◇ 哀しみのあじさい ◇

 ――実は海に飛び込んだ時点で、侑子の人格は眠ることになります。

 魔亜沙が無理やり、自殺する可能性のある基本人格の侑子を深層の奥に押し込めてしまったのです。元々、魔亜沙は弱い侑子を守るために出現した人格なので、侑子が危険な目に合っている時に出てきて守ろうとします。超人的パワーを発揮して、危険だと判断した相手には暴力を振るう、明らかに過剰防衛ではありますが――。

 それから三年間、彼女は意識の世界に戻ることはなかった。代わりに真亜子まあこが出現します。彼女はもっとも基本人格に近い性格で、他の人格の暴走を止めるために生まれてきました。

 ヴェネツィアで別人になって暮らしていた侑子は、偶然、街で伊達尚樹だて なおきを見かけます。彼は妻が飛び込んだ海に献花するために、時々、ヴェネツィアへ訪れていたのです。

 伊達尚樹を見た、途端に、侑子は堪らなく恋しさが募ります。

 人格は入れ替わっていても、夫を愛している気持ちだけは全員が共通して持っていたのです――侑子は他人の振りをして、伊達尚樹に近づいていきました。当然、妻は死んだと思っている彼は、ヴェネツィアで出逢った日本人女性を亡くなった妻だと気付きません。

 三年間、夫婦だった夫の性格や趣味は知り尽くしています。伊達尚樹の心を掴むまで、さほど時間はかかりませんでした。ただ、そうなると……邪魔になったイタリア人の男をどうするか?

 ある月夜の晩、ワインに睡眠薬を入れて男を眠らせると、ゴンドラに乗せて沖に出て、男を海に投げ込みました。――やったのは、もちろん魔亜沙まあさです。


「自分を助けてくれたイタリア人の男も殺したのか?」

「そうよ。まず邪魔になったことと、彼のお金が目当てだったみたい」

「怖ろしい女だな……」

「その後、伊達尚樹と一緒に日本に帰国して、彼と再び結婚します」

「しかし……顔が変っていても、性格が違っていても、自分の妻だった女とは判らないものかなぁー」

「――それがね。どうも早い時期に、伊達尚樹は彼女が前の妻ではないかという疑念を抱いていたようなの」

「ええー! やっぱしそうかあ」

「そうよ……」

「元夫婦だから、他人には分からない身体の特徴とか知ってる筈だ」

 ふと真亜子のうなじにキスした時に見た、左耳の付け根の小さなホクロを思い出した。ああいう特徴は、彼女の身体を自由にした男にしか見れないものだろう。

 想像を絶する展開に、テレビのサスペンスドラマを観ているようだと僕は思った。

「伊達尚樹は妻と気付いてどうしたんだ?」

「おしまい!」

「えっ?」

「……真亜子さんの話はそこまでしか聞いてないの」

「じゃあ、侑子本人からは何が聞き出せた?」

「彼女は催眠術で他の交代人格たちを眠らせている間に呼び出したんだけど、侑子さんは目を覚ました瞬間、自分が死んでないことに驚いていたわ。――だから、あなたには何人もの交代人格がいて、あなたが深層で眠っている間、彼女たちが交代でになっていたと説明して置いた」

「侑子さんは驚いていただろう?」

「ええ、けど昔から……時々記憶が途絶えたり、買った覚えのない物が部屋に置いてあったりしたり、自分は夢遊病患者むゆうびょうかんじゃかも知れないという疑惑を持っていたみたいよ。――だから自分が眠っている間の行動を知るために、交代人格たちと交換ノートをすることを勧めてみたの。取り合えず、真亜子さんとは交換ノートをしているみたいよ」

「自分と同じ自分が交換ノートするっておかしな話だよなあー」

「だけど解離性同一性障害の治療の一番の方法は、自分以外の人格の存在の確認から始めるのが、普通なんだよ」

「そうか、それで……」

「おしまい!」

「またかっ! 何があったんだ?」

「侑子さんのカウンセリングしている最中に、あの凶暴な魔亜沙が出てきて、あたし、首を絞められて殺されそうになったの、気を失って、気が付いたらここに居た。一日二回、真亜子さんが食事を運んでくれる。その真亜子さんに詳しい事情を訊いていた」

「じゃあ、三日前から茜は、ここに監禁されていたんだな」

「うん。あたしたち……どうなるんだろう?」

 不安そうな表情で茜が呟いた。

 君の人格の中で一番強い魔亜沙が全ての権限を握っているようだが、僕らに助かるすべはあるのか、薄暗い地下室の中を眺めて僕は考えた。

「伊達尚樹はどこまで妻の暴走を許すつもりなんだろう?」


 ――考えてみれば、この話の中で一番よく分からない人物は伊達尚樹だて なおきではないか?

 

 妻の病気を知っていて、なぜ放置しているんだ。夫のくせに無責任過ぎる! 彼に対するいいようのない怒りで僕はふるえた。

 その時だった、いきなりドアが開いて誰かが入ってきた。

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