あじさい通り
泡沫恋歌
◇ 白いあじさい ◇
「あじさいの花が好き」
と、君が言う。
「どんな、あじさい?」
と、僕が聞くと、
「純白のあじさい」
と、答えた。
「あじさいなのに白? 色が変わらないとあじさいじゃないだろう?」
もう一度、聞き返したら……。
「白くて何ものにも染まらない、そんなあじさいになりたい」
そう言って、君は薄く笑った。
ラブホテルの一室で、情事の後のまどろみから目覚めた僕らは、そんな他愛のない会話から始まった。
大きなベッドと小さなソファーセット、外から中が覗けるバスルームがある。セックスのためにだけ使われる、この部屋はすべてが簡略化されて、愛なんか入り込む隙間すらなかった。
名も知らない君を、行きずりに抱いた僕は飢えたケダモノだったと……ラブホテルのこの部屋がそうもの語っていて、この
あじさいの花が、テーブルの上で水も与えられずに萎れていく。
◇
突然、バケツをひっくり返したような夕立に遭遇した。
なんとなく曇ってきたなと思ってから降りだすまでに、ものの十五分とかからなかった。逃げ場をなくした僕はずぶ濡れになって、住宅街の中にある、個人の住宅のガレージに入り込んだが、そこには、すでに先客が居たので驚いた。
君は白っぽいコットンのワンピースにミュールを履いて、屋根付き駐車場の奥に
「こんにちは」
にっこり笑って挨拶をした。
しばし呆然としていた僕は挨拶も返さず、無遠慮に君をジロジロと見てしまった。歳は三十過ぎだろうか? 髪はすっきりとシニヨンに結いあげて、色が白くて、上品な顔立ちをした美人だ。スレンダーでスタイルもとても良い。この近所の主婦だろうか?
「急な夕立でお店もないんで……ここで雨宿りさせてもらおうと……」
なんとなく言い訳がましい挨拶をした。
高校時代の友人がこの近所に引っ越ししてきたと聞いて、アポ無しでブラリと訪ねてみたが、留守だったので仕方なく帰るところだった。
大学卒業から五年経つが、希望する企業に就職できなくて、そのまま父親の経営する会社を手伝っている。始めの頃は懸命に就職活動をしていた僕だが、最近では父親の仕事にも慣れて、もう、このままおやじの跡を継いでもいいかなあ、とさえ思い始めている。さえない毎日だけど、こんなものかと諦めていた。
とにかく、自由が利くし、こんな風に思い立ったら友人にも会いに行ける。将来のことを考えたら、おやじの仕事も悪くないかぁ――。
「あじさい、きれいですね」
先ほどから、気になっていたのだが、大きなあじさいの花束を君は持っていた。それは青、ピンク、紫をとてもカラフルできれいだった。白っぽいワンピースによく映えて、あじさいが浮き上がって見えるほど鮮明であった。
「花泥棒したの」
「えっ?」
「あじさいがきれいだったから盗んできたのよ」
うふふっと、君はいたずらっ子のような目で笑った。
「そうなんですか? まあ、昔から花泥棒はお
「そんなんじゃあ、ないの。憎い人の家から盗んできたの」
「そ、そうすっか。あはは……」
シャレにもならないことを言い出したので、僕は答えようがなくなって曖昧に笑った。それ以上、深く聞くのはなぜか
「あなた、びしょ濡れじゃないの?」
今さら、驚いたような声で君が言った。
ヘックション、くしゃみまでタイミングよく飛び出した。
びしょ濡れの僕は、これからどうやって帰ろうかと思案していた。おやじに車で迎えにきてもらうか、タクシーだな。
「まったく、ひどい雨で……家族に電話して迎えに来てもらいます」
夕立はいっこうに止みそうもない。
住宅街の家々の庭先には、色とりどりのあじさいの花が咲き乱れている。たしか、ここらあたりはあじさいを植えている住宅が多いせいか、『あじさい通り』と近隣で呼ばれている地域だった。
梅雨だから雨が降るのは当たり前なのに、傘も持たずに出掛けた、自分自身の
チッと舌打ちをして、メッセージを入れてから切った。これじゃあ、いつ迎えに来てくれるか分からない。
ヘックション、ヘックション! 立て続けにくしゃみが出た。やはりびしょ濡れだと身体が冷えてきたようで、少し寒気がする。
「どしゃぶりの激しい雨が降るとアメリカ人は『ヘブンズオープン』って言うらしい」
「まあ! 天国の門が開いちゃうの? だったらいいのに……」
虚ろな瞳で僕を見て微笑んだ。そして、いきなり君の口から、
「どこかで、服を脱いで温まりましょうか?」
「えっ……」
いきなりのその言葉に僕は驚いて――。なにを言っているんだろう? この人。服を脱いで温まるって……そんな場所は?
「さあ、行きましょう」
雨が少し小降りになってきたら、君は僕の手を握って歩き始めた。
なんだか訳が分からないまま、引っ張られて僕も歩き出した。いったいどこへいくつもりなんだ?
この女性は美人だし、嫌いなタイプではない。――だけど、雨宿りで主婦にナンパされて付いて行くって、どうなんだろう。僕も学生時代からずっとスポーツもやっていたし、スタイルにも自信がないこともないけど……この人、なにを考えているんだ?
この近くの主婦なのか、近所の地理には詳しいようだった。それは住宅街の奥まった場所にあった。
――こじんまりしたラブホテル。
むしろ『連れ込みホテル』と呼ぶ方がぴったりな淫靡な建物だった。
ホテルの中に入った僕らは、小さなフロントの窓から、部屋番号を付けた鍵を渡されて、その部屋を探して入った。最近のお洒落なファッションホテルと違って、なんだか陰鬱で湿気た部屋だった。壁のあちこちに得体の知れないシミがあって、なんだか気味が悪い。
「一度入ってみたかったの」
君はこともなげに言うと、にっこりと微笑んだ。
その透きとおるような笑顔が眩しくて、ひどく、この部屋と場違いな感じがした。――ここまで来たのだから、もうなるようにしかならないと僕は覚悟を決めていた。
ゆっくりと濡れた服を僕は脱ぎ始めた。冷えた身体を温めるために熱いシャワーを全身に浴びた。僕がシャワーから出たら、君は交代でシャワーを浴びてバスタオルを巻いて出て来た。まったく恥ずかしがる風もなく、しごく自然体だった。
「いいんですか?」
「ええ……」
君は頷いた。
「じゃあ……」
僕は部屋のライトの明るさを暗く絞ると、ベッドに腰かけている君を抱きしめて、そのうなじにキスをした。裸体を隠しているバスタオルに僕は手をかけた。君は目を瞑ってなすがままになっている。
ラブホテルの仄暗い照明の下で君は白い魚のようだった。
無抵抗で、ただ僕に身体をあずけていた。欲求不満の主婦かと思ったら、そうでもない……なんだか、自分自身を卑しめるように、いたぶっている――もっと言うなら、自分に罰を与えるために、見ず知らずの男に身体を与えているようにさえ僕には思えた。
君が何を考えているのか分からないまま、反応の薄い君の身体で僕は欲望を満たした。ひどく惨めな感じだった。娼婦を買ったことはないが、欲望だけで女を抱くというのはこんな感情なんだろうかと、君の身体から離れた時に僕はそう思っていた。
それなのに君は小さな声で、
「ありがとう」
と、言った。
微かに届いたその声に答えず、僕は目を瞑った。
しばしのまどろみの後、僕らはあじさいの話をした。なんとも捉えどころのない不思議な人だと君のことを思っていた。
服は濡れているが、ここに居るのも気が滅入るので、もう一度熱いシャワーを浴びてから帰る準備をしようと、僕はシャワー室に入っていった。
シャワー室から出てきたら、部屋に君はいなかった。
いつの間にか、ひとりで帰ってしまったようだ。見ると、テーブルの上に萎れたあじさいと一緒に現金が置かれていた。数えたら五万円もあった。――そのお金で君は僕を買ったってことなんだろうか?
五万円という金額が高いのか安いのか分からないが……自分自身がまるで男娼みたいに、主婦に買われたという事実に当惑していた。まるでゲーム感覚でいきずりの男とセックスをしてお金を払ってバイバイすれば、それでいいと君は思っているの?
そんなんじゃないんだ!
弄ばれたようでプライドが傷ついた。そんな君の心が悲しかった。あれだけの美人なのに、お金で男を買わなくても……その気になれば、いくらだって相手はいるだろう? それとも僕が気に入ったの? ずぶ濡れだった、この僕を?
僕を買った割には、君はセックスを楽しんでいなかったのに「ありがとう」って、あれはどういう意味なんだろう? 君の気持ちが分からない。
こんな金なんか! 部屋に置いて出て行こうとドアの前まで行きかけて、
そうだ! いつか、あの女に逢えたら、この金を突き返してやろう。僕は濡れたズボンのポケットの中に現金を捻じ込んだ。
――そして、ホテルから出ると大通りまで出てタクシーを拾って帰宅した。
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