◇ 黒いあじさい ◇

 ――茜と連絡が取れなくなった。

 三日前、伊達家を訪れて真亜子の心理カウンセラーをしたが、夫の伊達尚樹が帰って来たので、僕らは急に予定をキャンセルされて帰らされたのだが、伊達家の門の前で茜と別れる時に「どうしても気になることがあるの。もう一度、明日にでもきてみる……」そう言った彼女の言葉がやけに気になる。

 一昨日の夜、三回電話をした。

 もう一度伊達家を訪問すると言っていたので、その話を聞きたかったので携帯にかけたが出なかった。留守番電話にメッセージを入れたが茜からの返信がない。 そして昨日は五、六回は携帯にかけたが……まったく返事が返ってこない。

 今日も朝から何度も電話をかけ、メールを打ち、留守番電話にメッセージも入れた。まさかアメリカに急に帰る筈ないし、だとしても伝言ぐらいはあるだろう。

 心配になって、茜のマンションに様子を見にいったが留守だった。

 ベランダには干しっぱなしの洗濯物が……だが、愛用のマウンテンバイクがない。自転車がないということは、近くに行っているということだろうか? すぐ帰るつもりで出掛けたのに、まだ帰ってないということなのか? 僕の杞憂が取り越し苦労だったらよいのだけど……。

 

 ――茜と音信不通になって、今日で三日目、なんだか嫌な胸騒ぎがする。

 伊達家の門に前に立っている僕は、何故か『勘』でここに茜が居るような気がしてならない。正門のチャイムを何度も鳴らしてみたが返事がない。仕方なく、長く続く塀の周りを歩いていくと裏門に勝手口があった。ドアをノックしたが返事がなかったので、何気なくノブを回してみたら、あっけなくドアが開いた。

 たしか、伊達家には番犬はいなかった。セキュリティ会社は大丈夫かな? と思いながら怖る怖る屋敷の敷地に侵入してしまった。《これって家宅侵入かたくしんにゅうだよなぁー》自分が犯罪を犯している自覚はあるが、どうしても、ここに茜がいるかどうか知りたい。

 少しづつ屋敷に近づいていくと、二階の窓、カーテン越しに人影が見えた。真亜子まあこかな? すぐ近くまで行くと、何やら言い争っているような声が聴こえてくる。誰と話しているんだろう? 好奇心から段々と大胆になってきた僕は、一階の開いている窓から家の中に侵入した《これじゃ、まるで空巣だよ》もし、警察に通報されたら申し開きのしようもない。

『日高会計事務所』の日高所長は法律にも明るい、たしか弁護士にも何人か知り合いがいたよなあ……もしも捕まったら、日高所長こと僕の親父がきっと何とかしてくれる筈だ。仕事に関しては、誰も認める敏腕ぶりだから――。

 そんな虫の良いことを考えながら、二階へと僕は上がっていった。


 声が聴こえる部屋の前に僕は立っていた。

 低い男の声とヒステリックな女の声がする。何やら激しく言い争っているようで、男の声は伊達尚樹だて なおきの声かも知れない。

 まずいなあー、真亜子だけなら勝手に家の中に入って来たことも、なんとか言い訳できるけど……旦那がいたんじゃあ、不審者と思われて警察に通報され兼ねない。

 さっさと逃げ出そうと僕が踵を返したら、バーンとドアが開いて、中から人が飛び出してきた。

「キャッ」

 僕を見た、途端、相手は驚いて悲鳴をあげた。

「あ、僕、日高です」

「ああ、びっくりした。いきなりそんな所に立っているんですもの」

「君は真亜子?」

「ええ、そうよ」

「ゴメン! 何度もチャイムを鳴らしたんだけど返事がなくて……裏口が開いていたもので、勝手に入って来ちゃったんだ。すぐに出て行くから……」

 僕がそんな言い訳をして、慌てて帰ろうとしたら、

「遼さん、待って!」

 真亜子が後ろから呼び止めた。

「せっかくだから……わたしのお部屋へどうぞ」

「えっ? だけど誰かいる……」

「ひとりきりだから、中に入って」

 ドアを開いて僕を招く、怖る怖る中を覗いたら誰もいなかった。

「さっき、人の話し声が聴こえたと思ったけど……」

「ううん、テレビの音よ。ひとりだと寂しくて、ついボリュームが大きくなるの」

「……そ、そうなんだ」

 ――テレビの音だって? 今一つ、何か釈然としないまま……真亜子の部屋に招かれて僕は入った。

 真亜子の部屋は十畳くらいの広さで、ベッドとドレッサー、ライティングデスク、飾り棚、そして小さなソファーセットが置いてある。テーブルの花瓶には真っ白なあじさいが活けてあった。丁度、退屈していたので来てくれて嬉しいと真亜子が僕に言う。

 開口一番。――気になっていた、茜のことを訊ねてみることにした。


「こないだ、一緒に来た心理カウンセラーの坂野茜さんが行方不明なんだ。何か知らない?」

「いいえ、何も知らないわ」

「ここへ、もう一度来たいって言っていたんだ。ここには来なかった?」

「来てないわ」

「……そうか」

「ええ」

 素っ気ない真亜子の返答に、むしろ僕は疑念ぎねんを抱く。

 何か知っていて隠しているように思えてならない。時間を掛けて聞き出そうと僕は話し続ける。

「ところで旦那さんはどうしたの?」

「主人は仕事で、今は九州方面へ行ってます」

 あれ? 北海道じゃなかったっけ?

「いつも留守がちで君は寂しくない?」

「もう慣れました。お互いのライフスタイルを大事にして、暮らしていこうって決めていますから……」

「なんかぁー、そういう割り切り方って僕には理解できないんだ。彼のライフスタイルの中に、なぜ、妻の君が入れないの?」

 その質問は、いきなり心のデリケートな部分をえぐったようだ。見る見る……君は萎れた花のように項垂うなだれてしまった。

 しばらく沈黙した後、君はゆっくりと話す。

「……主人が愛しているのは、お金儲けの上手い青羅せいらとセックスの好きな桃華ももかだけなんです。彼はいろいろ変る、わたしの人格を楽しんでいるのです」

「それで君は満足なのか? 病気を治して普通の人生を楽しむべきだ」

「それは出来ないの」

「もしも君が消えても、統合された基本人格の中で君も生き続けられるじゃないか」

「手遅れなんです! 何もかも……」

 まるで嫌々をするように、大きく君は首を振った。

「――どうか、わたしと死んでください」

「真亜子、そんなことを言ってはダメだ! 君を救ってあげたい!」

 僕の胸に縋って、真亜子が赤ん坊のように泣き出した。そんな君を僕は強く抱きしめた。

「ここに居てはダメだ。あじさい屋敷から出ていこう」

 思わず僕はそんなことを口走ってしまっていた。

 人妻を誘惑したらどんな罪になるんだろう? 現在では姦通罪かんつうざいはない。だから犯罪ではないが、不倫行為は道徳に反することになる。場合に寄っては慰謝料や損害賠償を払うことに……。

 ひとり息子の不倫問題で『日高会計事務所』の所長はその敏腕ぶりを発揮してくれるかも知れない。お金の絡んだ法律問題には滅法めっぽう強い親父殿だから……。

 つい、そんな不埒なことを考えながら、君の耳元で囁いた。

「真亜子、ここを出て僕と暮らそう。ちゃんと治療を受けさせるから……」

「ふふふっ、何言ってるんだい、この青二才あおにさいがっ!」

「えっ?」

「死ね! クズ野郎があー」

「うっ!」

 真亜子の人格が変わったと分かった瞬間、僕の背中に激痛が走った! 

 僕は突き飛ばされて椅子から転がり落ちた。真亜子の手には、血のついた剪定せんていハサミが握られていた。

 見る見る白いシャツが血に染まっていった。急所は外れているが焼けつくような痛みが走る。フラフラしながら立ち上がった僕に、いきなり膝蹴りをかました、更に握り拳で殴りかかってきた。すでに激痛で戦意喪失せんいそうしつの僕は、サウンドバッグのようにパンチの嵐を喰らった。

「君は誰なんだ……」

「あたしは魔亜沙まあさ、地獄の使者だよ!」

「あ、あぁ……」

 スローモーションのように、膝から崩れるように倒れて、僕は気を失った。――魔亜沙まあさ、六番目の女、もっとも凶暴で破壊的な人格。

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