◆ 彩るあじさい ◆

 事務所に帰ってきたら、朋子さんが電話応対していた。「誰から?」と何気なく聞いたら、伊達尚樹だて なおきだと答えた。

 その答えに驚いた僕は、

「伊達さんは、今、日本にいるんだ?」

「そうみたいよ。出張で北海道にいるって言ってたけど……」

「自宅には帰らないんだろうか? あんな大きな家に奥さんが一人きりなのに……」

「そうね。結婚したって聞くけど、一緒にいる所をあまり見かけたことがないわね」

「あんまり幸せな結婚生活ではないのかな?」

「あらっ、遼くんったら、ずいぶんと伊達家のことを気にしているのね? 奥さん美人だし。うふふっ」

 朋子さんが意味深な顔で笑った。

 男女の恋愛話には特にレーダーを張っている彼女は、僕の表情から何か感じ取っているのだろうか? 僕の真亜子に対する気持ちを読まれたみたいで……勘の鋭い朋子さんは、やっぱし侮れないなぁー。

 それにしても伊達尚樹は、日本にいるのに病気の妻を放って置いて、どうして北海道なんかにいるんだろう。ずいぶん薄情な夫だと僕は憤慨した。

 あんな広い屋敷にひとりでいたら、病気は悪化するばかりだろう、誰かが傍に付いていてあげないとダメなんだ。

 ――真亜子を救ってあげられるのは、自分しかいないように思えてきたのは、単なる思い上がりではないだろう。


 日曜日に茜と一緒に伊達家を訪問することにした。

 茜は自宅の近くだから自転車で行くと言っていたので、ふたりは伊達家の前で待ち合わせることにした。

 僕が来客用のガレージに自動車を駐車すると、茜は長距離用のマウンテンバイクを正門の前に停めてチェーンを掛けているところだった。今日の茜は紺のパンツスーツをパリッ着ていた、この服装なら、なるほどセラピストに見える。いつものラフな格好しか知らない僕は、初めて仕事着姿の彼女を見た。

「やあ!」と茜に挨拶をすると、僕は伊達家のチャイムを鳴らした。

 訪問を告げていたので、君はすぐに門扉を開けて僕らを招き入れてくれた。まるであじさいの海のような庭を眺めて茜は感歎の声をあげた。

 小声で僕が「真亜子まあこ?」と確認をしたら、君はゆっくりと頷いた。今日の真亜子はきなり色の麻素材のサマードレスを着て、スッキリと涼やかな印象である。


 僕らは先日とはまた違う、応接室に通された。たぶん、伊達家には応接室が二、三室はあるのだろう。今日通された部屋は十畳ほどの広さでソファーセットも黒のエナメルでシンプルなデザインだった。部屋の片隅にはOA機器とオーディオセットが置かれていて、ここはビジネスや商談に使う、書斎兼用の応接室なのだと分かった。

 真亜子は僕らを部屋に案内すると、お手伝いさんがいないので自分でお茶の用意をするために「お待ちになって……」と告げるとバタンとドアを閉めて出て行った。

「すごく立派な屋敷ねえ」

 茜が開口一番に言った。

「うん。伊達さんはこのあたりで一番の資産家だよ」

「こんな広い屋敷にあの女性はひとりで暮らしているの?」

「いや、旦那さんはいるようだけど……留守がちみたいなんだ」

「ふうん。なんか寂しいね。お金があっても孤独はいやせないもの」

「……そうだね」

 まさか、寂しいから人格が入れ替わって独り遊びをしているとは思わないが……この孤独な暮らしが、少なからず君の病気に悪い影響を与えていることはめない。


「お待たせしました」

 大きなトレイにコーヒーとドーナツを乗せて、君が運んできた。  

 コーヒーとドーナツ、先日のイギリス風のティーセットと代わって今日はアメリカン調だ。はて、君に茜がアメリカから帰国中だって話したかな?

「どうぞ」

 それぞれのテーブルの前に、君はコーヒーを並べていた。

「ありがとう」

「いいえ、訪問してくださって嬉しいです」

「初めまして、私、坂野茜さかの あかねと言います。遼ちゃんの同級生でして、今は心理カウンセラーをやっています。よろしく!」

「こちらこそ、私は真亜子まあこです」

 ふたりは挨拶し合っている。

 その後、茜がカウンセリングする予定だが、果たして、真亜子の中から、どんな人格が出てくるのか……僕は不安だった。


 アメリカ人はドーナツが大好きである。

 一日一食はドーナツでもオッケーな国民なのだ。映画に出てくるタフガイも朝はたらふくドーナツを食べている。かのプレスリーもドーナツ大好き人間だった。

 アメリカ生活が長いせいか、茜もドーナツがかなり好きである。お皿に乗ったドーナツを二つぺロリと食べて、まだ食べ足りない顔をしていたので、真亜子が大皿からドーナツ三つ取り分けてくれた。

 そのドーナツもパクパク食べている茜に「少しは遠慮しろよ」と渋面で僕が言うと……、「あと二つください」とお皿をつき出し、真亜子にドーナツのおねだりしている。

 思わず肘で突いて「いい加減にしろ!」怒ると茜は笑って誤魔化す。――そんな僕らを君はにこにこしながら見ている。

 ドーナツも食べ終わり、お代わりのコーヒーを頂きながら僕らは談笑をした。

 打ち解けた雰囲気になってきたところで、茜は自分の小型パソコンを開いて、真亜子のカウンセリングを始めた。

 最初は名前や年齢など個人情報を訊いていたが、何しろ真亜子は基本人格ではないので事実かどうかは分からない。それは真亜子という人格が、自分自身で作ったいつわりのプロフィールなのだから……。

「真亜子さん、あなたの中の別の人たちともお話させてくれないかしら?」

「ええ、他の人も出たがっているので交代します」

 いとも簡単にそう言うと、君の中から別の人格が現れた。

「……先日、届けてくれた資料だけど、よく検討してから返答します」

 小難しい顔で現れた君は、青羅せいらだろうか。

「あなたはどなたですか?」

「ビジネス以外のことで煩わせないでちょうだい。青羅せいらよ」

 茜は青羅と二、三言話したが、ビジネス以外は興味がない青羅が戻りたがったので面接はすぐに終わった。

 次はひどく脅えた人格が現れた。

「怖い、怖い、怖い……」

「あなたは誰? 何を脅えているの?」

「あたし紫音しおん、私の中の人たち、みんな怖い!」

「その人たちがあなたに危害を加えるの?」

「ううん。違うの! とっても怖いことたくらんでいる!」

「それはどんなこと?」

 茜が聞くと「ひいぃー」とうめいて紫音は急に消えた。

「パパー?」

 瞳をパチクリさせて出てきたのは、三歳児の七海ななみのようだ。

「あれぇ~、こないだのおじさん」

 どう見ても、僕より年上の君の分身に「」と呼ばれて苦笑した。

「こんにちは。君は誰かな?」

「あたち、ななみ三さいだよ」

「七海ちゃんのことをお姉さんに聞かせてね」

「うん。いいよ」

「いつもはどこにいるの?」

「うん……と、こころのなかだよ。そこでねんねしてる」

「そこから出てきたら、何をやっているのかな?」

「パパとあそんでるよ」

「パパ? パパの名前は?」

「だてなおき」

 伊達尚樹だって! 彼には子どもはいないはずだ。

 待てよ、たしか前の奥さんとの間に子どもが出来たが、死産で……それが原因で奥さんは外国で自殺したんじゃなかったか。なにか関連があるのだろうか?


「ねぇ~、おじさん、ななみとあそぼうよ」

 七海が甘えて僕の膝に乗ってきた。

 いくら本人は三歳児のつもりでも、身体はれっきとした成人女性だ。しかも彼女とは肉体関係もあるし……茜の前なので、七海を膝から降ろそうとしたが、ギュッと僕に抱きついたまま離れてくれない。

 そしてキスをされた「うぐっ」舌まで入れてきた! お、おまえは誰だ!? 七海を無理やり引き離した。 

「やめろ!」

「やーん! 乱暴しないでよ」

「ああ! 君は桃華ももかか?」

「そうよ。遼ちゃんのセフ……レ……」

 僕は慌てて桃華の口を押さえた。

 最悪の人格が出て来た。こいつだけはベッド以外では絶対に関わりたく女だ。

「あらっ、他には女がいるじゃん。女ふたりで3Pがしたいの? うふふっ」

「はじめまして、あなたが噂の桃華ももかさんね」

 チラッと茜は僕の顔色をうかがってから、平然とした顔で言う。

「あなたのことを聞かせてください」

「桃華のこと? うーんとセックスが大好き!」

 きゃははっと大声で笑う桃華は、頭の中までピンク一色の女だ。

「あなたの他にもまだ人格はいますか?」

「まだ、いるよ。でも用心深くて出て来ないさ」

「じゃあ、基本人格について、何か知っていることを教えてください」

「うーん、それは無理だよ。彼女はずっと眠っているし、何も話してはいけないんだ」

「――それは、誰がそう決めたの?」

「あ、あたしの口からは何も言えない……」

 急に桃華の目が脅えはじめた。

 途轍とてつもないモンスターが君の中にまだ隠れているみたいで、その人格が一番強くて、どうやら全員を束ねているようだ。

「うわっ、ダサい! なんで、こんな野暮ったい服着ているのよ。真亜子の趣味ね! あの女はイモなんだから、あたし着替えてくるわ!」

そう言って桃華は部屋から飛び出て行った。


「イテッ! 何するんだよ」

 途端に茜が僕に肘鉄砲を喰らわした。ドーナツの時の仕返しのつもりか、桃華と寝たことを非難してか……たしかに女から見たら桃華のようなタイプは嫌悪すべき存在なんだろう。

「男って、あんなタイプの女性と遊ぶのが楽しいのね」

「違うよ」

「全身からフェロモン発散させてる」

「違うって!」

「でも、寝たんでしょう?」

「……うん」

 男は愛情がなくともセックスが出来るそういう生物なんだ。

 心理カウンセラーをしている茜でさえ、そのあたり男の生理的なことが今一つ理解できないようだ。僕らの間にしばし気まずい沈黙が流れた。――すると、部屋の外から誰かの話声が聴こえてきた。いったい誰だろう? それは低い男の声だった。

 その後、慌てて応接室に、たぶん真亜子が入って来て、

「主人が帰って来たので、今日はお引き取りください」

 と、告げられた。

 僕らは追い立てられるように伊達家を後にした。きっと君は夫にカウンセリングしてもらっていることを知られたくないのだろう。

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