第一話 蜃気楼 その8 或いは2
「茜達弘」
マヌエラの言葉に、俺はなぜか復唱した。
風がやむ。
それは奇跡だろうか。
白髭の男も、天使も、隅にいる女も、黙って俺を見ている。そして、骨の化け物も。
俺はワッペンを手のひらに乗せ、再び復唱する。
「茜達弘・・か」
じっとワッペンを見た。ワッペンはゆっくりと、砂となってその形を崩す。
天使が笑った気がした。
ワッペンは完全に崩れ、砂は空中に漂い、きらきらと、夜のネオンに反射する。まるで星々の光のように。
そして、爆音とともにそれは現れ、再び風は吹き荒ぶ。
俺と犬の化け物の間に、銀色の槍が突き刺さっていた。現象としては急に現れたと言った方が正しいのか。だが、ワッペンは消えたが槍からも砂が漏れ出ており、とても頑丈には見えなかった。
「これが俺の祭器?」
「そうだねえ。これが、君の祭器だよ。おめでとう」
マヌエラの言葉はどこか嘲笑っているように思えた。
俺は銀の槍に近づき、柄を握る。砂利を握ったような手触りが伝わってきたのに違和感を感じ、握った手のひらを開いた。
「これは・・」
手のひらには砂のようなものが大量についていた。いや、砂というより錆び・・とも違う。色も白や黒が、そう、白と黒の灰のようにも思えるが、だが明確に冷たく硬いのだ。
「マヌエラ。この冷たい塵はなんだ」
「塵?」
「このジャリジャリしたものだよ」
「そう言われてもね。それが君の祭器という事しか私は知らないよ」
俺の疑問にマヌエラは答えない。マヌエラも知らないのかとぼけているのか。しかし、槍全体が刃こぼれのように塵になって落ちている。これでは使い物にならない。
俺は苦虫をかんだ顔を浮かべようと苦みを想像しようとしたが、じっと見ていた塵とは別の塵が目の前をかすめた。よく見ると、手のひらの塵もわずかに浮いているようだった。
「ちょっと、何もたもたしてるの。早く槍であの化け物をぶっ殺すのよ!」
物騒なことを言う水石琉子は無視して、俺は腕を突き出している格好の骨の化け物目がけて思いっきりパンチをお見舞いした。
そして、俺は骨の化け物を華麗にぶっ倒し、この物語は幸せに終わりを迎えた。
「おい・・やべえなこりゃ」
勝手に妄想した結末にはならず、最悪にも骨に俺の放った拳が巨大な手に掴まれた。
「もうなにやってんのよこのバカチーン!!」
水石琉子の鋭いツッコミは無視して、俺は骨の手から逃れようとするが、まったくビクともしない。
骨の頭蓋の目の空洞と視線が合ったような気がした。
底なしの沼。だが、何も見えない暗闇のはずが、光が微かに見えた気がした。それとても希望にあふれ、温かい眼差しのような感覚に陥った。囁く声のように、或いは力強く、とても心地よく、揺蕩うゆりかごの中で、俺は不思議なデジャビュを感じた。
急に腕が引っ張られ、体が遅れてその力によって重力から引き離される。
俺は思わず息を止める。体が飛ばされたのだ。
欠けた涙のようなガラスの粒が俺の体の周りを包んでいく。まだ割れていない窓に思いっきり投げつけられたようだった。キラキラと光るガラスが遠ざかりながら、水石琉子やマヌエラ、それに俺を投げた骨の化け物さえも俺を呆然と見ていたが、白髭の男だけは、ずっと血を垂らしたまま、じっと動かずに立っているだけだった。その男に文句の一つでも言いたかったが、時間は巻き戻ってくれない。ガラスも元通りにはならないのだ。
そして、俺はビルの外に放り出された。
今度のキラキラは夜の星々とネオンの光だった。とても綺麗だがその光は目まぐるしく散乱している。いや、俺の体が宙に投げ飛ばされた事の理解と結果が想像できず、自分の思考が散乱しているのだ。
体全身に感じる猛威の風が、無慈悲な冷たさを叩きこまれた。死が脳裏によぎる。
そして、俺の周りでキラキラと塵が舞う。滑稽な俺を、無力な俺をあざ笑うかのように。
「塵は土に」
俺は塵によって空中で大地なしに立ち、犬のような滑稽な骨を見下ろす。
「せめて安らかに」
俺は銀色に輝く塵とともに、骨の化け物まで引っ張られるように、初速は遅く、そしてその骨の顔に蹴りが届くころには誰の目にも捉えられないほどに早く、元いた場所へと骨の化け物が倒れる轟音とともに帰る。
ボロボロになっている銀の槍に俺は手をかざし、槍は俺の手元に引き寄せられ、その槍を逆手に持つ。
「塵とともに眠れ」
俺は槍を振り上げて思いっきり骨の化け物の頭蓋骨に突き刺した。
骨は風の吹く音のような儚い音を短いあいだ奏でると、槍とともに塵へと変わり床に噴煙を巻き上げた。
俺の手には銀の槍はなく、青いワッペンがほころびのない形で戻っていた。
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