◆ 七番目のあじさい ◆

 ――僕らは緊張した。

 手に持ち切れないほどのあじさいの花を抱えて、スキップしながら入ってきたのは、

「パパに、これあげるのぉ~」

七海ななみちゃん?」

「うん。パパはあじさいがすきなんだよ」

「パパって? いったいどこに居るんだい」

「ここ、ここよ」

 七海は奥の冷凍庫を指差している。

 さっき七海が地下室に入ってきた時、鍵は開いたままになっている。三歳児の七海になっている、今こそ逃げるチャンスだったが、どうしても僕は好奇心から逃げ出せないでいる。茜も同じく、七海が指差した冷凍室の中が気になるようだ。

 首から紐でぶら下げた鍵で七海が冷凍室の扉を開けた。扉の隙間から覗いたら中は三畳くらいの広さで、食料品は何も入っていなかったが、大きな木の箱が中央に置かれている。それは立派な猫足付きのテーブルに乗せられていた。両サイドにはキャンドルが飾られていて……。

 七海の後ろに付いて、僕らも冷凍室の中に入っていった。室温マイナス10℃くらいだろうか、非常に寒い、ここに長く居たらカチンカチンに凍ってしまいそうだ。

 冷凍室の中央に置かれた木の箱は、人ひとりが横たわれる広さはあった。――そして、その中で僕らが見たものは……。


 ――あじさいを敷き詰めた箱の中にひとりの男が眠っていた。そう、それはあじさいの棺だった。

 どのくらい前に亡くなったのかは判らないが、冷凍された状態で、まるで生きているようだった。目立った外傷はないが、こめかみに銃口の痕のような穴があいていた。

 歳は三十代半ばくらいで、死顔だが、整った容貌から生前の魅力的な容姿が想像できた。

 その遺体はきれいに髪を整えて、白いモーニングを着せられて、まるで花婿のように見える。――あじさいのしとねで永遠の眠りにつく、この男は誰なんだ? 

 棺の中にあじさいの花を入れている、七海に訊いた。

「この人は誰なんだ?」

「ななみのパパだよ」

「名前は?」

「だ・て・な・お・き」

 七海は、一文字一文字を区切ってハッキリと言った。

「この人が、伊達尚樹だて なおきだとー?」

じゃあ、今まで『日高会計事務所』に電話やメールを送って来ていた人物は誰なんだ? 昨日も電話があったはずだ、朋子さんがハッキリと伊達さんだと答えた。あの声の主はいったい……?

 僕は伊達尚樹の遺体を前に頭の中が混乱していった。


『そこに眠っているのは、単なる、私の肉体に過ぎない』


「えっ?」

「今の声は……?」

 僕と茜は同時に驚きの声を上げた。どこからか男の声が聴こえたのだ。それは低く気取ったしゃべり方だった。この冷凍室には僕と茜と七海、そして遺体しかいない。

「だ、誰だっ!?」

『いや、失礼。私は伊達尚樹だて なおきだよ』

「ま、まさか……」

日高遼ひだか りょうくん、君のことは妻たちから聴いているよ』

 そう言いながら、七海がゆっくりと顔を上げた。

 その表情はまるで別人のようで、また人格が入れ替わったんだ。今度は伊達尚樹と名のる男性だった。そして男のように低い声でしゃべっている。多重人格とはいえ、ここまで完璧に男の声が出せるものなのか? まるで亡霊に憑依ひょういされているようだった。

 あまりの不気味さに僕は血の気が引いた、さすがの茜も恐怖で顔が引きつっている。伊達尚樹になった君は、ゆっくりとしゃべりだした。

『――わたしは結婚して、すぐに新しい妻が侑子ゆうこではないかという疑念を抱いた。特徴として左の耳の付け根にホクロがあったし、些細な癖や表情が侑子とよく似ていたからね。そして彼女が多重人格だということも分かっていたよ。――ある日、小さな女の子になって、わたしを「パパ」と呼ぶんだ。名前を聞くと「七海ななみ」と答えた。その名前は侑子が妊娠した時に、男女どっちが産まれても「七海」と付けようと、ふたりで決めていた子どもの名前だった。――それで、新しい妻が侑子だとハッキリ分かった』

「あ、あなたはどうして? こうして死んでいるのに……」

 茜は震える声で、怖々こわごわと訊ねた。

『その男の肉体から離れて、わたしの魂は妻の中に入ったんだ、娘の七海もここに居る』

「遼ちゃん、その人は死んだ伊達尚樹の代わりになろうとして現れた人格だわ」

「そうか、だな、それにしても男の人格だなんて……」

『新しい妻が侑子だと知って、ひどく悩んだよ。侑子の頭がおかしくなったのは自分のせいではないか? 彼女に対する愛情が足りないかも知れない。夫として、わたしは自責じせきの念に駆られて……ある夜、妻が寝込んでいるのを見届けて、無理心中をしようとしたんだ。イギリスから家具に忍ばせて、密輸した銃を持っていたから、それで妻を射殺して、自分も自殺するつもりだった――』

「なぜ、あなただけ死んだのですか?」

『――それが、妻の中の凶暴な人格が現れて、わたしから銃を奪い、頭を撃ち抜かれたんだ』

「ピンチになると現れる、破壊の人格、魔亜沙まあさのやったことだろう」

『あははっ、あっけなく殺されてしまった。そして妻の中に入って、伊達尚樹の声で仕事をしていたのだ』

朋子ともこさんが電話で聴いた声は、あなたですか?」

『……そうだ』

「なんてことだ、みんな、君とその人格たちに騙されていたのか!」

「頼むから、自首して、病院で治療を受けて!」

 茜が伊達尚樹の人格に懇願した。

『断わる!』

「伊達さん、バラバラになった人格を統合しないとダメだ!」

 僕が懇願しても、君は薄笑いを浮かべたままだった。


『わたしたち人格は統合されたりしない。ひとりひとりが心の中で生きているんだ!』

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