オムライス・ピカソ ~風子とパパの日常1~

新樫 樹

オムライス・ピカソ

「おそらがうたってるね」

 散歩の途中でふと風子が立ち止まる。

 視線の先を追いかけると、青い空を背景に電線が幾つもの黒い線を引いていた。

 歌ってる?

 うたってる、うたってると、楽しげに空を見上げたまま動かない風子に合わせて、僕もじっと空を見る。しばらくそうして、ようやく気付く。ああ、五線か。

「そうだな。歌ってるな」

「うん!」

 満足げに頷いてずっとつないでいた手を放すと、風子は子犬のように走りだした。目の前の公園には誰もいない。いつもはなかなか順番が回ってこないブランコに、まっしぐらに飛び乗っている。

 ベンチに腰かけると、優しい風がふわりと流れた。

 穏やかな平日。

 遠く見えるマンションのベランダで洗濯物も眠そうだ。

 幼稚園の他の子たちは、元気に遠足に行っている。目的地の自然公園で遊び始めている頃だ。こんな小さな近所の公園で、けれども風子は幼稚園では見せたことのない笑顔で遊んでいる。

 哀れになる。

 悔しくなる。

 風子のことも、僕自身も。

「のれた!」

 小さな足をでたらめにバタバタさせながら、わずかに揺れだしたブランコに自慢げな声を上げる。

「すごいな、風子」

 ブランコの揺れに合わせて足を曲げ伸ばしするんだよ…そういう説明は風子にはうまく伝わらない。ほんの少しだけ、他の子供よりもゆっくり成長している風子の心は、まだ外の世界よりも自分の世界の方が大きい。不器用で繊細。手のかかる子。そんなふうに周囲には見えているらしかったけれど、僕にはよくわからない。僕にとって風子は風子だ。

 首を巡らすと、一角にクローバーが群生していた。

 そういえば、まだ四葉のことを教えたことがなかった。今度は一緒に四葉を探してみようか。見つけた人に良いことがある葉っぱだと言ったら、きっと目を輝かせるに違いない。

「のれた!!」

 さっきよりも激しいバタ足でぐらぐらと揺れも大きくなったブランコに、頬をピンクにして風子が叫ぶ。

 僕は親指を立てて前に突出し、やったなと笑った。



 風子と一緒にいるだけで息が詰まるの。

 ある日突然、妻に言われて呆然とした。

「あの子、他の子と全然違うのよ。もう私、どうにかなりそう」

 夜泣きの多い子だったし、体の発育も遅いと聞いていた。個人差のあることだし、そんなものなのだろうくらいにしか思っていなかった僕は、妻の告白に言葉も出なかった。

 言いたいことはたくさんあった。

 けれど、プライドの高い彼女がぐちゃぐちゃに泣いている姿を見たら、自分の中に浮かんだありきたりな言葉をそのまま出すことはできなかった。

 他の子に普通にできることができない。

 食事も着替えも、言葉も理解も。

 生活のひとつひとつにつまづく風子。

 男性並みに仕事に生きてきた妻には、それがすべてにおいて重たい枷になっていたのかもしれない。

「私だって苦しいの。自分の子供なのに…それなのに…」

 可愛がってあげられないの。

 あの子といると、自分がどんどん嫌になるの。

「わかった。全部任せてしまっていてごめん。きみは全然悪くないよ。風子も悪くない。これから、家族でどうするのが一番いいのか考えよう」

 やっと言って、僕は彼女を抱きしめた。

 こんなふうに僕の胸で泣く姿を見るのは初めてで、小さな嗚咽が愛おしかった。

たぶん決めたのはその時だ。自分自身でも考えもしなかった人生の選択を。

 そうして僕は、主夫になったのだ。



「パパ、おなかすいた」

 ふと我に返ると、目の前に丸い顔があった。

「何時だ? ああもう12時か。よし、昼ごはんにしよう」

 風子は幼稚園の行事を嫌う。

 入園してすぐの親子遠足も行かなかった。行けば存外楽しめるのではないかと連れ出そうとしたが、火がついたように泣いてだめだった。

 今日は先生に連れられて子供だけでいく遠足があったのだけれど、結局行けなかった。用意していた弁当があるから、昼はそれでいいなと思っていたら。

「オムライスがいい」

 そんなことを言い出した。

「風子、お弁当あるんだよ」

「やだ。オムライスがいい」

「じゃ、パパにお弁当くれる?」

「だめ。パパもオムライス」

 こうなると風子が折れることがないのは知っている。

「いいけど、手抜きオムライスだぞ。中身もチキンライスじゃなくてウィンナーライスだぞ」

「いい! てぬき、てぬき、てぬき!」

 わくわくと手抜きを連呼しだすのを苦笑しながら眺め、『まぁいいか』といういつもの呪文を口の中で唱えた。

 手をつないで帰路につく。

 相変わらずの青空。

 ぽっかり風子とふたり、世界から切り離されているような気分になる。

 もしも風子の世界が見えたなら、してあげられるのだろうか。他の子と同じような子供に。そうしたら風子はもっと楽に生きられるのだろうか。

 哀れな悔しい思いを、しなくてもすむのだろうか。

「こんどは、ふーちゃんがおえかきするの」

「お絵かき?」

「ケチャップ」

「そうか。そうだったな」

 この間の夕食で、僕がふざけてハンバーグにケチャップで絵を描いたら、風子はものすごく喜んだ。以来、ケチャップをかける料理を今か今かと待っていたのだ。

「何の絵を描くの?」

「ぴかそ」

「え?」

「ぴかそだよ」

 ピカソ?

 あの、ピカソ?

「風子はピカソ知ってるのか?」

「うん、ママがおしえてくれた。しかくと、さんかく!」

 しばらく考えて、ああ、と思い至る。

 風子は幼稚園のお絵かきも苦手だ。

 見たものを見たままは描けない。

 すべてがいびつに歪む絵は友達に変だと言われたらしく、すっかりしょげて帰って来たことがあった。パパは風子の絵が好きだよと励ましてみたが効果はなく、仕事から帰宅した妻にそのことを話した。すると妻は微笑んで、バッグからリーフレットを取り出した。

「ほら、ふうちゃん見てごらん」

 それはたしかピカソ展の案内だった。

「へんな、え。しかくとさんかくばっかり」

 むすっとしたまま言う風子に、

「そうね、面白い絵ね。この絵を描いた人はピカソと言ってね、世界中の人たちが知っているすごい画家なのよ。この人にしか描けない、面白い絵よね」

 ぱちんと音がしたみたいに、風子の顔が変わった。

「ふーちゃんのえも?」

「そうね。ふうちゃんの絵は、ふうちゃんにしか描けない面白い絵だとママは思うよ。それってすてきね」

 あのやりとりを、ちゃんと覚えていたんだ。

 よほどうれしかったに違いない。

「ふーちゃん、オムライスにピカソするの」

「そりゃいいな。風子だけの特製オムライスだな」

「うん!」

 電子レンジフル活用の手抜きオムライスに、風子が描いたキュビズムが赤く乗る。唇を尖らせながら一生懸命に描いたそれは、すっかり冷めてしまっただろうオムライスに網目のように広がっている。

 揃っていただきますをして、僕はさっそく口のまわりをケチャップだらけにしている風子を見ていた。

 幸せそうにオムライスを頬張る風子は、ちっとも哀れじゃなかった。

 それを見ている僕にも、悔いはなかった。

 ピカソがピカソであり続けたように、僕らも僕らであればいいのかもしれない。

 誰ともどことも違っても、僕は風子が大好きだし、妻を誇りに思っている。

 そういうことなのかもしれない。

 ふと思いついて僕の分のオムライスを携帯で撮った。

 最近始めたブログにアップする。

「オムライス・ピカソだな」

 きょとんとした風子の、頬にまで広がっていたケチャップを拭くために、僕はそっとティッシュに手を伸ばした。

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