眼鏡のワルツ

新樫 樹

眼鏡のワルツ

 あなたが辛い物を好きになったのは、絶対にわたしの影響よね。

 出会ったころは普通の辛さのカレーでさえ食べられなかったのに、今はキムチが大好きで、頼まないのに買ってくる。

 わたしが家で靴下を履かなくなったのは、あなたの影響。

 昔は朝から夜お風呂に入るまで靴下を履いていたかったのに、今は家にいるときには絶対に裸足。あなたの真似して一回脱いだら、もう履けなくなったのよ。

 食卓に必ず生野菜を出すようになったのは、いつの間にか。今では食事時の暗黙のルール。


 一緒に暮らす間には、こんなふうにお互いの輪郭が少しずつ滲んで混じりあって、入れ替わったり新しい色が出来上がったりしてる。

 それが不思議で心地いい。


 アルコールを一滴も飲めないあなたが、この間、箱でビールを買ってきた。

「シール集めてるんだよ」

 そんなこと言ってたけど、それだけのためにお小遣いで買ってきたの?

 もしかして、わたしがビール好きだから?

 たくさん飲ませてくれようとしたの?


 わたしはあんまり自分のことを言えない。

 愚痴なんかを人に言うと、かえってストレスが溜まる。聞かされた人は嫌じゃなかったかなとか、どう思ったかなとか…ぐるぐる考えて。

 だからあなたにはいちばん言えなかった。

 言ったら嫌われちゃうと思ったから。

 なのに、てっきりあなたは早く寝てしまったと思っていて、ビールをいつもよりたくさん飲んだ週末。

「飲んでたの?」

 突然声をかけられてびっくりした。

 でももう頭の中は酔っ払いで、だからついつい余計なことまで言って。


 わたしの頑張りなんて誰もわかってくれない。

 やって当たり前、できなきゃダメなやつだって思われる。

 どうせわたしなんて。

 わたしの努力なんてダメダメなんだよぉ……。


 テーブルの上にはビールの缶が三本。

 テレビは見ていたようないないようなN響定期演奏会。

 

 黙って聞いていたあなたが言った。

「オレは知ってるよ。ちゃんと見てる」


 きれいな調べが部屋をすいすい流れて回る。ドナウ川の色は知らないけれど、水色の流れが部屋を回ってる。


「オレはわかってるよ。それでいいだろ。大丈夫だ」


 優しい言葉もそれに乗って、わたしの周りをすいすい回る。これはいったい何色だろう。

 くらりくらりと気持ちのいい頭。

 そうだね。あなたがいるなら、それでいいね。

 酔っ払いは、手を引かれて立ち上がる。

 そうしてふうっとあなたに収まる。


「踊れるの?」

「いや。ぜんぜん」

「あははは」

「でも、ワルツっぽいだろ」


 知ってる? 

 ワルツはズンチャッチャじゃないんだよ。ズチャッ、チャなんだよ。

 わたしの他愛ない雑学を、あなたの眼鏡の奥の目が笑って聞いている。

 あなたがクラシックを聴くようになったのは、わたしの影響。

 わたしが野球のルールを覚えたのは、あなたの影響…。


 くるり、くるり。

 わたしとあなたが回ってる。

 心の端っこが滲み合って混じりあうみたいだ。

 

 あなたがいるから、大丈夫。

 あなたはわたしを、ちゃんと好きでいてくれる。

 そしたらあなたはちょっとだけ、わたしに嫌われたらどうしようって、どきどきしてくれたらいいな。

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眼鏡のワルツ 新樫 樹 @arakashi-itsuki

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