第3話:アザレアの花

「なァにをしてるのかなァ、魔女さんよォ」


 青筋を立てた男が私の前に立ちはだかる。

 それが誰かは説明するべくもない。私を拉致した彼だ。


「……そうだな。散歩だ」

「少しァマシな嘘を考えろよてめぇ」


 口をひくつかせて彼は威嚇するように私の顔を覗き込む。


「あんたが脱走すんのはこれで何度目だ? ん?」

「そうだな。22回目か」

「28回目だよいい加減にしやがれ」

「よく数えていたな。マメな男だ」

「心の底からかわいげがねェなあんたはよぉ」


 しばらく睨み合いが続いたが、威嚇にも鋭い眼光にもまったく私が堪えていないことを悟ると、彼はやがて諦めたようにため息をついた。



 確かに私は、逃げるのは得策ではない、と思った。

 だが得策でなくとも、他に策がないのならとるしかない。ぼんやり傷が治るまで待っていれば、そのまま何処かに売り飛ばされるだけだ。大人しくしている理由はない。


 側面はほとんど突起のない壁だ。窓からは確かに逃げられない。足の怪我がなくても私の運動神経では到底無理だった……無駄に死期が早まるだけだろう。

 けれどもドアからだったら、不可能ではない。ここは牢獄ではなくただの家だ。彼の不在時は元より、在宅中にだって隙は生まれる。


 だが現実はそうそう上手くいかない。仕事をしているからか、些細な物音でも気付かれてしまうので、玄関手前の廊下を繋ぐドアまで辿り着けば僥倖。辿り着いたところで、そもそも内扉にはご丁寧に複雑な鍵がかかっているので、解錠を試みる間にすぐ見つかってしまうのだ。どうりで、私を置いて彼が易々と出掛ける訳である。



 こうして私はわずか数日で、28回に及ぶ脱走と失敗を繰り返していた。我ながら無謀とは思う。

 とはいえ。人生はトライアンドエラーだ。

 ……私が言うと、些か洒落にならないけれども。




 なるほど、何度も何度も彼に殺され続けるのは、前世の報いで因果だとは思う。

 だからこそイレギュラーなこの世界で、これ以上彼と下手に関わるのはよろしくない、と思うし。



 私だって。

 好き好んで死にたくはない、のだ。



「諦めろよ、どうあってもお前は逃げられない」


 そして今日も今日とて、彼は手慣れた仕草で私を回収する。

 最初会った時分に言った通り、なるほど彼は『女を手に掛けない』主義らしい。いくら私が逃げようと、怒りはすれど乱暴を働くことはなかった。単に私が大事な商品だった、というのが大きいのだろうけれども。

 ともあれ貴重品であるところの私は、今回も今回とて小脇に抱え上げられ、面白味のない白の部屋へひょいと放り込まれた。


 仕方なしにベッドに戻り、次はどのタイミングを見計らうべきかと懲りずに私が思案しだした時。

 既に去ったと思った彼が、呆れ混じりでこう告げた。


「ったく。せっかくいいものを買ってきてやったのになァ」


 ふわり、と鼻腔をくすぐる香り。思わず私は振り返る。振り返った先、想定よりすぐ目の前にあったそれに、思わず目を見張った。



 そこにあったのは、白に慣れきってしまった視界には眩しすぎる、鮮烈な赤で。



「……これは?」

「アザレアだろ。この前が母の日だったろうが。街で売れ残った花を安売りしてたんだよ。

 仮にも女の暮らす部屋がこれじゃ、あまりに可哀想だと思ってなァ」


 お世辞にも目に楽しいとはいえない、必要最低限だけの機能を有した白い簡素な部屋。衣類から家具までがほとんどが白く染まる中、久しぶりに見た鮮やかな赤に、目がくらむ。



 彼に、私を気遣う義理はない。

 私はただ一時的に保護されているだけで、現状は彼にとっても不本意なはず、だった。

 けれども。一時の些細な気まぐれでも。

 その色彩は、まだ何も憂うことのなかった在りし日を思い出させ、少し心が和らいだ。



「ありがとう」



 彼は、大きく目を見開いて。

 よほども意外だったのか、一瞬、返す言葉を失ったようだった。

 やがて気を取り直したように頭を振ると。



「なァに、ベッラの為ならお安いご用よ」



 けはは、と彼はいつものように笑った。



*****



「……なァにィを、してやがるのかなァ、ベッラ」


 途方に暮れたままの私は、油を差し忘れた人形のようにぎこちなく首だけ振り向いた。


「……料理」

「寝言は寝てから言えよベッドに帰れ怪我人」


 眉間に皺を寄せ、彼は顔をずいと近づけた。


「どういうことだァ? 数時間前まで舐めてもいいくらいだったキッチンが、一体全体どういう有様だちくしょう」

「失敗した」

「失敗ってのは何だ。俺の知ってる概念の失敗なのか。どこの世界に、」


 一旦言葉を切って、彼は呆然と言葉を吐き出した。


「……どこの世界にキッチンを雪山にする女がいるよ」


 目の前に広がるのは、再び白。

 ただしここは私の居室ではなくキッチン。彼が出掛けている隙に、私が忍び込んだものだ。彼が言うように、それはそれは綺麗で立派なキッチンである。

 だが今は見るかげなく、溢れかえった粉で床が埋もれていた。


 特殊な能力をもつ人間と重宝されていた所為で、一つ、迂闊にも忘れていたことがある。

 私はとんでもなく不器用だった。


 これまでで一番の絶望的な表情を浮かべた彼へ言い訳るように、私はおずおずと告げる。


「花を、くれただろう」

「何だ? アザレアだったのが不満か? いっちょまえにミモザが欲しかったってのかよ残念だったなそれは2ヶ月前だ」

「……何の話をしている?」

「てめェこそ何が言いてぇ」


 ぶっきらぼうに言い募る彼へ、私はさすがに小さくなって呟いた。


「礼、……のつもりだった」


 彼の動きが止まる。

 無惨にも犠牲となった材料の山を見やってから、まじまじと私の顔を見つめた。

 しばらくそうして黙り込んでいたが、やがて彼は盛大に息を吐き出す。


「……らしくねェことに手を染めてんじゃねぇよ。だから粉という粉を端からひっくり返す羽目になるんだ。

 あんたは脱走を謀ってその辺のゴミ箱でもひっくり返してるくらいが丁度良い」

「逃げて欲しいのか?」

「ンな訳ねぇだろ殺すぞ」


 一睨みしてから、少しだけ表情を和らげると。

 彼は、軽く手の平で私の頭を叩く。


「気持ちだけ受け取っとくよ。言っとくが俺の方があんたの何十倍も料理は上手い」


 異論ない。

 ……全くない。


「にしても、これじゃ今夜は作れそうにねェな。……仕方ねぇ、軽く済ませるか。

 どうせろくに動いちゃいねぇんだ、お前は腹なんて減ってねぇだろ」


 そう言うと、彼は棚から流れるような手つきでワイングラスを取り出す。


「幸いにしてチーズもプロシュートも無事だ。折角だしなァ、今夜は昔過ぎる昔語りといこうや」


 にやりと悪戯めいた面持ちで彼はワインボトルに手をかけた。


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