◆ 紫のあじさい ◆
「くっそー! またダメだった」
『
「何がダメだったんですか? 日高所長」
「おお、見習いの日高くんか、いい質問だ」
新聞を広げながら、ここだと指をさす。『
「毎週、俳句を詠んで投稿しているんだが……また、選から外れたよ」
「残念でしたね」
僕の父、
十年前に妻を亡くしてからは、ひとり息子の僕とふたり暮らしである。まだ五十八歳だから老けこまず、少しはロマンスでもあればと思うのだが、本人は仕事と最近懲り出した俳句にしか、興味はなさそうである。
――僕らは、まるで友だちみたいな親子なのだ。
「どんな俳句を送ったのさ?」
「聞いてくれ『よしできた 青色申告
「はあ……?」
「どうだ、いい句だろう? 自信あったのになあー」
「俳句だろう? 季語はなにさ?」
「もちろん、青色申告だよ。春の季語に決まっている」
「そんなこと……、一般人は分からないだろう。しかも、字あまりだし」
「えっ? あ、本当だ」
そう言って、おやじはわははっと笑った。
『よしできた 青色申告 颯爽と』これって俳句というより、税務署の標語みたいだし。数字には滅法強いおやじだが、文学的センスはゼロである。――そこまで言ってやったら、さすがに可哀相なので……僕も一緒に、わははっと笑ってあげた。
「父さん、お客のことでちょっと訊きたいことがあるんだけど……」
「ん、なんだ? 見習いの日高くんがお客のこと訊くなんて珍しいじゃないか」
ちょっと嬉しそうな顔でおやじが応えた。
「伊達さんって、お客について教えて欲しいんだ」
「伊達さんか? 先代からのうちの顧客だよ。先代はもう夫婦ともに亡くなっていて、今は息子さんが継いでいる。かなりの資産家で駅前に五階建てのビルが二棟、十階建てのマンションが三棟、借家が六軒、駐車場三カ所、その他諸々の借地なども持っている。働かなくても一生食べていける裕福さだよ。今の当主は道楽で輸入家具のお店を経営していて、一年の半分はヨーロッパで暮らしているさ、まあ、いいご身分だよ」
「家族構成なんかはどう?」
「えっと……たしか、奥さんが三年前に亡くなって、今の奥さんと去年結婚したのかな? 外国で知り合ったって噂だけど……そういう事情は、俺より朋子さんが詳しいぞ」
そうか、あの人は後妻なのだ。――そう言えば、朋子さんが前の奥さんは自殺したとか言っていた。なんか深い事情がありそうだ。伊達家の噂はいずれ朋子さんから聞くことにしよう。
何しろ事務員の朋子さんは顧客の超個人情報に詳しいのだ。おばさんのクチコミネットワークをバカにしてはいけない。『日高会計事務所』に訪れる、商店主の奥さまたちとの何気ない世間話から、顧客の家族構成、近所の評判、家庭内のいざこざ、経営状態、浮気問題など、超個人情報をいつの間にか朋子さんは把握しているのだ。
君の多重人格の謎を探る情報を、あの朋子さんなら持っているかも知れない――。
「で、その伊達さんになにか?」
いきなり顧客情報を訊きたがった僕に、おやじはちょっと不審そうな目を向けていた。
「うん。ちょっとね……」
曖昧に笑って
あくる日の早朝、僕の携帯が鳴った。
まだ夢の中を彷徨っている時間だというのに……いったい誰なんだよ! 眠い目を擦りながら携帯の番号を見ると君だった。時刻は五時半。
「もしもし……」
と、通話に出た僕の耳元でいきなり。
「怖いの、助けて!」
「えっ! なに? どうしたの?」
切羽詰まった君の声に、いっぺんに僕は眠気が飛んだ。
「怖い、怖い、怖い……」
「落ち着いて!」
「助けて!」
「大丈夫? 今どこに居るの?」
「殺されるかも知れないの、お願い、助けてぇ……ううぅ……」
最後はほとんど泣き声に変った。この声は誰だろう?
「君は誰ですか?」
「わたし、
また違う名前が出てきた、四番目の人格だろうか?
飛び起きて、急いで支度をすると、僕は紫音が居る場所へと自動車で向かった。
君が指定した場所は街外れの小さな公園だった。
早朝なので人通りはなく、森閑としている。君はベンチにぽつんと座っていた、グレーのセーターと黒いスカート。まるでお通夜帰りみたいな野暮ったい服装で、ひどく疲れた顔だった。遠くからでも小刻みに肩を震わせているのが見える。――たぶん泣いているのだろう。
僕は公園の脇に駐車すると、急いで君の元に駆け寄った。
「大丈夫? なにがあったんだ」
僕の声に、わあーと号泣して君は縋ってきた。
「怖い、怖い、助けて……」
なにをそんなに脅えているのか分からないが、この
「落ち着いて! 話を聞かせて」
「わたし聴いちゃったんです。みんなで話し合っていることを……」
「みんなって?」
「わたしの心の中にいる、わたしたちです」
いったい何人の人格が存在しているのだろうか?
そして、それらは心の中で、それぞれの人格で話し合っているようなのだ。まったく信じがたい話だが……。
「ねえ、詳しく教えて。――君以外に何人の人格が存在するんだい?」
「……ダメ! 教えられない。あの人が怖いの」
「僕が守ってあげる、怖がらなくていいから」
「うん……」
「
「
――と、言いかけて急に「ううっ……」紫音が苦しそうに呻いた。
顔を手で覆って震えている、また人格が入れ替わるのか?
「
胸に抱きしめて、背中をさすっていたら……。
「うせろ!」
いきなり、もの凄い力で胸を突かれ飛ばされた。
「あたしに構うなっ! さっさっとうせろ! このクズ野郎が」
ひどい
「……き、君は誰なんだ?」
「うるさい!」
その女は憎悪を込めた目で、キッと僕を睨みつけた。
ゾッとするほどの殺気を感じて身体が硬直してしまった。どうやら、ひどく凶暴な人格が現れたようだ。
「今度、あたしの前に現れたら、おまえをブッ殺す!」
ケッと、唾を吐きかけて女は去っていった。その後ろ姿を茫然と僕は見送っていた。
あの口の悪さは
とてつもないトラブルに巻き込まれそうで僕は怖かったが、どうしても見過ごす訳にはいかなかった。夕立の日に出逢った君、そして何人もの君たち。そのひとりひとりに僕は興味を持っている。
――恐怖のステージに立っていた、もう逃れることは出来ない。
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