◆ 額あじさい ◆

 君はあじさいの海に浮かぶ白い小舟のようだった。

 一面あじさいの咲き乱れる庭先に立って、ハサミで花を摘んでいた。祈るような真摯しんしな目であじさいの花を一本一本摘み取っていく、それは、まるで何か儀式のような荘厳な印象を受けた。僕は声も掛けられないまま、塀の向こうから、ただ佇んで、じっと君を見つめていた――。

 あじさい通りの中でも、ひと際目立つ伊達家のあじさいの庭。少し低めの塀で外からでもよく見られるようになっていた。僕は伊達家の来客用の外ガレージに自動車を停めて、正面の門からインターフォンを押してみたが返事がない。それで長い塀の周りをぐるりと歩いていったら、君が庭先に立っていた。

 たしか使用人を全員辞めさせて、今は週に三、四日だけ通いの家政婦がきていると朋子さんが言っていた。こんな大きな屋敷に夫婦ふたりか、夫が海外に居る時は、ひとりぼっちで暮らしているのかと思うと……君の生活はずいぶんと孤独だ。


 僕の視線に気づいたのか、君がこっちを見て軽く会釈をした。その瞬間、君に見惚れてにかかったように硬直していた、僕が動き出した。

「こんにちは。あのう『日高会計事務所』の者ですが……」

「あら、遼さん」

「えっ! あははっ……」

 いきなり名前で呼ばれて、僕は訳もなく照れてしまった。

「君は誰ですか?」

真亜子まあこです」

「真亜子さんか、良かった。君となら話が出来る」

 あの日と同じ、君はあじさいの花を手に持っている。

「どうぞ、中にお入りください」

 そう言うと、正門に回って門扉を開けてくれた。門から屋敷に向かう君の後ろから、あじさいの庭を眺めながら僕はついて行った。

 それにしても立派な屋敷だった。古い西洋建築でよく映画なんかに出てくる洋館といった造りである。とんがり屋根と風見鶏、外壁は赤い煉瓦造り、神戸にある異人館でみたことがあるような、そんな洒落た洋館には住む人の拘りを感じさせる。

 玄関を開けると、三階まで吹き抜けの天井からゴージャスなシャンデリアが吊られていた。室内の家具もアンティークで落ち着いた雰囲気だった。壁や飾り棚には絵画や陶器などの美術品が飾られている。

 まさに目を見張るばかりの調度品の数々、ぜいくすとは……こういう暮らし振りのことをいうのだろうか? 

 伊達家は何もしなくてもお金が入ってくる、桁外れの金持ちなのだ。だけど、いくら財産があっても、こんな広い屋敷にひとりで暮らしている君のことを、僕は幸せな人間だとは……とても思えなかった――。

 三十畳はあろうかと思う広い応接室に通された僕は、豪華過ぎるソファーに落ち着かない。ゆったりとした肘置き、包み込むような質感、使い込むほどに艶が出る渋いグリーンのなめし皮。輸入家具のお店をやっている当主が選んだリビングセットだから、かなり高価な家具だろうと容易に想像がつく。

 応接室の大きな出窓からはあじさいの庭がよく見渡せる。古いアンティークオーディオのレコードプレヤーからはモーツアルトのデイヴェティメントが流れてくる。白いレースのカーテンが風で揺れていた。――ここは現実世界から隔離された、まるで夢幻むげんの部屋だった。


「お待たせしました」

 君がティーセットを運んできた。

 ティーポットにはちゃんと布のカバーを掛けてあって、どうやら本格的な紅茶をご馳走してくれるようだ。

「アフタヌーンティーをご一緒できて嬉しいわ」

 カップに紅茶を注ぎながら、優しい笑顔で君が言う。

 多重人格さえ出なければ、こんなにチャーミングなのに……しかし、待てよ。この真亜子が基本人格なのかな?

「どうぞ」

「ありがとう」

「紅茶のシャンパン、ダージリンです」

「甘く上品な香りだね」 

 紅茶はシャンパンゴールドの薄い茶色だったが、口に含むと甘みのある豊かな味わいがする。僕はいつもコーヒーしか飲まないけれど、こんな雰囲気の部屋で飲む紅茶は格別だと思った。マイセンのティーセットとイギリス風にスコーンが添えてある。馥郁ふくいくたる紅茶の香りと、優雅な君のしぐさに僕は見惚れてしまっている。

 君とは身体の関係を持ってしまったが、人妻であることを今の僕は知っている。真亜子と桃華、別人格のふたりを抱いた僕は、それぞれ違う女を抱いた印象だった。

 今、目の前に居る君。この人が僕の中で一番深い印象だ。――白いあじさいの人、真亜子まあこ


「あのう、ご用件はなんでしょうか?」

 一杯目の紅茶を飲み終えて、次のお茶をカップに注ぎながら君が訊いた。そういえば、用件も聞かずに屋敷に通してくれたのだ。

 僕は膝に乗せていた茶封筒をチラリと見せて、

「――これは口実で、実は君の話を聞きたくてきたんだ」

「そうなの?」

「うん。君の多重人格たじゅうじんかくのこと、ご主人は知っているのかい?」

「ええ、気付いていると思う」

「ご主人はなんて言っているんだ? 病院には行ったの?」

 そう聞くと君は首を横に振り、困ったように俯いてしまった。

「ちゃんと病院で治療を受けて治した方がいいよ」

「……だけど」

「人格を統合して、ひとりの君に戻さないと苦しいだろう?」

「……そうしたら、わたしは消えてしまいます」

「えっ! 真亜子が基本人格ではないのか?」

「違います! 基本人格は眠っています。起こすと……彼女は自殺してしまうから……」

 真亜子が基本人格ではない事実にぼくはうろたえた。

「どうして、そんな風に人格が分裂してしまったんだろう? 真亜子は何か原因を知っている?」

「時々、わたしの心の中で人格たちが話をします。古くからいる人格に寄ると……基本人格は子どもの頃、厳格できびしい両親の元で育てられました。期待に添える子どもになろうとして、自分自身を抑えて、抑えて……生きてきたらしいのです。内面に籠った不満やストレスが『桃華ももか』という自由奔放な人格を作りました。そしてもうひとり……とても凶暴な人格も生まれたのです」

「それは……こないだ僕を突き飛ばした人格だな?」

「彼女は危険です。怒りと憎悪と破滅の人格なのです」

「うん。すごく殺気立っていた」

 あの眼は、今思いだしても寒気がするほど冷酷な眼差しだった。

「凶暴な人格を押さえるために、わたしが生まれました」

「まだ、他にも人格はいるの?」

 その問いに答えずに、真亜子はガクリと頭を垂れた。

 しばらく苦しそうに呼吸をしていたので、慌てて傍にいって背中を摩ってやる。今度はどんな人格が現れるのだろうかと僕は怖る怖るだった。

 ふいに顔を上げて、目をパチクリさせて君が言う。

「あれ~? ここはおうち?」

「君は誰?」

「あたち、ななみ三さい」

 君は無邪気で可愛い三歳の少女になった。

「そうか。七海ななみちゃん、こんにちは」

「ねぇ、おじちゃん、ななみとあそぼう」

「七海ちゃんはいつも何して遊んでいるの」

「ななみ、なかにいるときはおとなしくちてる。だってぇ、みんながちいさいから、おそとにでてはいけないっていうの」

「退屈だろう?」

「うん。だけど、ときどきパパがあそんでくれるよぉ~」

「パパって……?」

「ななみのパパはかっこいいのぉー」

「パパのこと、もっと教えてくれる」

 そう言って、七海の手を握るとまた人格が入れ替わった。

「ううーん、ビジネスの話をしてよ!」

 気難しい顔で現れた君は青羅せいらか。

 僕の膝から茶封筒を引ったくると『日高会計事務所』で算出した数字に目を通す。そんな君はキャリアウーマンの顔だ。

 その後は、ずっと青羅のままでビジネスについて少し話し合ってから、僕は事務所に戻った。

 七海が言っていた『パパ』とは伊達尚樹だて なおきのことだろうか? 基本人格が真亜子ではないとすると……基本人格はいったい誰なんだ? それはどんな人物なのか、僕の中で疑問が広がるばかりだった。

 ――真亜子、人格が統合さしまったら、君が消えてしまうなんて……。

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