◇ ピンクのあじさい ◇
それから一週間ほど経った、ある夜、いきなり僕の携帯が鳴った。
時間は十時を少し過ぎていて、自宅のベッドに転がって雑誌を読んでいる時だった。携帯が鳴ったが、知らない番号だったので出ようか出まいか
「もしもし……」
「あんた、
「はあ? あなた誰ですか?」
「あたしよ。もう忘れたの」
いきなりタメ口で、知らない女が話かけてきた。
「誰だろう?」
こんな風に気安く話しかけてくる女を僕は知らない。過去に付き合った、何人かの女性の顔を思いだしたが……誰ひとりピンとこない。
「薄情な男ね! あんた抱いた女のことも簡単に忘れちゃうの」
「も、もしかして……あじさいの人?」
「ピンポーン大正解よ。ぎゃははっ」
先日とは全く違う、品のないしゃべり方をする君に驚いた。
「……酔っ払っているんですか?」
「まだ酔ってないわよ。『アナベル』っていうショットバーに居るんだけど、今から出て来ない? 一緒に飲もう」
「ええー?」
「待ってるからさ、絶対に来るんだよ。じゃあね!」
自分の用件だけ言って、電話はプツンと切れた。
いきなり電話をかけてきて、今すぐこいって……なんて非常識な女なんだ。携帯の時計を見ながら考えた、明日は仕事が休みだし『アナベル』と告げられた、その店に行ってみようかと思った。
あの金を返したい……そのチャンスは思ったよりも早く、しかも君の方からアクセスがあるなんて……。
君に指定された『アナベル』は、雑居ビルの地下にあった。
暗い階段を降りて、重い木の扉を押し開けたら、大人の隠れ家のようなショットバーがそこにあった。
店内は間接照明で落ち着いた雰囲気、大きなカウンターと後ろの棚には色とりどりの洋酒瓶が並べられていて、バーテンダーがお客の注文に合わせてシェイカーを振ってカクテルを作っていた。
あまり広くない店内を見回して君を探すと、カウンターの奥に君が座っていた。目の前には、すでに何種類かのカクテルが並べられていた。
今日の君は金髪を立巻きカールにして、胸開きの広い、スリットの入った派手なピンク色のセクシードレスだった。
まるで客待ちをしている娼婦みたいで……ひと目みて僕は恥ずかしくなって、帰ろうかとさえ思った。
すると僕の姿を見つけた君が、嬉しそうに手招きをして呼んだ。
「ハーイ」
「こんばんは」
「来てくれたの」
「……うん」
真っ赤な唇に、チェリーを咥えた君は潤んだ瞳で僕を見た。格好はケバケバしいが、ドキリとするくらい……君は美しい。
バーテンダーにマティーニを注文すると、カウンターの君の隣に座った。咽かえるほど強い香水の匂いが鼻につく。ディオールのプアゾンだろうか? この香りは嫌いだ。
「どうして僕の携帯の番号を登録していたのさ? また逢いたいと思っていた訳?」
あの日、僕がシャワーに入っている間に、勝手に携帯を覗いて、僕の番号を登録したようである。
それにしても、今日の君はまるで別人のようだった。
「さあ、
「真亜子? って、君の名前?」
「あたしは
「そうか、彼女と双子だったんだ?」
「違う! あれはあたし」
「はあ?」
「そうじゃないの! 真亜子も
「えっ……?」
この女は何を言っているんだろう? 君の言葉が僕には理解出来なかった。
「
「……じゃあ、君は?」
「
「そんな風に自分を使い分けているの? それとも……病気?」
「さあ、分かんない! あたしって、時々違う人間になっちゃうの。ぎゃははっ」
「多重人格って映画で観たことあるけど、古い映画でヒチコックの『サイコ』とか……」
君が演じているのか? それとも病気なのか判断が付かない。とにかく不思議な女だった。
「そんなことどうでもいいじゃん! 今夜は一緒に飲もうよ」
うふふっと小悪魔のように嗤い、僕の身体にすり寄ってくる。豊満な乳房の弾力と強烈な香水の匂いに、僕の頭はクラクラしそうだった。
この女の誘惑を跳ね除ける力は、とても僕にはない――。
まるで水を得た魚のように、君は僕に挑みかかる。
ベッドの周りには君がストリッパーの真似をしながら脱ぎ捨てていった、ドレスや下着が花びらのように散らばっている。
ここは、おしゃれなファッションホテルだった。ロココ調の高級な造りの部屋にはキングサイズのベッドがあって、その上で何度も体位を変えて僕らはセックスを楽しんだ。君はさまざまなテクニックで僕に快楽を与えてくれる。最後には猫足ソファーに座った僕の上に君が跨って、精気を吸い取るように激しく痙攣してイッてしまった。
まるで悦楽の魔女のように――。
こないだの
――桃華という女、セックスには貪欲だった。
「あたしさー、あんたが気に入ったよ」
「君みたいな女を抱いたのは初めてだ」
「うふふ、あたしのアソコ気持ち良かったあー?」
僕の背中からは血が流れていた、イクときに桃華は男の背中に爪を立てる。――まるで牝猫みたいな女だ。
先日のお人形みたいに大人しく抱かれていた女と、とても同一人物とは思えない。この大きな人格の違いは何だろう? もし、君が多重人格だとしたら……とても怖ろしいことだと僕は思った。
ホテルをチェックアウトする前に、先日の五万円を君に返そうと思った。
「このお金は返すよ」
「なあに?」
「こないだ、ホテルの部屋に君が置いて行ったお金だ」
「そうなん? 真亜子ってバカね。男に抱かせてお金まで置いてくなんて……」
そう言って、君は僕の手から現金を引ったくるようにして、下着姿のまま、黒いブラジャーの中に挟んだ。やることが娼婦みたいで、セックス以外では絶対に嫌いなタイプの女だった。――同じ君にお金を返したのに、僕は釈然としないものを感じていた。
すると、急に桃華が、
「あう……」
苦しそうにうめいた。しばらく顔を手で覆って、小刻みに身体を震わせている。
「どうかした?」
びっくりして、駆け寄った僕に、
「ここは……どこですか?」
周りをキョロキョロ見回して、不思議そうな顔で君が訊いた。
「えっ? ここホテルだよ」
「キャッ」
いきなり、悲鳴をあげて恥かしそうに自分の身体を手で隠そうとした。
「わたし……あのう、あなたとやっちゃったんですか?」
「ええー! なに言ってるんだよ」
「記憶がないんです。時々、心の中でわたし眠っているのです」
《もしかしたら……別の人格と入れ換わったのか?》
「君は誰?」
「
恥かしそうに頬を赤く染めた。
同じ君なのに……さっきまでの桃華とは表情や話し方が全然違う。まったく別人のようである。
やはり多重人格というのは、まんざら嘘ではないと僕は確信した。
真亜子はブラジャーに挟まれた現金を見つけて、これは何ですか? と僕に聞くので先日、君が置いて行ったお金を返したいというと……。
「そのお金はどうか……わたしの罪の償いですから、納めてください」
「罪って? 僕は君に償って貰うことなんかない。こんなお金は不愉快なんだ!」
「――ゴメンなさい。こんな
ビリッとお金を破ってしまった。ビックリした僕は、
「やめろ! お金を粗末にするくらいなら僕が預かって置くよ」
再び、その現金は僕の元に戻ったが、真っ二つに破られていた。
真亜子はこんな服は恥ずかしいと言いながら、桃華が選んだ派手なピンクのドレスを着て、ホテルから逃げるようにして、タクシーで帰って行った。
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