四神倶楽部物語
鮎風遊
第1話 禁断の扉
初冠雪、桜花爛漫、蝉時雨、紅葉狩りと、季節は毎年忙しく巡り行きます。
そしてその容赦のない季節の移ろいの中で、人たちは通勤、会議、出張、残業などからなる業務を絡ませながら、幸い小説のネタになるほどの事態に遭遇することもなく、多忙でありながらも淡々と毎日を暮らしています。
実は私も、そんな人たちの中の一人かと思っていました。しかし、案外この穏やかな日常を破って、私の身に起こったのです、まことにミステリアスな出来事が――、なんと次から次へと。
そして最終的に、これらは私に与えられた宿命へと導く一つ一つのステップだったとわかったのです。
そう、その発端は1年前のことでした。桜の時節もあっと言う間に終わり、新年度として、私どもの会社の業務遂行もより拍車がかかっていました。
その証拠に、他の企業と同様、私の会社でも毎年恒例、そうです、お決まりの経営トップから新年度に向けてのプレゼンがありました。
目的は従業員全員に新年度の目標を周知させることにあります。達成に向け社員一丸となり邁進せよと
とはいえ、私も当然それを重く受け止め、新たな気持ちで仕事に頑張りたいと気合いを入れ直したのであります。
おっと、自己紹介が遅れました。私は
世間ではそこそこ名の通ったネット通販の会社に勤めております。当社は、高級嗜好のお客さま専用の会員制ロイヤルクラブ・
このクラブは昨年よりさらに遡ること3年、当社の目玉としてスタートしました。自画自賛になるかも知れませんが、私たちスタッフの努力もあり、順調に会員数を伸ばしてきておりました。しかし、ここへきて少し中だるみ状態、つまり会員数が伸び悩み、苦戦しておりました。
されども結果は結果ですよね。
そこで経営から打ち出された新年度の目標は、会員数の30%アップ。
もちろん理解していますよ、甘えは許されないと。
それにしても、まあ、いつものことですが、経営トップは現場の苦労を無視し、高い目標の設定し放題ですよね。そんなのちょっと、目標と希望は違うぜ、と叫びたい気持ちにもなりましたが、こちらは滅私奉公のサラリーマン、文句は言えません。
その上、私はこの仕事が根っから好きでして、だから上からのプレッシャーをネガティブにとらまえず、それを自分への天の声と解釈し、挑戦し頑張ってみようと思っていました。
だけれども単に頑張ってみると張り切ってみても、伸びがどこまでもゼロに
そのためには日常の生活の中でもピリピリと感度を上げ、かつ何にでも好奇心を持って暮らしていくべき、そうなのです、その土壌から生まれてくるフレッシュな発想が必要だと思い至ったわけです。
自称・オフィスの星、私にも仕事へのプライドがありました。起死回生で、高級ブランドの志向が強いお客さま向けの新企画を練り始めていました。
そんな状況下にあって、最初の奇々怪々な出来事が起こったわけです。
そう、あれは……、何かあっと驚くような新企画がないかなあ、といろいろ考えながら夕暮れの街を歩いていた時のことでした。学生時代の友人の
「ヨー、久し振り」
懐かしくって、積もる話しもあります。そのまま連れだって飲みに行きました。
槇澤は学生の頃はまじめな男子学生で、勉強もよくできた頭の良いヤツです。
それにしても、ホント、久し振りでした。それで昔話に花が咲いたわけですが、今の身の上は互いにサラリーマン。最後には、それぞれの会社の愚痴を吐き出し合って、慰め合うような話しの展開になりました。私もアルコールの勢いに任せて、ついつい性懲りもなく、いつもの調子で吐いてしまったのです。
「会員数を増やすためには、斬新な新企画が必要なのだけど、上は早く、あっと驚くようなアトラクティブなものを出せって攻めてくるだけなんだよ。だけどそう簡単には妙案なんて思い付かないよなあ」
ところがですよ、槇澤はこんな私の愚痴を聞いて、その後何を思ったのか突然に訊いてきたのです。
「龍斗よ、……、お前、人を殺したことはあるか?」って。
これにはびっくりしました。
たとえ飲んだ勢いだといっても、槇澤がなぜそんなことを、唐突に話し出したのかがわかりません。
「えっ、槇澤、それってお前、誰かを殺してしまったということなのか?」
私はビールのグラスを持ったまま、思わず聞き返してしまいました。すると槇澤はビールをぐっと
「ああ、結果としてね。そうなってしまったんだよなあ」
「おいおいおい、槇澤、お前大丈夫か? 今からでも自首した方が良いんじゃないか」
私は友人の身が心配で、とりあえずそう薦めたのですが、ホントその時に酔いがいっぺんに醒めてしまいましたよ。だけど槇沢はまったく動じていないのです。
「世の中には、不思議なことってあるものなんだよなあ。これを
槇澤は独り言を漏らして、その後、その縁というか、宿命というのか、その物語をぽつりぽつりと語り始めたのです。
あれは、もう1年ほど前のことだったかなあ。
そう、俺がこの町へ転勤して来た時にね、アパート探しをしたのだけど、なかなか高くって、見付からなかったんだ。
なかなか良い物件がなくってね、ホント困ってたんだよなあ。
だけどそんな時に、ラッキーに見付けたんだよ、市価より20パーセントオフの賃貸を。
それは町外れの不動産屋にあった物件だったのだけど、もちろんすぐに俺はそれに飛びついたさ。それで不動産屋の係の人に、現地確認で、見に連れて行ってもらったんだ。
間取りは2DK、単にそれだけの物件だったのだけど……。
だけどそれがねえ、結構手入れが良くってね。それに交通の便も良いし、見晴らしも良い。申し分なかったんだよな。
そこで俺はすぐにここにしようと決めたんだ。だけどね、その不動産屋の担当者がぼそぼそと呟いたんだよなあ。
「槇澤さん、一つだけ知っておいて欲しいことがあるのです」ってね。
俺は即座に「知っておくべきことって、何なのですか?」と聞き返したらな、すると担当者は「あれを見て下さいよ」と目配せをしてきたんだ。
それで、その方向を見てみると、それが貼り付いてたんだよ、そこに。
なあ龍斗、それは何だと思う?
私は、槇澤のこんな持って回ったような話しに少しいらっときて、「何がって? 亡霊でも貼り付いてたんだろ」とギョロッと睨み付けてやりました。
一方槇澤は、私のこんな大人げない反応が面白かったのか、くすっと笑い、おもむろにあとを続けました。
龍斗よ、まあ結果としては、それに近かったかな。
教えてやろうか、それってな、それは――扉だよ。
ホテルに、そうだな、特に海外ではちょっと大人数で宿泊する時、隣り合った二部屋を取るよな。その連続した部屋間にあるだろ、隣の部屋へ繋がっている扉が。いわゆるコネクティング・ドアーというやつが。
そのコネクティング・ドアーってさあ、俺はこの世の中にはたくさんあることを知っていたから、特に驚かなかったのだけど。不動産屋の担当者がね、訊いてもいないことをまたペラペラと喋ってきたのだよなあ。
「あの扉、
突然気を付けろと言われてもな、そんなことコネクティング・ドアーの常識だよな。
どちみち二重扉になっていて、こちらはこちら側のロックを外さなければならないし、隣は隣で、向こう側のロックを外さない限り、部屋どうしは繋がらないだろ。だから、こっちが外さない限り、ぜんぜん危なくないし、大丈夫に決まってるよな、そうだろ。
とにかくその時、俺は開けないことにメッチャ自信があったんだよなあ。
私は槇澤の話しに、「そらそうだな」と大きく頷き、「禁断の扉であろうがなかろうが、そんなの関係ないよ。槇澤にとっては、家賃が安いのが一番だ。それで、当然契約したんだろ?」と、その顛末を知りたくて、私は思わず顔を前へ突き出しました。
もちろんだよ。すぐに契約したよ。
だけど不動産屋が言った禁断の扉、その言葉がね、ちょっと心の隅っこに引っ掛かってしまってね。担当者に、それって、なぜ禁断の扉なんですか? って訊いてみたんだ。するとそいつはちょっと心配そうな顔付きをしてね。
「禁断の扉は、いわゆる禁断の扉ですよ。よくわかりませんが、どこかの男の楽園へ繋がっているとかの噂でして……、槇澤さんのご意志次第ですが、まあ、お気を付けて下さい」ってね、不動産屋はそう答えただけだよ。
だけど今考えてみると、あの返答、メチャクチャ歯切れが悪かったんだよなあ。
そんなこともあったのだけど、俺は特に気にもせず、早速契約して、そのアパートに住み始めたんだ。
それが実に快適でね、確かにもっけもんだったよ。
「ほー、それじゃアッタリーで良かったじゃないか、入居おめでとう」
私はビールのグラスを槇澤のグラスにカチンと合わせ、ヤツの幸運を祝福してやりました。
すると槇澤は、今度はなぜか何かを訴えるような眼差をして、私をじっと見つめてくるではありませんか。
ああ、あの時まではね。
そう、あれは住み始めて、1ヶ月経った頃のことだったかなあ。ある夜のことだった。それも草木も眠る丑三つ時に。
コンコン、……、コンコン。
その禁断の扉の向こうから誰かがノックしてきたんだよ。ホント、ゾーッとしたぜ。
だけど、これって、考えてみれば、隣人からのノックだろ。
するとね、龍斗。
まあ、それはそれは甘い声でね。「ね~え、良樹さん。イケメンの良樹さん」って
これホント、度肝を抜かれたよ。
だって、いきなりなんだぜ。苗字ではなく名前で――、良樹さん、てね。
俺としては、イケメンは充分納得できるけど、とにかく名前で呼ばれたんだぜ。その上にだぜ、いけない魔女風にさらに囁くんだよ。
「いいことあるから、ここをちょっと、開けて下さらない」ってね。
これ、ビビッたぜ。
「じゃあ開けなかったんだ」
私が槇澤にそう確認すると、槇澤はただただグビグビとビールを飲み干しました。そしておもむろに……。
開けてしまったよ。その禁断の扉を。
龍斗、お前わかるだろ、禁断の扉だぜ。
禁断の扉ってなあ、それはその掟を破って、開けるために存在しているんだ、ってこと。
いけない魔女の甘い囁きで、「ね~え、良樹さん、いいことあるから、ここをちょっと、開けて下さらない」ってせがまれたんだぜ。そんなの、掟を破るよなあ。
それに、龍斗、開いてみて、もっとぶったまげたよ。ホント、自分の目を疑ってしまったぜ。
禁断の扉の向こうにね、目のさめるようなビーナスが……。
うーん、ちょっと違うかな。そうなんだよなあ、目の前がクラクラッとするような、実に妖しい魔性の女が立っていたんだよ。
私は、こんな槇澤の話しにさらに興味が湧いてきて、「おいおい、魔性の女って、どんな女性だったのか、もっと具体的に言えよ」とせっつきました。すると槇澤は、少しもったいを付けるように話してくれました。
髪の毛は長くって、どこまでも漆黒。
そうだなあ、
抜けるような白い肌は、静脈が透き通って見えるほどの美肌でね。目は切れ長で、男を誘惑し
そして唇は若干肉厚で、ピンク色。
「おいおいちょっと待った、槇澤よ、それってパーツパーツの能書きじゃないか。もうちょっと全体的なイメージが湧くような表現にしてくれよ」
私はこう文句を付けてやりました。すると槇澤は私の方をきりっと睨み返してきて、言い放ったのです。
要はなあ、男の一生の間で、一度は抱いてみたいと思うほどの色気がある女性なんだよ。
龍斗、これでお前もイメージが作れるだろ。
それにしても、男の一生の間で、一度は抱いてみたいと思うほどの色気がある女性?
私は一旦うーんと首を傾げましたが、それでも槇澤のこの勢いのある放言で、何となくわかったような気分になりました。そのためか、なるほどと頷くだけでした。槇澤は私のこの反応を見届けてからさらに続けました。
俺、一目惚れしてしまったんだよなあ。
もうどうしようもなく気持ちが高ぶってね。何をどうして良いものやらわからなくなってしまってね、ポーとしてたんだ。
すると彼女は、そんな俺を察してか、名乗ってきたんだ。
「私、
だけどその後、もっと驚いたよ。
「一体何にだよ?」
私はもう聞きたくて辛抱できません。そんな私をからかうように、槇澤は声を潜め、女性の言葉を真似るのです。
ねえ、こちらのお部屋の方へ入って来て下さらない、と佳那瑠さんが色っぽく仰ったんだよなあ。
いやはや龍斗、よーく認識してくれよな、世の中にはこういうこともあるんだぜ。
私はこんなのろけに似たような話しに、なにか馬鹿らしくなってきました。しかし槇澤は、こんな私に気遣いもせず、どんどん話しを進めます。
これ、誘惑してきたんだぜ。据え膳食わぬは男の恥って言うだろ。もちろん遠慮なくお邪魔させてもらったよ。
佳那瑠の部屋はメッチャ片付いていてね。どちらかと言えば、何もなかったと言った方が良いのかも知れないなあ。
だけど龍斗よ、……、あったんだよ。
槇澤がもったい付けて、あったんだよ、なんて言うものですから、私は思わず、「えっ、何が?」と聞き返してしまいました。
龍斗よ、それって当然だったのかも知れないなあ。
反対側の壁に、もう一つ。同じ古代蝶鳥の模様の禁断の扉がね。
ということは、このアパートは防火対策で、いざという時に隣から隣へと逃げて行けるように、その禁断と呼ばれてる扉で繋がっているのかなあと、その時は思ったんだよ。
だって、禁断と火事がイメージ繋がりして、そうだろ、龍斗だってきっとそう考えるだろ。
「うん、確かにな」
槇澤が無理矢理に同意を求めてきたものですから、私はお愛想で深く頷いてやりました。それに気をよくしたのか、槇澤はさらに調子付きました。
だけど、佳瑠那とのそんな突然で奇妙な出逢いであってもね、当然あとは男と女の成り行きさ。すぐに仲良くなってしまってね。
それからというものは、僕の部屋と佳那瑠の部屋の間にある禁断の扉は、いつも開けたままで暮らすようになったんだ。
私は槇澤の身に起こったことが羨ましくなってきました。それでやっかみ半分で、「いいじゃないか、隣人同士の禁断の関係、それを持ったんだろ?」と、わかり切ったことをもったい付けて尋ねてやりました。
禁断の関係? もちろんさ。
隣人の男と女。部屋を繋がらせて暮らし始めたんだぜ。禁断の果実を遠慮なく、美味しくいただいたよ。
龍斗、お前だってきっとそうするだろ。
私は同意を求められ、「ああ」と短く答えました。槇澤はそれを確認して、もうあとが止まりません。
そりゃ毎晩、
佳那瑠は感度が良くってね、うーうーってね。それはそれは、か細い声で鳴くんだよなあ。もうたまらなくなってしまってね。
一生涯佳那瑠を離せない。いや、永遠にかな。
そのためには佳那瑠と結婚しよう。早く籍を入れて、法律上も自分のものにしてしまわないと、誰かに取られてしまうのではとちょっと焦り出したんだ。
それからすぐに、真剣に結婚を考え出したある夜にね、佳那瑠が低い声でボソボソと呟いたんだよなあ。
「私が良樹さんのものになるためには、決着を付けなければならないことがあるの」ってね。
決着?
俺は何のことかさっぱりわからなかったけど、佳那瑠が決着と、そんなスゴイことを言ったんだぜ。
俺にとって、それはあまりにも唐突だったものだから、ハトが豆鉄砲を食ったような顔に多分なっていただろうなあ。だけど気を落ち着かせてね、「どんな決着なんだ?」って佳那瑠に訊いたよ。
するとね、やぶから棒にだぜ、しかも目にうっすらと涙を浮かべて懇願してきたんだよなあ。
「
なあ龍斗よ、俺たちの同級生の山路隆史って知ってるだろ。
私は当然山路のことは知っていました。だから、「ああ、頭が良くって、銀行に就職したヤツだね」と返しました。
その山路だよ。
佳那瑠はもう一度、山路隆史を、ここへ連れて来てと迫ってきて、あとはポロポロと涙を流し始めたんだよなあ。
その時に俺は思ったんだ、ひょっとすれば、山路は佳那瑠の前の恋人だったのでは。その女と今度は俺が……、うーん、これは単なる偶然であって欲しいと。
佳那瑠と山路の間にどういう経緯があったのか俺は知らない。だけど、今は俺が佳那瑠の恋人に。そして互いに結婚を考えるところまで発展してしまっている。
俺たちが結婚するために、佳那瑠は前に付き合っていた山路と、この際きっちりと別れておきたいと思ったのだろう。それを佳那瑠は、決着と表現したのだと、俺は単純にそう考えたんだよ。
それで俺は、佳那瑠にカッコ良く、よしわかった、山路をここへ連れて来るから、もう泣くなよ……、なんちゃってね。
「それで、やっぱり連れて来たのか?」
私は槇澤の顔を覗き込みました。
ああ、もちろんだよ。
俺は早速山路に電話を掛けてね、アパートに来てもらったんだ。
というのも、俺は佳那瑠に惚れてしまってたからね、早く決着を付けさせたかったんだ。
当然二人は、よく知っていた風で。
俺は、あまり邪魔をしてはいけないと思い、というか、佳那瑠に早く決着を付けて欲しかったものだから、特に口出しはしなかったんだよ。
佳那瑠はね、山路を自分の部屋に連れて行って、何か話し込んでるようだったなあ。だけど、ちょっとした会話が洩れ聞こえてきてね。
「隆史さん、私を永遠のものにしたいと約束したでしょ。だけど、この世界を知ってしまって怖くなったのね。それで私を裏切り、元の世界へと逃げて行ってしまったのよ、あなたは」
どうも山路は言われ放しのようだった。
「だけど元の世界では、あなたを満足させる女なんていないわよ。だって私が住んでる世界を知ってしまったから」
佳那瑠は山路を追い込んで、有無も言わせぬ様子だった。
「こうなれば、もう一つの、そう、第二の禁断の扉を開けて、誰かが待ってる向こうの世界へ行ってみたいでしょ。さっ、そこの扉を開きましょ、私が道案内をするわ」
佳那瑠がなぜか熱っぽく山路を誘っているんだよなあ。その挙げ句に、「槇澤良樹さんを紹介くれたのは、あなた、山路隆史さんよ。私、良樹さんが好きになってしまったわ。あなたもどうするか、決断の時よ」と
それで、俺は心配になってきてね、そっと佳那瑠の部屋へ入って行ったのだけど……。まさにその瞬間だった、二人がね、佳那瑠の部屋の反対側の壁にある禁断の扉を開けてね、入って行ってしまったんだ。そしてバシャンと扉が閉まってしまって、あとの祭りさ。
思えばそうなんだよなあ。俺の部屋との禁断の扉はいつも開けっ放しだった。だけど佳那瑠の向こう側の禁断の扉はいつも閉じられていたんだ。
俺は佳那瑠がそれを開けたのを一度も見たことがない。だけど二人が、その中へと突然消えて行ったんだ。これには驚いたよ。
だけど、俺はあとを追うこともできずでね、随分と待ったかなあ。そうしたら夜明け前に、二人が出て来たんだ。
佳那瑠はいつも通りだったけど、山路のヤツ、ヤケに嬉しそうな顔をして、にやけてやがるんだよ。
一体何があったんだろうかと気になってね、「おい山路、どうしたんだ?」と訊いてやったら、すると山路のヤツ、ほざいたことを……。
「良樹、扉の向こうに、それは素晴らしい世界があった。言ってみれば、そこはシャングリラ、最高だったよ」ってね。
山路のヤツ、そんなことを言い放って、俺のアパートからそそくさと帰って行った。
それから1週間後のことだよ、不幸にも事件が起こってしまったんだ。
山路隆史がね、会社のエレベーターの扉を自分でこじ開けてね。わざわざそこへ飛び込んで、それで死んでしまったんだよなあ。
「えっ!」
私はその出来事を知りませんでした。
まったく信じられないことで、私は仰天しました。そしてビールを一気に呷りました。それで気を落ち着かせたところで、ゴホゴホと咳き込みながら、「それって、山路は自殺したってことか?」と槇澤に確認しました。
うーん、自殺ね。それとも事故死か、……他殺。
ぜんぶ微妙なところだが、俺にとっては他殺かもな。
なぜなら、多分山路は、会社のエレベーターの扉が二つ目の禁断の扉に見えたんだろうなあ。そしてシャングリラに住む新しい彼女に逢いに行くために、それをこじ開けて飛び込んでしまったんだよ。
だけど龍斗、考えてみれば、この現実社会でまじめに生きてた山路だぜ。そんな彼をアパートに呼び出し、佳那瑠に再会させた。そして山路は佳那瑠に、第二の禁断の扉の向こうにあるシャングリラへと連れて行かれた。こんな行動を佳那瑠に起こさせたのはこの俺であり、充分手助けもしたんだぜ。
だから俺は、結果的に、山路を殺したようなものなんだよな。
私は急になにか危険な、というより異次元的な不気味さを感じ、槇澤が心配になってきました。
「おいおいおい、槇澤よ、それでお前、今でも佳那瑠っていう女性と、ねんごろにやってるのか?」
いやそれがねえ、龍斗、その後、不思議なことがあったんだよなあ。
ある日、回覧板が回ってきてね。それを、佳那瑠を驚かしてやろうとふざけてね、隣の佳那瑠の部屋へ玄関から持って行ったんだ。
俺はピンポーンとチャイムを押し込んで、「こんにちは、回覧板でーす」ってね。
そうしたら、ご苦労様です、って言いながら出てきたんだよ、中年のオヤジが。
男はニコニコしながら話すんだよな、「ああ、お隣さん、確か3ヶ月ほど前に引っ越して来られたのですよね。私はここで単身赴任をしてもう3年になります。隣同士ですから、何かあればよろしく」ってね。俺はもうわけがわからなくなったよ。
だってそうだろ、今確か、佳那瑠は隣の部屋でテレビを観てる、はずなんだけど。
俺は「あのう
「まあお隣さんも、可笑しなことをおっしゃるもんだ。まっ、お近付きに、ビール一杯でも飲んでいきなはれ」と。
こっちも部屋の中がどうなっているのか知りたくて、上がらせてもらったんだ。
だけど部屋は散らかってるし、女性なんていないし、それにね、禁断の扉がなかったんだよ。俺の部屋と繋がってるはずの、あの禁断の扉が。
そしてもう一つの、向こうの部屋へと繋がっているはずの第二の禁断の扉も。そのどちらもが、どこにもないんだ。
これには俺も慌てたぜ。それでビールを一口だけ頂いて、急いで部屋に戻ったんだ。
そうしたらね、俺の部屋の禁断の扉はいつものように開かれたままだし……。扉の向こうの部屋では、佳那瑠がゆったりとテレビを観てたんだ。
俺はもう世の中どうなってるのかさっぱりわからず、ぼーと佳那瑠のうしろで突っ立っていたら、佳那瑠がぽつりぽつりとね、呟くんだよな。
「良樹さん、お隣さんのお部屋にお邪魔したのね。それでわかったでしょ、そういうことなのよ」ってね。
そういうことがどういうことなのか、俺は理解できず、まさに茫然自失。すると佳那瑠がそっと俺のそばに寄り添ってきてね、「もういいんじゃないの、どんな世界で生きようと。だって良樹さん、あなたは第一の禁断の扉を開けてしまったのだから。さあ、私を思い切り抱いてちょうだい」ってね。
俺はもうどうなっても良いと思うようになってしまってね、何か狂ったように佳那瑠を抱いてしまったんだ。
そんな男女の交わりが終わってから、佳那瑠が俺の腕に抱かれながら、切なそうに耳元で囁いたんだよなあ。
「ねえ良樹さん、教えて上げようか」って。
それで俺は、佳那瑠の髪の毛を撫でながら、「教えてくれよ」って迫ったら、教えてくれたんだ。
「私たちが今いるここは、二つの禁断の扉の間でしょ。だから現実とあの世の中間にあるニュートラルな世界なの」
佳那瑠からの突然の、こんな話しって、よく理解できないだろ。それでただ首を傾げてたら、誘ってきたんだ。
「今の私たち、中途半端なの。永遠の愛はね、もう一つの禁断の扉の向こうにあるのよ。良樹さん、永遠に私のことが好きだったら、そこにある第二の禁断の扉を一緒に開けましょうよ」ってね。
これにはホント参ったよなあ。だって山路隆史のことがあったろ。だから何も答えずに、じっと黙ってたんだ。するとね、佳那瑠は何を思ったのか、ホント、
龍斗、それ知りたいだろ。教えてやるから、ようく聞けよ、佳那瑠が言ったんだぜ。
「良樹さん、あなたの同級生に高瀬川龍斗っていう人がいるんでしょ。彼、イケメン?」ってね。
龍斗、お前は同期の桜で親友だろ、当然悪くは言えないよな。それで、「ああ、もちろんさ。あいつは男が男に惚れるような男で、爽やか系のハンサム男だよ」、そう答えておいてやったぜ。
私は背筋に悪寒が走りました。
「おいおい槇澤よ、勝手に俺の名前を出すなよ」
何はともあれ、文句を付けました。
いやいや、俺が言い出したのでなくって、佳那瑠が勝手にお前の名前を出してきたんだぜ。その上にだ、佳那瑠はよほど龍斗、お前に興味があるようなんだよなあ。
なぜなら、その後、「龍斗さんて、良樹さんよりもっとイケメンなの?」って、しつこく問い詰めてきたんだ。そんなのやっぱり親愛なる友人を立てなきゃダメだろ。
「そりゃ誰が見たって、龍斗の方が俺よりはイケメンだし、仕事もできるし、超カッコ良いナイスガイだよ」
そう伝えておいてやったぜ。
私はここまでの槇澤の話を聞いて、もう頭にきました。ビールをぶっかけてやろうかと、グラスを手にしました。すると槇澤は慌ててに止めに掛かってきました。
おいおいおい、龍斗よ、勘違いするなよ。
これは、お前が新企画のために何か面白いネタがないかなあと言ったものだから、こんな妄想の作り話しをしてやっただけだよ。
お前に感謝こそされ、ビールをぶっかけられる筋合いではないぜ。
私は、こんな槇澤の言葉で、はっと我に返りました。
そうだったのです。これは単に、槇澤の妄想だったのかと。
なあ龍斗、俺のハラハラする物語、面白かったろう。
それにしても、禁断の扉って興味をそそられるよな。お前のネット通販のロイヤルクラブに、『禁断の扉』っていうコーナーを設けたら、そこからどんな商品が飛び出してくるのかな? って、ワクワクして、人気出ると思うよ。
これが、お前と久し振りに会って、これからの我々の人生が波瀾万丈でなく、順風満帆に行きますようにと願っての――俺からのサジェスチョンだよ。
やっぱり持つべき者は、ホント、友達なんだよなあ。
槇澤はこんなご託を勝手に並べて、話しを締めくくったのです。それから私は頭を冷やし、あとは他愛もない世間話をしました。
それでも槇澤は別れ際に、ちょっと気になることを――、「龍斗、俺はお前のアパートには絶対に行かないからな。よろしくね」と、モゴモゴと口籠もりながら……。
それから夜の闇の中へと消えて行きました。
まあそれでも、私は友人の槇澤良樹と再会でき、楽しい一時が持てたものですから、気分良くアパートに帰りました。そして酔いもあったのか、さっとシャワーをして、すぐにベッドに潜り込みました。その後は即死のような状態で、寝入ってしまったわけです。
それからどれくらい眠ったでしょうかね、物音で目を覚ましました。
コンコン、……、コンコン。
それは壁を叩く音。
私はこんな夜更けに何だろうかと思い、電気をつけ、音がする方へと近付いて行きました。
「あっ!」
私は自分の目を疑いました。なんと壁に、いつの間にか扉が貼り付いているではありませんか。しかも、その扉には古代蝶鳥の模様が入っています。
コンコン、……、コンコン。
その扉のノックが止まりません。
明らか隣の住人か、それとも誰かが扉の向こうからノックしてきているようです。
私は思わず、「どうされましたか?」と訊いてしまいました。すると、信じられないほどの甘い声で、返事が返ってきたのです。
「ね~え、イケメンの龍斗さん。いいことあるから、ここをちょっと、開けて下さらない?」
私は、槇澤が妄想だよと言っていた作り話しを思い出しました。しかし、実際にこんなこともあるものなのかと戸惑ってしまいました。
だけども、また妖艶な囁きが……。
「ねえ、いいことあるから、ここをちょっと開けて、こちらのお部屋に来てちょうだい」
私は随分と迷いました。
しかし、しかしですよ、やっぱりいけない魔女の甘い囁きに誘惑されて、開けてしまったのです。その禁断の扉を。
それ以来、現実とあの世との間にある世界で、佳那瑠に身も心も埋没させてしまいたい、そんな誘惑に負けてしまいそうな毎日でした。しかし、私は踏ん張りました。
まだ佳那瑠とはねんごろな間柄にはなっていません。
なぜなら、もし関係を持ってしまえば、男女の愛の淵に落ち、挙げ句の果てに、槇澤が山路隆史を殺したように、今度は私が槇澤良樹を禁断の扉の向こうへと追いやってしまう羽目になるかも知れないからです。
されども最近、行く先々の目の前の壁に、いきなり古代蝶鳥模様の禁断の扉が貼り付いたりするのですよ。
確かに佳那瑠は魅力あります。
しかし、第二の禁断の扉、つまり死の世界への扉を開け、佳那瑠に連れて行かれる前に、早くこの状況から抜け出したい。そして仕事に没頭する日々に戻りたい。そんな思いでいた私です。
そして、どうしたらこの第一の禁断の扉を閉じる、いや、なくしてしまうことができるのでしょうか?
毎日、一所懸命考えました。そして、やっとその答が見付かりました。
この禁断の扉を、早く誰かに。
そうです、佳那瑠が好むイケメンに……、譲ってしまおうと。
しかし、不思議なんですよね。
佳那瑠という女、不可解な世界で生きてるようですが、私は以前からの知り合いのようで、女友達というか同志のような気がしていました。
この禁断の扉の出来事は、あとからわかることなのですが、これから始まる物語の単なる序章であったわけです。
つまり禁断の扉の後、実に不可思議な出来事がまるで堰を切ったかのように起こって行きました。そして私は、最終的にそれらと真正面に向かい合うことが天命だと思い至り、仲間と一緒に頑張っていくことを決意致しました。
さてさて、どういう経緯でもってそうなって行ったのか、その物語を、まことに秘密事項ですが、今回この場を借りて皆さまに御披露させてもらいます。
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