◆ 乱れ散るあじさい ◆

『君たちはすっかりあじさい屋敷の秘密を知ってしまったようだね。ここから生きて出す訳には行かなくなったよ』

 そう言った伊達尚樹だて なおきの手には銃が握られていた。いつの間に……そう言えば、あじさいの棺の中に、何か、銃の形をした物が入っていると思ったら、あれがそうだったんだ。

「茜! 今すぐ逃げろ!」

 僕の声に茜は脱兎だっとごとく、冷凍室から飛び出した。

 その後ろ姿に何発かの弾丸を放たれた。だが、茜は身体を低くして物陰に隠れながら素早く逃げていった。

 さすがアメリカ帰り『』で暮らしていた者は、身のこなしが違う! こんな緊張した場面でも僕は感心して見ていた。僕に何があっても……この事件に巻き込んでしまった、茜にだけはケガをさせられない。もし茜に何かあったら、アメリカにいる彼女のフィアンセに申し訳がたたない。

「茜、逃げ切ってくれ!」僕は心の中で叫んだ。

 首尾しゅびよく、一発の弾劾を浴びることもなく、茜はドアから逃げて去った。

『チェッ』

 茜に逃げ切られて、伊達尚樹になった君は顔を歪めて舌打ちをした。

『女には逃げられたが、おまえには死んでもらおう!』

 静かに銃口を僕の方へ向けた。

真亜子まあこ、いや侑子ゆうこさん、これ以上罪を犯してはいけない! 君は病気なんだ。大人しく銃を僕に渡しなさい!」

 手を伸ばして君から銃を取り上げようとした。

 確か、この大きさの銃なら弾丸は七発くらいしか入らない。伊達尚樹を殺った時に一発と、今、茜に向けて三発くらい発砲したはずだ。残りはたぶん三発くらいだが……。

『バカな奴め!』

 君は躊躇ちゅうちょすることなく引き金をひいた。僕は身をひるがえして床に倒れ込んだ。

 肩に激痛が走る。弾丸が僕の肩を貫通したようである、苦痛に床を転げ回っている僕にもう一発、脚に向けて君は発砲した。もう完全に動けなくされてしまった。

 肩と脚から血を流し、エビのように丸まった僕の上から、君は馬乗りになって身体を押さえ付けると……こめかみに冷たい銃口を突き付けた《殺される……》僕はもう諦めるしかない、きつく目を瞑った――。

『真亜子がね、わたしより遼くんの方が好きになったらしい』

「……うっ」

 僕は恐怖で声も出ない。殺るならさっさと殺ってくれ!

『わたしを差し置いて、他の男が好きになるなんて許せない! 真亜子は今、眠らせている。わたしの妻たちにチョッカイを出した、君が悪いんだ』

 伊達尚樹の人格はそう言うと、銃口を強くこめかみに押しつけた。

『これが最後の弾丸だ、これであの世に送ってやろう』

「もう……ダメ……だ」

 僕は恐怖と傷の痛みで気が遠くなっていく。


 一瞬、気を失ったが、何秒後かに僕は気がついた《あ、なぜ? 死んでない?》驚いて頭を持ち上げたら、君がしゃがみこんで僕を見ていた。

「大丈夫ですか?」

 とても優しい女性の声だ。間一髪で人格が入れ替わったみたいである。

「あ、あなたは誰ですか?」

「わたしは伊達侑子だて ゆうこです」

「侑子さん、あなたは……」

「ずっと眠らされていましたが、茜さんに起こされて自我を取り戻しました。遼さん、あなたのことは真亜子との交換ノートで読みました。彼女はあなたのことをとても心配していました」

「真亜子はどうなったんだ?」

「尚樹に抑圧されて深層に押し籠められて出て来れなくされてしまいました」

「そうか……真亜子には逢えないんだ」

 真亜子は侑子の中の人格のひとりなのに、僕に取っては特別の人だった。――真亜子まあこ、君だけを愛している。

「夫の尚樹があなたに酷いことをしました。寸前で出て来てくい止めることが出来ました。今はすべての人格をわたしがコントロールしています」

「……ありがとう」

「わたしの夫の尚樹はここに死んでいます。――わたしの人格が作りだした男は伊達尚樹なんかじゃない! 本当の夫はとても優しい人でした」

 侑子は、あじさいのしとねで眠る夫を愛しげに見つめ、優しく髪を撫でて、凍った唇にキスをした。そんな姿に彼ら夫婦の深い愛を感じた。

「さあ! 遼さんはここから出るのよ!」

 侑子は、動けない僕の身体を引きずって冷凍室の外へ連れ出してくれた。

「遼さん、ありがとう。真亜子はあなたのことが好きでした」

 そう言うと素早く、僕の頬にキスをして、冷凍室に戻って内からドアを閉めた。何をする気だ? そんな中に居たら凍死してしまうじゃないか、それとも……まさか……?

 僕が最悪の事態を想像した、その瞬間、内側から拳銃の音がした――。

 ああ、侑子さん。ああ……なんてことだ! 僕は深い悲しみと共に再び意識が遠退いていった。


 ――誰かが必死で僕を呼んでいる。

「遼ちゃん! 遼ちゃん! 遼ちゃん!」

「茜……耳元でうるさい……」

「あっ、気が付いた! 遼ちゃんが生きていたぁー」

「ああ、命に別状はないみたいだ」

 助かった! 気が付いたら僕は救急車に乗せられていた。

「こんな血まみれになって……」

 泣いているような顔で茜が笑った。一番、僕が気になっていることを訊いた。

「――彼女はどうなった?」

 その質問に茜は黙った。

 悲しそうな顔でゆっくりと首を横に振った。その仕草で君が死んだことを僕は悟った。たまららず涙が込み上げて……頬を伝っていく。

 真亜子、すまない……君を助けてやれなかった。真亜子、すまない……すまない……涙が後から後から流れだした。身体の傷よりも君をうしなった悲しみの方が僕の心を深くえぐっている。

 気付けば、茜も一緒に泣いていた、僕らは『真亜子まあこ』という侑子の中の人格のひとりに深く哀悼あいとうしていた。

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