ミカは全てを俯瞰する
☆モノローグに似た星は始まる
明星の亡骸を抱えながら、しばらく昴流はじっとうずくまったままだった。
おとなうものはない。虫の気配すらもなく、灯り取りの炎が燃える微かな物音が耳に聞こえるばかりだ。ただ、静かな夜が広がっていた。
どれだけ時間が経っただろうか。
やがて流れる涙も枯れ果てた頃、不意に壁際で燃えさかっていた松明がばちりと派手に音を立てて爆ぜた。
「やあれ。ようやく、終わったか」
唐突に聞こえた声に、ぎょっとして昴流が顔を上げる。
目の前には、背の高い一人の男が立っていた。しかし彼の纏う簡素な白い衣は、刺繍の多いこの国の装束とは明らかに違う。どうやら兵や神殿の関係者ではなさそうだった。
男は気怠そうな表情を浮かべながら、裸足で昴流を観察するように佇んでいる。金の相貌は見つめる者全てを征するような威圧感を持ち、浮き世離れした雰囲気を醸し出していた。
唖然として言葉を発せずにいる昴流へ一歩近づくと、男は不意に手のひらを彼の足下へかざした。途端、金色の光が昴流の脚先から全身を包み込む。狼狽して体を起こすが、光からは痛みも熱も感じられなかった。
やがて金色の光は、まるで昴流の体の中へ溶けるように消えた。
「お前はこれで、何処へでも逃げられる。今際の望み、しかと叶えたぞ」
怪訝に眉を寄せ、ようやく昴流は口を開く。
「俺に何をした。お前は、何者だ」
「そちらから呼んでおいてその挨拶は結構だな。もっとも、術者はお前ではなかったな。知らぬのも無理はないか。
贄の血は流された。だから私が来たというだけのこと」
男の発言に、昴流は目を剥く。
構わずに男は続けた。
「私は、お前たち人間が『神』と呼ぶ存在。
真名を名乗るには及ばぬ。ミカ、とでも呼ぶがいい」
ミカと奇妙な名を名乗ったその神は、明星の亡骸を一瞥してゆるりと告げる。
「娘は今生での運命を対価に、お前が逃げ延びることを願った。
『禍星に自由を。どこまでも逃げて行ける足を』と。
私は、それを叶えに来ただけだ」
「そんな」
言葉を詰まらせ、昴流は先ほどの明星の言葉を思い出す。彼女の言っていたまじないとは、このことであったようだ。
明星は、昴流がどこまででも逃げられるよう、どこまでも好きなところに行けるよう、ミカに願いを託した。
本来であれば彼の国を滅ぼすはずだった神の力で、明星は昴流を救ったのだ。
「……そうか。けれどもようやく彼女は解放されたのだな。囚われ続けたこの運命から」
「それは、どだい無理な相談だな。娘の因果は、むしろこれからだ」
無理矢理に自分を安堵させるように言った昴流の言葉に、しかしミカはすげなく答える。
「確かに、そなたを逃がすという望みは、今の事切れと共に成された。
だが。これまでに成した所業の対価は今後、来世で払い続けねばならない」
「これまで成した所業……?」
「お前は気付いていないだろう。当然だ」
ミカは明星の傍らに座り込み、彼女の傍らに転がる椿を手に取った。
ふう、と息を吹きかけると、椿はすっと茶に色褪せて散る。
「来世の運命を対価にして、娘はこの運命を繰り返した。
幾度となく、何十回何百回と、お前と娘が出逢ってお前が死ぬまでの運命を繰り返したのだ。お前が生き残る、その道を探し続けて。
そしてようやく望みを成した今世、初めて娘は別のことを願って、今の生を終えたのだ」
「……どういうことだ」
「お前は今世、死ぬはずだった。娘が全てを
それを娘はねじ曲げた」
愕然として昴流は言葉を失った。
腕の中の彼女に視線を落とすが、しかし光を失った瞳は彼を見返すことはない。徐々に失われていく体温がとうに彼女は此岸へ旅だったことを突きつける。明星を抱えるその手もまた、冷たい。
「……これ以上囚われて、どうするというんだ。
俺のことなどよいのだ。俺が、お前を、救いたかった」
目を閉じ、血が出るほどに唇を噛みしめる。だがどんなに願ったところで、彼の言葉が彼女に届くことはなかった。
やがて顔を上げると、昴流は唸るようにしてミカへ問う。
「お前は、何者だ」
「言っただろう。お前たちが神と呼ぶ存在。ただし、大いなる力にはまつろわぬ神の一柱だ。
そして私は、人が『運命』と呼ぶ流れのことを、ほんのすこぅし、いじれるだけのこと」
「俺を助けた対価に、今度は彼女の命を奪い続けるというのか」
「欲しいのは命ではない。『運命』だ」
ミカは音もなく立ち上がった。衣擦れの音すらさせない。今、昴流の目の前にいる姿すらも神の見せる幻なのかもしれなかった。
「私が直接、生を奪うことはない。
だが、娘は今世に似た力を伴う運命を背負い続けることとなる。
力には対価が要る。強い力にはより強い対価が要り、それ故に非業な運命を引き寄せやすい。その星の元に、今後生まれ続けることになるというだけだ。
繰り返しやり直した運命の数だけ、娘の運命は絡め取られる。いつ終わるのかは分からぬ。もしかすると、星の命よりも長く続く苦行かも知れない」
鳥籠の中で生きる囚われの運命から自由になることが、彼女の望みだった。
けれども、今の人生が幕を閉じたところで彼女自身の望みは遂げられない。
彼女は、囚われる続ける運命から逃れられない。
一体どれだけ続くか知れない運命から。
終わるという保証もない運命から。
「彼女を救う手はないのか。彼女が俺を救ったというのなら、俺もあんたに対価を払えば、彼女は」
「止めておけ」
皆まで言わせずミカは遮る。
「お前が繰り返したとて、次また娘が繰り返すだけのこと。無駄な連鎖は止め給えよ。
それに、私もいい加減に飽いた。そろそろ先へ進みたい。呪いにも似たその祈りは受け付けない」
「俺が願うのは、これじゃない。この時代では、彼女は幸せになれないのだろう」
昴流は再び明星の言葉を思い出す。
殺してくれと祈るように告げた、彼女の言葉を。
ついぞ叶うことのなかった、大切な彼女との約束を。
「ならば俺は、次の生で彼女を救いたい。
一度で駄目なら、何度でも。来世でも、来世の次でも、次の次の次の次も。彼女の運命が解かれるときまで、俺を彼女のところに行かせてくれ。
明星は、俺が好きなところに行けるようあんたに願いをかけたんだろう。俺の生きたいところは、明星のいるところだ。
俺は必ず彼女を自由にすると約束した。俺の運命を、次の生の彼女に繋げてくれ。
そして、俺の運命を対価に今度こそ彼女を自由にしてくれ」
「……面白い」
初めて、ミカは表情を緩めた。
まるで幼子がするように、彼は無邪気に笑みを浮かべる。
「気に入った。その願いを叶えてやろう。
ただし、望みには相応の対価がいる。お前にもそれを支払ってもらうぞ」
ミカはすっと指を伸ばし、昴流の胸元へ突き立てた。
「お前の運命を娘の運命と繋げ、来世でもその先でも、必ず娘と巡り会えるようにしてやる。
ただし。行く先々で、必ずお前が娘を殺すことになる。そして娘を殺した直後、全ての記憶を思い出すことになるだろう。それが、その生でのお前の対価だ。
いつ果てるとも知れぬ非業の運命の連鎖の中で、もしお前が娘を殺す前に今の記憶を思い出し、運命に打ち勝った時。娘を運命から解き放とうではないか」
ミカの示した条件は、ひどく皮肉な運命だった。
来世でまた巡り会っても、昴流は必ず明星を殺す。直後に記憶を取り戻した彼は、その都度、耐え難い絶望に襲われることだろう。
また彼女を救えなかった、と。
まるで今世の終わりをなぞっているようだった。
「娘を解き放てる保証はない。お前が思い出すよりも、星の終わりの方が余程も早いかもしれぬ。
お前が思い出せるかどうかは、お前の執念にかかっている。お前の積み重ねた運命と祈りが、娘を絡め取る運命の奔流を凌駕した時、お前は記憶を取り戻すだろう。これは娘の運命とお前との分の悪い賭けだ。
それでもお前は受け入れるか」
「構わない。それでも一縷の望みがあるなら。
約束を果たすその時まで、俺は彼女を追い続ける」
迷うことなく昴流は告げた。
殺してくれと彼女は願った。けれども、死んだところで彼女を運命から解き放つことはできない。ただ、次の定めが始まるだけだ。彼女を真に自由にすることは出来ない。
それでも彼は、否応なしに彼女を殺し続ける定めを負う。
けれども。
それも、来世に希望を託した彼女との約束であったから。
「他の誰かの所業で非業の死を与えるくらいなら、せめて引導を渡すのは、自分でありたい。
――その血が、来世では希望に繋がるかも知れないのなら」
「その意気やよし。気に入ったぞ、昴流。
願いはしかと聞き入れた」
遠くから足音が聞こえた。予定より時間が経っても戻ってこない巫女に、不審に思って様子を見に来たのだろう。
昴流は彼女を殺めた剣に手を掛け、自分の首元へ突きつけた。
「今生での対価は何だ。どうすればいい。俺の命か?」
「お前の今世の対価は、生だ」
思いも寄らぬ言葉を告げられ、昴流は目を瞬かせる。
ミカは剣を持った手を彼の首から引き離すと、昴流の額を軽く叩く。
「お前の命運尽きるときまで、追っ手から、死から、お前を逃そうとする運命が働き続ける。その時までは無様に生き続けろ。
ねじ曲げられて生かされた運命だ。だから、何が何でも生き抜けよ。死ぬまでな」
足音が近付く。一つではない。複数の足音がこちらに向かっているようだった。
明星を刺し、自分は傷つけることのなかった短剣を携え、昴流は立ち上がる。
「俺は先に行く。忘れるなよ、ミカ」
「違うのもか。かように面白き催しを見逃せるはずがない」
昴流は風のように素早く駆け出す。生前に明星が教えてくれた道を目指して、今世の対価を支払うために。
背後から、ミカの声が聞こえる。
「いつかの来世で会おう、若造よ。その時を楽しみにしている」
肩越しに昴流は振り返った。だが、そこにはもう誰の姿も見当たらなかった。
――苦しむ生は終わりにしよう。俺があんたを殺し続ける。
暗い森の中を縫うように逃げながら、昴流は空を仰いだ。
新月だ。星々が明るく瞬く夜空だが、月夜に比べて幾分暗い。彼の行き先が追っ手に悟られることはないだろう。既に喧噪は遠く、だいぶ引き離していた。
昴流は胸元で、彼女の血を吸った短剣をぎりりと握りしめた。
――自由になれる、その日まで。
そして。
絶望を糧とし、運命は再び回り出す。
暗闇の中で微かに輝く、小さい星のような希望だけを道標として。
エトワールは逃げられない 佐久良 明兎 @akito39
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