◆ あじさい屋敷の謎 ◆

 ――遠くから僕を呼ぶ声がする。

 朦朧もうろうとした意識の中、誰かが僕の名前を懸命に呼んでいる。「いったい、誰だ?」そう答えた瞬間に僕の意識がよみがえった。

 そこには僕を覗きこむ、心配そうな坂野茜さかの あかねの顔があった。

「ああ、ここは……?」

「遼ちゃん、良かった! 生きてたぁー」

 泣きそうな顔の茜が安心したように笑った。

 身体のあっちこっちが痛い、背中には剪定バサミで切られた傷がある。剪定ハサミなので先が鋭く尖ってない、だから傷口の割には深くはえぐれていない、どうやら血も止まっているようだ。

 ここはどこだろう? 

 窓もなく、薄暗い地下室のような部屋だった。ワインを保存する棚がある、樽やら段ボールやら麻袋に入った何かが置かれていて、広さは二十畳くらいはありそうだ、奥には大きな保存用の冷凍庫が設置されている。

 たぶん、ここは伊達家の地下にある食料品貯蔵室のような所だろう。全盛期の伊達家には使用人を入れて、三十人以上の人間が暮らしていたと親父に聞いたことがある。

 その頃は来客も多く、食料品店からトラックで入荷していたとか……。その繁栄時代の伊達家の名残りでもある、ここは『』のようだ。


「遼ちゃん、背中から血が出てるけど大丈夫?」

 茜がここに居るということは、やはり彼女は伊達家に来て捕まっていたんだな。僕より元気そうで良かった。――茜の顔を見たら、少しホッとした。

「うん。背中をハサミで突かれたんだ、血は止まっている」

「あの女にやられたのね?」

魔亜沙まあさっていう、もの凄く凶暴な人格の女だ」

「――彼女はとても破壊的で自傷行為じしょうこういもするのよ。自分で腕を折ったり、ナイフで身体を傷つけたりするものだから、彼女のことを他の人格たちは怖れていて、逆らえなくされてしまってる」

「ああ、凄まじいほどの殺気がある。殺されそうだった」

 気を失ってから、後の記憶にないが殺されなかったのが不思議なくらいだ。

「あたし、おととい、ここで心理カウンセラーしたのよ。ついに基本人格きほんじんかくと出合ったわ」

「茜、それは本当かっ?」

「ええ、催眠術で眠らせて、基本人格を呼びだしたのよ」

 深層心理の奥深くに隠されていた、基本人格はどんな人間だったのだろう? 僕は身体の痛みも忘れて、茜の言葉に耳を傾けた。

「……遼ちゃん、基本人格は誰だったと思う?」

「誰なんだ?」

「驚かないで……ね」

「――うん」

伊達侑子だて ゆうこよ」

 その名前を聴いて、しばし僕は呆然となる。

「……もしかして、その人は……伊達さんの前の奥さん?」

「そうよ」

「バカなっ! 伊達侑子だて ゆうこっていうのは自殺した前妻だろう。彼女は死んだはずでは……?」

「それが、生きていたのよ」

「まさか、信じられない……じゃあ、伊達尚樹だて なおきは同じ女性と二度結婚したってことか?」

「結果としてはそうだけど……かなり複雑な事情があるのよ。――ここに監禁されている間、食事を持ってきてくれた真亜子まあこさんが、あたしに少しづつ話を聞かせてくれたわ」

 そして、茜は順を追って、僕に複雑な事情を説明してくれた。

「一番最初に基本人格の伊達侑子の説明から始めましょう」

 茜はそう言って、伊達侑子のプロフィールから話し始めた。


 彼女は元々、裕福な家庭のひとり娘として育てられました。

 両親は侑子を盲愛するあまり大きな期待を、彼女が幼少の時からずっとかけてきました。――そして侑子は、大きなプレッシャーと親たちの期待におうと必死でした。お人形のように自分を殺して、良い子の仮面を被って生きていた侑子は、ストレスが爆発しそうで、気が変になりそうだった。

 思春期になった頃、突如、現れたのが自由奔放な人格、桃華ももかでした。自分の知らない所で、桃華が派手に男たちと遊びまわって、そのせいで両親にひどく叱られて侑子は混乱しました。――期待ばかり大きく、意にそぐわないと激怒する両親のことを、侑子は憎むようになりました。そこで現れたのが、破壊の人格、魔亜沙まあさ――。

 ある日、桃華の仕出かしたことで侑子は激怒した父親に折檻されました。身に覚えのない罪で、ひどい仕打ちを受けた侑子は憎しみと怒りで人格が崩壊します。

 魔亜沙の人格に代わった侑子は父親に反発、暴力を振るった後、自宅に火をつけて、両親を焼き殺してしまった。

 ――侑子が十七歳の時です。

 世間では火事は事故だと思われて事件になりませんでした。火の中から奇跡的に助かった侑子はショックで記憶を失くし、同時に、ふたつの人格も消滅しました。

「多重人格は今に始まったことではなくて……前から、あったんだね?」

「侑子さんが、思春期だった頃に一度発症したみたいよ」

「両親の大きな期待が彼女には苦痛だったんだな……」

 ふと、日高所長こと親父の顔が頭に浮かんだ。

 いつまで経っても頼りない、この僕のことを文句ひとつ言わず、いつも温かく見守ってくれている親父には感謝してもし切れないと思った。

「多重人格になる多くの原因は、子どもの頃に受けた虐待だけど、侑子さんの場合は両親の愛情による監視や拘束、プレッシャーが、大きな精神的な苦痛となって、自分とは別の人格を作り上げて、それで発散しようとしたのよ」

「そこで現れたのが、あの桃華って訳か……男たちと派手に遊び回っていたんだろうなあ、侑子さんは自分の知らないことで両親に叱られて、そのことで憎しみが倍増したのだろう」

「他の人格になっている時は、その時の記憶は全く覚えてないから……」

「――それで、怒った魔亜沙が家に放火して両親を殺害したのか」

「ええ……そうよ」

「……うん」

 別の人格がやったこととはいえ、『放火殺人』というのは、とうていつぐなうことのできない重い罪である。

 ――両親を殺害した侑子のことを考えると、言葉を失って……ふたりは沈黙してしまった。


 ようやく、茜が続きを話し始めた。

 その後、親戚の家に預けられて成人になった侑子は、おぞましい過去も忘れて(記憶が消滅している)二十五歳の時に、伊達尚樹と出会って結婚をしました。

 幸せな結婚生活だったが、子どもが授からないのが夫婦の一番の悩みだった。いろんな不妊治療を受けて、やっと三年目に妊娠、出産しますが生まれた赤ん坊は死産だった。

 そのことが大きなショックで、侑子は精神的に不安定になりました。

 夫、尚樹の勧めでイタリアのヴェネツィアへ転地療養てんちりょうように行きますが、症状は好転せず、弱った精神状態で、眠っていた人格たちが再び目覚めました。――またしても、記憶のない事件続く、身に覚えのない品物や会ったこともない男から身体を求められたりと……、すっかり混乱して……自分は狂ってしまっていると思った侑子は自殺を決意します。

 ホテルには夫宛ての自筆の遺書を残し、水上バスに乗り、そこから海に飛び込んで入水自殺するつもりでした。

 ついに侑子は意を決して海にダイビングしたのですが……その瞬間、魔亜沙まあさが出現します。

 いったんは海底に沈んだ身体を懸命に浮き上がらせて、魔亜沙は泳ぎました。強い人格の彼女が死を拒否していたのです。どれくらいか、波間を漂っていると、一艘のゴンドラが通りかかり助けてくれました。

 海から出現した東洋の女に船頭は驚きました。


「È Venere per essere venuto fuori da schiuma marittima!」

 (海の泡から、ビーナスが出て来た!)


 人の好いイタリア男の船頭は、女性には特に親切だった。そこで魔亜沙まあさから青羅せいらにバトンタッチして、流暢なイタリア語で、

「自分は暴力を振るう酷い夫から逃げてきた。自殺をしようと海に飛び込んだが死に切れなかった。どうか、私を匿ってください」

 イタリア人の船頭に懇願します。

 彼は妻を亡くしたヤモメの中年男だったので、同情して自分の家に連れて帰ってくれました。

「イタリア人の男は、女性にはかくべつに親切だからなあ……」

「その男は、すっかり侑子が気に入って一緒に暮らし始めたの。その間に侑子は整形手術をして別人の顔になったりして、船頭の従兄弟のマフィアに頼んで新しい戸籍とパスポートまで手にいれたのよ」

「まるでスパイ映画みたいだ」

「ユーロ圏のブラックマーケットでは、いろんな物が手に入るのよ」

 そう言って、茜はフフンとニヒルに笑ってみせる。

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