パーティションの陰から人影が俺達のいる窓際の方に歩いてくる。
「君達三人は、天空ビルの響き渡る鐘によって選ばれた」
白い顎髭をたくわえた白髪の男性が、黙ったままガラス張りの壁のそばで佇む。その姿を横目で見ながら、天使は話を続ける。
「琉子ちゃん。これは君が子供のころから願っていた事だよ」
「じゃあ・・なんで達弘がいるのよ」
「君が呼んだんじゃないの?ミコとなるものを」
不敵な笑みを浮かべながら言うマヌエラ。その突き放したような物言いに水石琉子は苦虫を噛み潰したような表情で俺を睨む。
「祭器は持ってるの?」
「持ってないと思うけどぉ」
俺の代わりに答えたマヌエラに、水石は睨む相手を変える。
「じゃあ意味がないじゃない!」
笑うマヌエラ。
憎しみの目で天使を見る水石琉子。
その異様なオフィスの中で、白髪の男は懐から装飾にまみれたナイフを取り出す。そして何も持っていない左手の親指を軽く切ると、勢いよく床にナイフを突き刺した。喚く水石琉子の喧騒も最初から無かったかのように、淡々と一連の行動を終えると、呆然と見る俺と白髪の男の視線が交わった所で、親指でそれを遮った。
男の垂れるその血は、煌びやかなナイフの柄を赤く染め、やがて刀身へと至る。ポタポタと、音を立てながら。しかし、その血はオフィスに敷かれた絨毯は汚さずに、ナイフだけを汚していく。
俺は窓の外に視線を戻す。汚いものなど見ても楽しくない。どうせ視界に入れるなら、あの神秘的な月のさす明かりと、幾千の星々の光。そして、雲一つない夜空だ。いつのまにか微笑むほどに、俺はこの景色を気に入っていた。
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