◇ あじさいの雨 ◇
あれから二ヶ月、あじさいのシーズンはすっかり終わってしまっていた。
あじさい通りの家々の庭には、今は黄色いひまわりが咲き誇っている。いつの間にか季節は流れて、やっと退院できた僕は、再び『あじさい屋敷』を訪れようとしていた。
父の車で近くまで連れてきて貰い、少し離れた場所で用事が終わるまで、父が車の中で待ってくれている。僕は車から降りると、ひとりで松葉杖をついて歩く。
傷は背中の刺し傷、それはあまり深くはなかった。打撲も多々あったが大したことはない。――やはり拳銃の傷は重かった。肩を貫通した銃弾は上部をかすっただけだったので骨は大丈夫だった。問題は大腿部をに打ちこまれた弾が骨に食い込み、摘出手術と骨折した骨を繋いだ。そのせいで入院が長引き、その後、リハビリもあったから……。
友人の茜は事件のことを知って、心配した青い目のフィアンセが迎えにきて、急遽、アメリカへ帰って行った。落ち着いたら、この事件のことを論文に書くと茜は張り切っていた。秋にはサンフランシスコで結婚式を挙げるらしい。
彼女にケガがなかったことが、この事件の唯一の救いだったと思う。
――事件から二ヶ月経った。
今、やっと世間はこの事件のことを忘れ始めている。資産家の屋敷で起きた奇怪な事件。
冷凍死体の夫の側で拳銃自殺をした妻、そして監禁されていた若い男女。それは世間の注目を浴びるのに恰好の事件であった。
僕も茜も何度も警察の事情徴収を受けたが、伊達尚樹の妻が多重人格だということを警察に理解させることは到底無理なことだった。
ヴェネツィアで犯した犯罪や伊達侑子が生きていたことなどを説明しても、捜査が混乱するだけなので、こっそり茜と相談して、精神病(
伊達尚樹の妻の名前は侑子ではなく、
旧姓は
ゆっくりと松葉杖をついて、伊達家の正門にまで歩いて行った。
今、あじさい屋敷は無人になっている。子どもも近親者もいない当主の伊達尚樹の財産を誰が相続するのか、今は調査中である。それまでは『日高会計事務所』で保管管理する形になっている。所長の父から預かった鍵で門扉を開けて中に入る。
艶やかだったあじさいの庭は、花が枯れてしまいそのまま枝にぶら下がっている。茶色く変色したあじさいの花たちは
君がよく庭仕事をしていた辺りに献花を置いた。
季節外れでどこにも売ってなくて……花屋に無理やり頼んで海外から取り寄せて貰った。――君が好きだと言っていた、白いあじさいの花。
あじさい屋敷で何があったのか、伊達家の妻と僕との関係について、父は何も質問しようとしない。
おそらく警察で伊達家の財産や、息子の僕と伊達美奈子との関係について、事情徴収されたと思うが、父がどう答えたかは知らない。
息子の不利になることは絶対にしゃべらない、信頼できる僕の親父だから――。あの朋子さんでさえ、根堀り葉折り訊こうとはしない。きっと、僕の悲しみの深さを感じて、心を傷が癒えるのを見守ってくれているのだろう。
僕の心の中では、病気の君を救ってあげられなかった悔しさが
人格が統合してしまえば、真亜子はいなくなってしまうけど、それでも死なせずに助けてあげたかったんだ!
初めて君を抱いた時には、それほどの感動もなかったのに、君を
数少ない君との想い出を抱き締めれば……涙が頬を伝う。――いいんだ。今日は真亜子を想って涙を流すためにここへやって来たのだから、そして明日から新たな自分の一歩を踏み出すよ。
――さよなら真亜子、あじさいの君へ。
様々な色に変る君は、本当の色を失くした哀しいあじさいだった。
「もしもし、父さん迎えにきて……」
携帯から連絡を入れた。
「……ああ、もういいのか?」
居眠りしていたような声で父が答えた。
「うん。門の前にいるから」
「――あじさい通り、今はひまわりがきれいだな」
「もう、あじさいの季節は終わったから……」
「そうだな」
「終わったんだ」
「……そうか」
「日高所長、明日から仕事頑張る。いろいろ迷惑かけてゴメン!」
「おう、頼んだぞ。いつまでも見習いの日高くんではダメだぞ。あははっ」
「はい!」
父の車がこっちに向かって走ってくるのが見えた。
――晴れ渡った青い空、ひまわりの咲くこの季節。
心の中の白いあじさいに、僕は『さよなら』を告げていく。
― おわり―
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