◆ 青いあじさい ◆

 ヘッション! 大きなくしゃみが出た。

「あら、遼くん風邪引いたの?」

 受付の机に座っている、朋子ともこさんが聞いた。

「うん。こないだ夕立に合って、ずぶ濡れになったから……」

 父親が経営する『日高会計事務所ひだかかいけいじむしょ』は僕を入れて五人の小さな事務所だ。公認会計士の父と税理士の岡田さん、営業メインの安本さん、そして、受付と電話番の事務員、朋子さんと見習いの僕だ。

 朋子さんは四十代半ば、既婚者で大学生と高校生の子どもが居る。『日高会計事務所』に勤めて十数年のベテランである。中学生だった頃から僕を知っているので、今だに僕のことを「りょうくん」と呼ぶ。

 朋子さんは少し肥っていて、話好きな陽気なおばさんである。


『日高会計事務所』は、小さな規模だが、古くから馴染みの会社を顧客に多く抱えている。経営コンサルタントもやっていてお客の評判も上々、安定した収益がある。いずれ、父の跡を継ぐために僕は会計士や税理士の資格修得の勉強をしていた。

 父や税理士の岡田さんが仕事で出掛けた後は、だいたい朋子さんとふたりで留守番をしながら雑用をやっている毎日だった。

「遼くん、風邪の引き始めだったら葛根湯かっこんとうが利くわよ」

 そう言って、朋子さんがお盆に薬とお水を乗せて持ってきてくれた。

 高校生の時に母親が病気で亡くなった。――それ以来、母親みたいに僕の面倒も見てくれている。時々、料理を作ってタッパに詰めて持ってきてくれたりする、事務員というより、親戚のおばさんみたいな気やすさだった。

 その時、事務所の自動ドアが開いて、誰かが入ってきた。


「いらっしゃいませ!」

 明るい声で朋子さんが挨拶をする、お客は若い女性のようだ。

「あら、伊達さんの奥さま。たしか一時半からご予約でしたよね。所長は只今、お客様と会食中でございまして、後、十五分もすればお戻りになりますが……」

「そう。予約時間よりも少し早く来ちゃったから待たせてもらうわ」

 その声に思わず、僕は自分の机から目を上げた。

 君は白いブラウスに紺のパンツを穿いて、肩からヴィトンのアベスを提げていた。髪はきりりと後ろで纏めシュシュで束ねている。キャリアウーマンのように、君は颯爽さっそうとした出で立ちだった。――先日、ガレージで見た君とは全く別人のようだった。

「そうですか? じゃあ、応接室でお待ちください」

 応接室に案内する朋子さんの後ろを君は付いて行く。通り過ぎる時、チラリと僕の方を見たようだが、その顔には何ら感情はなかった。

 あの時の君に間違いない! 

 ひっつめ髪だから、ハッキリと見えたんだ。あの日、君のうなじにキスをした時に、左の耳の付け根にマッチ棒の先くらいのホクロがあった。――今日の君にも同じ場所にホクロがあることを僕は見つけた。


「朋子さん、さっきの女の人は?」

 応接室にお茶を運んで出て来た朋子さんを捕まえて訊いた。

「えっ? ああ、伊達さんの奥さんよ」

「どういうお客さん?」

 さらに、さりげなく訊く。

「伊達家は昔からの資産家でビル管理やマンション経営をやっているお宅よ。今は息子さんが輸入家具なんかのお店を半分道楽でやっているわ。奥さんもヨーロッパによく行くので、現地で雑貨を買い付けして、ネットなんかで売りたいみたいなの。それで所長に相談にきたみたいよ」

「そうなんだ……」

「遼くんが、個人的にお客さんに興味を持つなんて珍しいわね」

 ニヤリと朋子さんが笑った。

「いや、そんなんじゃないよ。ただ、どこかで見たことある人だと思って……」

「たしかに、あれだけの美人だったら目立つかもね」

「うん。美人というだけで存在感がある」

 僕がそういうと、朋子さんは何か思い出したように。

「だけど……あの人は伊達さんの後妻なのよ……」

 ちょっと声をひそめて、

「……どうも噂だと、前の奥さんは自殺したらしいの」

「えっ、そうなんだ」

「秘密になってるけどね」

 唇の前に人差し指を立てて、ヒソヒソ声で言う。

 だがしかし、朋子さんにとって秘密になってる話ほど、人に喋りたくてしかたない話なのだ。

「うん……」

 あの時の君も、何か深い事情を抱えているようだった。そのことが関係あるのか、どうかは分からないが、とにかく不思議な人だった。


 その後、朋子さんに頼まれた雑用で僕が出掛けている間に、君は帰ってしまっていた。

 あの日から、僕のズボンのポケットに捻じ込まれている、あの五万円を絶対に君へ返したいと思っていたのに……。うちの顧客だと分かったので、個人情報もこっちは握っているのだから――いずれチャンスがあれば、君と逢って、このお金を突き返すことができる。僕は自分の肉体をお金で買われたという事実が、どうにも我慢ができなかったのだ。

 ――僕にとってこれは愛というよりも、もっと真面目なジョークだった。

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