第一話 蜃気楼  その4



 頬にくすぐったい感触があった。何度かその辺りを指で掻くが一向に治まらず、俺は身を起こした。

「あ、生きてた」

 白を基調とした黒い鮮やかな模様の入ったローブを着た長髪の女が、あどけない笑顔で言った。

「あんた誰だ」

「天使」

 満面の笑みで答える女の手に持っている小枝を一瞥すると、それに気づいたのか女は小枝を揺らした。

 俺は立ち上がり、辺りを見回した。青と赤が地平線に吸い込まれ、夕闇に誘われていた。



 ほぼ暗闇に近い、真っ青な色に塗られた帳の顔で、女は言った。

「君、いじめられてたの?」

 冷たい風が流れ、僅かに背筋が震えた。

「ただの、すれ違いだ」

 俺は答えたが、女は小枝を手のひらでクルクル回しながら、興味なさそうな表情でふーんと返事を返した。

「まさか、我ら天使機構がたかだか子供の喧嘩に介入すると思ってるのかい」

「さあ、どうだろう」

「私はここ、御剣市の担当天使官だ。マヌエラ。聞いたことは一度くらいあるでしょう」

 俺は返事の代わりに、左右の手のひらを広げていいえと表した。途端にマヌエラは立ち上がった。

「え!?ないの?自分の町の担当天使官を!?」 

 ハトが豆鉄砲食らったような顔のマヌエラに、俺は少し後ずさった。

「あー・・、覚えておきます」

「ぜひそうして・・」

 気をつけて帰るようにと肩を叩かれ、マヌエラと俺は別れた。


 俺は自分の頬を何気なく触った。あれだけ森島たちに殴られたはずなのに、痛みを感じなかった。

 もう一度再確認するように、頬以外にも体のあちこちを触ってみたが、やはり痛みはなく、ただ寒気だけが体を覆っていた。

 一瞬森島たちとの喧嘩は夢だったのかと思ったが、服の汚れ具合から争った形跡だと容易に想像がつき、その思い付きはすぐに捨てた。何より、やはり殴られた時の痛みは脳に刻まれているのだ。だからこそ、今の状態に体が違和感を感じていた。



 遠くで叫んでいる声が聞こえ、見上げると土手で手を振っているマヌエラが薄っすらと見えた。

 俺は反射的に手を振り返すと河川敷から土手へと上り、マヌエラとは逆方向に歩いて行った。


 暗い夜道、家路へと着く住宅街の外れ。

 街灯の当たる近くに自販機を見つけ、硬貨を投入口に投げ入れ、飲み物を買った。

 キャップを開け、ペットボトルに口をつける。


 甘ったるい味とともに、僅かに錆びた鉄の味がした。


 ペットボトルから口を離す。



 街灯に浮かび上がるアスファルト。その先に気配を感じて俺は後ろを振り向いた。


 もちろん誰もいない。何も聞こえない。


 そう、何も聞こえはしないのだ。


 キーンコーンカーンコーン。なぜか学校のチャイムが頭の中を巡った。


 寂しく、孤独に。


 鳴く虫のように、最初からいたかのように。


 あれは、そう。


 鐘の音だ。


 あの大きいビルから細い糸を垂らすように。


 天空ビルから鐘の音が鳴っているのだ。

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